『人生が二度あれば』という歌を聴いたときに、私は自分の父を思って、その時はまだ仕事に出ていた父でした。仕事に打ち込む人でなく、むしろ仕事嫌いの人ですが、それでも一人で家計を支えて、定年を迎えたのはつい数年前のことです。
母は子育てから手が離れたときに、趣味で絵を描いてみたり、陶芸をしてみたりと、それなりに趣味をする人でしたが、父はそういうそぶりをまったく見せず、私から見たらなにが楽しみかわからないような人です。けれど父の人生も無為ではなく、今仕事から離れて、いったいなにを求めようとしているのか。父の仕事以外の人生とはなんなのだろうと、時に思います。
私も、自分の人生の折り返し地点を過ぎて、いったい自分の人生とはなんなのだろうかと。私はいうまでもなく、妻もめとらず子ももたず、仕事にしても打ち込むでなし、それこそ無為一歩手前の境涯に暮らして、私の人生こそなんだろうと思います。やりたいことは山とあって、けれどそれを成すでもなく、時間が足りない足りないというばかり。けれど、その時間が足りぬという私には、人生が二度あればと望む資格はないのですね。
私はこの一度きりの人生を、一度きりと観念して、がむしゃらに生きないといけない。やりたいことがあるとうそぶくのなら、それをやってみせろという声がどこかから聞こえてきて、なにしろ私は、家族のためでなく父母のためでもなく、ましてや妻子のためでなく、私一人のために人生を費やす仕合せを身いっぱいに浴びているのですよ。それを無為一歩手前で無駄に過ごして、それでもう一度の人生を望むというのなら、その一度きりの人生さえも充分に暮らせなかった人が怒ります。
人生が二度あれば、あの人にもう一度、自分のために生きることのできる時間が与えられたら。これは人生を精いっぱいに、しかし自分のためには充分に時間を費やせなかった人にこそふさわしい願いであると思います。
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