2005年9月18日日曜日

山月記

  きっと私は虎になってしまう。中島敦の『山月記』を読むたびに、この掌編に自分の弱さと言い訳がしっかりと刻まれていることに気付かされて、おののいて、この李徴という男は私であると、息苦しい思いとともに認めないわけにはいかなくなります。

きっと私は虎になってしまう。自分には才能があるとうぬぼれて、そのくせその才能を披露もせずにうちへうちへと引き籠もって、いつかは武者修行に出るつもりさ、ただ今はその準備中だからと言い訳にばかり一生懸命で、 — だから、私はきっといつか虎になってしまうだろうと思います。

人生は、なにもせぬままやり過ごすには長すぎて、しかし反面ひとつなにかに取り組めばあまりにも短すぎると、これは私がここ数年思っていることで、しかしこれは李徴の言葉でもあります。人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い。そして、続く言い訳までもがあまりに私の心中に渦巻くそれにそっくりだからいやになります。

私は山月記に見える人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情であるとの言葉に、私の業のひとつでもあるタロットのとあるカードを思い出し、それは11番のと呼ばれる、一般にライオンを手なずける女性の図像で知られるカードです。私はこのカードの意味するところを、うちなる猛獣、猛り荒ぶる心を御することのできる精神の強さと解釈し、故にそれは私たちをして李徴のようにあってはなるまいとする心の働きということもできるのではないでしょうか。

WizardryにはWeretigerという、人が虎になった怪物があって、私は彼らに出会うたびに、虎になった青年を思いだします。詩人を志した彼の、芸術と人間性との狭間に揺れる心と悔いを思いながら、その哀れな人虎たちを殲滅して、私は今おこなったように、自分の中にいる虎を調伏し、決して放ってはなるまいと、時にしみじみ思います。

引用

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