2008年4月6日日曜日

漢字を楽しむ

 私は今まで漢字についてどうこう書いてある本を結構いろいろ読んできたつもりなのだけれど、それでもまだ読み足りないらしく、書店でそういう本を見かけるとついつい欲しくなってしまうのですよ。阿辻哲次の『漢字を楽しむ』もまさにそうした本でありまして、先月だったかな? ついふらふらと買ってしまったのでありました。新書らしい読みやすさで、漢字についてのあれこれがよく書かれていて、気楽に読んで理解を深めることのできる、なかなかに面白い本でありました。内容はおおまかにいうと、読み方について、書き方について、そして漢字の持つ造語力(造字力?)とでもいいましょうか、どのように漢字というものは成り立つかについて、であります。私の興味を持っていた、あるいは理論武装をより一層確かにしようと思っていたテーマというのは、ふたつ目の書き方についてであります。書き順やとめはねについての規範、それはいったいどこに典拠があるというのか。あるいは異体字の問題。有名どころでは渡辺の辺、最近話題のトピックでは辻に代表されるしんにょうの点の数など。とりあえず私の見解は決まっているんですが、でも更なる知識をと思ったんですね。いやあ、いやらしい話です。

さて、私の見解っていうのはなにかといいますと、もうお聞きになった方もいらっしゃるとは思うんですが、渡辺の辺など、些細な違いは気にせずにで表記すればいい。辵の点の数は、ひとつでもふたつでも一緒だから、そのフォントで出るのを使ったらいいよ、というものです。なんと乱暴な! ってな話ではありますが、だってよ、字というのはそうでもしないときりがないんです。というのもですね、字形のバリエーションにおいてこと有名なのが辺なのでそれでいいますが、あのやたらある字形、異体字には俗字どころか誤字、戸籍係の癖字というようなものまでが含まれていて、それをいちいち全部、戸籍にあるのが俺の正しい字だから、そいつでやってくれといわれたらきりがない。そもそも字というものは、個人的なものでありながら、広くその言語を使うものに共有される社会的なものでもあるのです。社会的であるということは、すなわち規範を持つということ、字形においてはそれを正字といっています。現代の日本においては、渡辺の辺は辺なのです。あのバリエーションの数々は、辺という字形に集約されるいわばファミリーであって、だからどれをとっても辺で表しうると考えれば、ほら変に拘泥せず辺でいいやって気になるでしょう。ならない? うーん、それはこまったなあ。

いろいろあるバリエーション、それをなくしてしまえっていってるんじゃないんです。むしろ私はバリエーション許容派で、例えばこの本でも紹介される『漢字テストのふしぎ』というビデオ作品において高校生たちが主張しようとしたこと、私は実に大賛成で、木偏ははねないものだからはねれば×とか、そういうのナンセンスとしかいいようがないと思っています。だってさ、習字書道やってる人、特に古典の臨書とかする人ならおわかりのことと思いますが、はねる木偏などざらにある。さらにいえば、書物の、この字の真ん中を通る縦画が突き抜けて、日の頭に接しているようなのも書いたし、横画が一本多いのとかも書いたことがあります。こんな風に、線が多いとか少ないとか、そもそも見たことのないようなかたちとか、そういうのは本当に山ほどあるんです。件のビデオ『漢字テストのふしぎ』で、国語の先生が龍の字、旁部の横画が二本しかない字がどうたらこうたらいいますが、悪いけどそういう字もあります。どころか、むやみに線の数が多い、縦画やらなんやらが加わってるのとかもあって、ほんと一筋縄ではいかない。いうならば漢字というものは、そうしたダイナミズムを内包しているものであって、それを瑣末なこといって、はねだとめだというつまらん話にしちゃあいかんのですよ。

なんかさっきといってること違うじゃないかっていいたい人もありそうですが、最初にいったものは規範としての字、広く共有されるものにおいて使われるべき字の話であって、次にいったものはむしろ書字、字を書くということにおいての諒解であると思ってくださればよろしいかと。つまり、印刷や公的な文書においては正字にならうのがよかろうが、書字においてはむしろもっとダイナミックにいこうぜ、っていうことです。いわば後者は書き振りについて。自分の辺はこれだという人は、それを信じて書き続ければいいし、二点辵はいやなんじゃという人は、一点のものを書けばいい。そして草冠、これを続けて三画で書く人があれば、十をふたつの四画で書く人があってもいいじゃないかってことです。いやね、身内の話なんですが、姪の名前にという字が入っているんですが(夢子じゃないです、もちろん麗夢でもありません)、命名って紙(あれってなんていうんですか?)に印刷された夢の字、草冠が四画なんですね。それを見て父親(姪からしたら祖父)がいうんですよ、あんな字にして気にくわないって。それでその度に、たまたま使ったフォントがそういう字形を採用していただけで、役所に出てる字は繋がった草冠だから問題ない、そもそも繋がってても分かれてても同じ字だからって説明するんですが、理解してくれなくて、何度でもいう。酔うたびにいうんですよ。もうたまったもんじゃない。いい加減いやんなってたころに書店でこの本を見付けて、ちょっと中を見てみたら、素晴らしい、草冠のバリエーションについても書いてある。今度じいさんがまた文句いうようだったら、この本見せてやろう、そう思っていたらぴたりとやみましてね、本の出番はいまだなし。おーまい、なんてこった。でもまあいいですよ、この本、読んで面白かったから、損したなんてちっとも思いません。

以上、書きすぎました。しかもこの本についてじゃなくなってるし。最後に大急ぎで書いておくと、一番最後の章「漢字を作る」はあんまり期待していなかったにも関わらず、すごく面白かったです。漢字を生きて生まれて育つものとして捉えている、まさしくそんな内容で、読んでてちょっとわくわくしちゃったよ。これもまた漢字の持つダイナミズムの一例であると思います。

余談

最近知ったことなんですが、隷書楷書には二種類ある草冠のかたち、明確な使い分けをしている字があるんですね。tonan's blog「著」と「着」はもともと同じ字という記事にて紹介されているのですが、苦と若においては、草冠のかたちが決まってるんだそうでして、おおう、知らなかったよ。今後気をつけたいと思います。というか、漢字は知れば知るほど面白い、もっといろいろ知りたいなあって思います。

  • 阿辻哲次『漢字を楽しむ』(講談社現代新書) 東京:講談社,2008年。

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