友人が今度やる演奏会のプログラムをどう書いたものかと悩んでまして、例えば原題を載せるとき、英語にするのかフランス語にするのか、あるいは作曲者の出身によって変えるべきなのか、というようなことなんですね。問題となったのはムソルグスキーの『展覧会の絵』で、フランス語にすべきか英語にすべきか、それともロシア語? どうしたらいいんだろう。それにムソルグスキーの表記もMussorgskyだったりMoussorgskyだったり、どっちがいいの、云々という話でした。
こうしたことは、非常にむつかしい問題で、考えれば考えるほど深みにはまって答えが出なくなります。だから、これはという典拠になる資料やポリシーを決めておいて、それに従うのが一番ですよと答えまして、そんなわけで私のネタ本を紹介したのでした。私が普段参考にしている資料というのは、この本『西洋音楽の歴史』です。
私がこの本を参考にしているのは、非常に単純な理由ではあるのですが、著者が私の通っていた大学の先生陣であるからなんですね。なんだよ身内びいきかよ、と別にそういうわけじゃないんですよ。私は身内だとか云々関係なしに、この本を評価しているんです。
この本のいいところというのは、西洋音楽に対する日本人の視点が感じられるところであると思っています。西洋音楽というのは、あらためていうこともないのですが、ヨーロッパを拠点にして発展深化した音楽で、つまりヨーロッパ的な思想や視点がベースにはあるんですね。今私たち日本人は、昔の日本人とはまったく違うといってもいいくらいに欧化された生活を送ってはいますが、それでもヨーロッパ的なるものとは相容れない東洋的日本的なものをベースにしている。クラシック音楽をいくら身近に感じたとしても、やはりどこかに本流とは違うものを私たちは抱えているのです。
私は思うのですが、過去の音楽史というのは、そういう差異みたいなものを感じさせることなく、あくまでも西洋の視点で見ていたような気がするんですね。西洋人が当たり前に考え、感じていることを普遍的なことであるかのように捉え、日本人もそう感じているんだみたいにしてきた。けれどそれはやっぱり違ったんだと私は思います。
比較音楽学や民族(民俗)音楽学が発展していく過程で、過去の、西洋音楽が中央にあり、その中央と周辺の民族(民俗)音楽を比較しようという見方は否定されました。西洋は普遍ではないということが明らかにされて、だからこの本の視点は、西洋が普遍でなくなった時代の目なのだと思います。日本人的視点というのも違うのかも知れませんね。日本も西洋も等価に捉えるという、そういう視点があるのではないかと思います。
さて、私がこの本を参考にすることが多いというのは、やっぱり編著者をよく知っているということも大きいのだと思います。著者の人となりや編集執筆の方針(ポリシー)をよくわかってるから、参考にするにもしないにも、非常にやりやすいわけです。この人のいいたいことってなんなんだろうというのが、なにしろ事前にわかってるんだから、いちいち悩んだり考えたりする必要がないんです。
だから便利、非常に都合がいいんですね。ものすごい個人的な理由になって、ごめんなさいね。
- 高橋浩子,本岡浩子,中村孝義,網干毅『西洋音楽の歴史』東京:東京書籍,1996年。
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