2006年3月30日木曜日

HAL — はいぱあ あかでみっく らぼ

 同じ職場で一年間働いてきた人間がこの春で契約が切れてしまいます。春は別れというがごとし。荀子がいったのでございます。君子贈人以言、庶人贈人以財。君子は人に贈るに言を以てし、 庶人は人に贈るに財を以てす。立派な人はものやお金じゃなくて言葉を贈るのだという意味であります。なので私もこれに習って、けれど私の言葉なんぞ贈られたってなんも嬉しくありやしないでしょうから、ものと言葉の間にある、本を贈るのでした。正しい科学の知識を身に付けるのじゃぞという思いをともに、あさりよしとおの漫画を贈りました。科学の知識ということは『まんがサイエンス』かと思いきやさにあらず『HAL』であります。まさにこの本こそは、科学に親しむ大人が正しい知識を得るためにふさわしい一冊である。私はそう信じて疑うところがありません。

読んだ頃合いを見計らって、正しい科学の知識は身についたかねと問い掛けたらば、正しい科学の使い方は身につかんかったという返事があって、なんかぱっとせん受け答えやなあ。それどころか、電波とはなんだ電波とは。と憤慨して見せてはいますが、それこそ狙ったとおりの反応が得られて嬉しいことで、それになにより面白がって読んでくれたみたいだからなおさらです。こんなことを書いたら、はなっから正しい科学の知識うんぬんなんて嘘なんじゃないかというような感じも受けられるかも知れませんが、そういうわけでもないのですよ。これが正しい科学の知識を得るためのよい漫画というのはあながち嘘ではなくてですね、ある程度正しいものの見方のできる人間ならば、表現の裏っかわにちゃんと思いをいたらせてですね、つまりはなにが正しいかわかるはずなのです。危ないのは、なんでも無批判無思考的に、書いてあることを書いてあるまま受け取る手合です。そういう人にはあさりよしとおなんて危なくて勧められなくて、だから私がこの本を贈ったというのは、その人の見識にある程度安心しているという証拠でもあるのです。

と、あさりよしとお自身もそういうスタンスで描いていたんだと思っていたんですが、あとの話になればなるほど正しい知識による突っ込みが頻繁になってきて、そしてきわめつけは新装版のおまけに見える一文「思考停止」 ある種の人間には幸せなのかも知れんが… 世間にゃ迷惑だな、というのを読めば、最初は人の判断力に信頼を寄せていた著者が、だんだんその不信の度合いを強めたのではあるまいなという気もしないでもなくて、だとすれば基本的にはウソばっかりです親切にも書き添えられた断りも皮肉であります。

私は『HAL』の面白さは、科学知識をもてあそんで作った皮肉よりも、神妙面して科学をもてあそぶ人間に向けて投げつけられる皮肉にこそあると思っています。その皮肉とは、思考停止してしまったものへの皮肉にほかならず、これらは徹頭徹尾冷たく突き放されて、氏の科学に向けられるあたたかな情愛とは正反対の質であります。

私はあさりよしとおにどのように思われようが、どのように見られようがなんとも思いやしないけれども、でもそうした思考停止はしたくないと思っています。この漫画は、正しい科学の知識を得るにも有用でしょうが、それにもまして、正しい科学とのつきあい方、つまりは思考をやめないという姿勢を学ぶに適した教材であります。教材といっても堅苦しくなんかない。楽しんで読めばいい。けど、これを楽しんで読めない人もいるかも知れないことはあらかじめ断っておきたいと思います。

  • あさりよしとお『HAL』(Gum Comics Plus) 東京:ワニブックス,新装版,2006年。

引用

  • あさりよしとお『HAL』(東京:ワニブックス,新装版,2006年),199頁。

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