2008年3月31日月曜日

アスペクト2008年3月号

一年ぶりの『アスペクト』。とはいってもここに取り上げなかっただけで、見かければ確保、読んではいたんですが、それでも定期購読しているわけではないから、見落としなんかもあったかもなあと思っています。まあ、それはどうでもいい話。出版者アスペクトの出しているPR誌、これが妙に人を食ったような味があって面白いんです。特に、巻頭の特集にその傾向は強く、ネタとしては割と真面目なんだと思うんですけど、その展開の仕方が妙。編集者や書店員といった本に関わる人に聞き取りするというスタイルなんですが、いらんやり取りが書かれていて、めちゃくちゃ面白い。だから私は、なにをおいても特集は読みますね。と、ここで本題です。『アスペクト』2008年3月号の特集は「おっさんと読書」。本を読まないといわれるおっさんに本を読ませるにはどうしたらいいだろうかという、問題提起であります。

しかし、なぜ「おっさんと読書」にそんなにもひかれたのか。いや、そうじゃないんです。この問題提起を受けて思うところがあったのではなく、むしろその内容です。ちょっと引用してみましょう。書評家という肩書きで永江朗氏答えていわく:

いま、時代小説が人気です。歌舞伎みたいなもので、しゃべり方も枠組みも決まっている。殿様か町人かの違いはあるけれど、キャラクターとかシチュエーションも全部決まっている。その中で微妙な違いでやるのって、きっとおっさんにはぴったりだと思うんですよ。

さらにもういっちょう:

「新しいものを吸収するのは疲れた」という人は、設定が全部用意されているものに入りこみやすい。そういう前提で考えると、時代小説のショートショートというのは、いままでにない。

上の文章のキャラクターとかシチュエーションも全部決まっている。その中で微妙な違いでやるというくだり、これを読んで、ああ、いわゆる萌え四コマに寄せられる感想そのものだって思ったんです。

まんがタイムきらら』とか『まんが4コマKINGSぱれっと』をはじめて読んでの感想や、あるいはこういった雑誌に載っている四コマに対する否定的な評に顕著なのが、どれを読んでも同じという文言です。確かにそうかも知れません。似た形式、構造、パターンを持つ漫画は確かに多い、それはわかります。けれど、違うのは絵柄だけ、かわいい女の子がいるだけでお前ら満足なんだろ、だなんていわれたら、それは違うと答えます。ちゃんと違いはある。形式、様式もろもろは似ているけれど、そこには確かに差異があるんです。明確に言葉にして説明するのはむつかしいのだけど、感じ取れる空気、雰囲気、感触にちゃんと違いはあるのだよといいたい。ええ、少なくとも連載されてる多くの漫画から、頭ひとつ抜けて、その面白さを認知させているタイトルは、それだけの違いというものをもって、読者に自分の存在を誇示しているんです。

けど、熱心な読者以外、それこそ一見さんやちゃんと見ようとしてくれないアンチの人には、その差異が際立ってこないんですね。だからなおさら駄目なジャンルに見えてしまう。こうした向きを説得して、面白さを知ってもらおうだなんてもうちっとも思わないけれど、でもキャラクターとかシチュエーションも全部決まっている。その中で微妙な違いでやるといわれるような特性は、時代物ならずとも、これら四コマにおいても同様であるのだろうなあと感じた。だから、件の文章にはくるものがあったのですね。

参考

さて、二つ目の引用から気になる部分。DV系四コマにおいてはキャラクターやシチュエーションが決まってしまっている(部分もある)ということを認めてしまった私は、「新しいものを吸収するのは疲れた」という人は、設定が全部用意されているものに入りこみやすいという言説も認めなければならないのかなあ。実は悔しいことに、私はかなり疲れた状態で四コマにたどり着いたという経歴を持っているんですが、でも私のいう疲れたは、漫画そのものに疲れたというよりも、漫画を取り巻く売らんかな主義、メディアミックスやらなんやらでどかどか出る関連商品に疲れ果てたわけですから、ちょっと違うと思いたい。

参考

萌えと呼ばれるものと四コマが結びついて、こうまで広がったのは、なにも『あずまんが大王』がヒットしたからではなく、ましてや雨後の筍、二匹目の泥鰌狙いがぼこぼこ出たからでもないと、私自身は思っています。『あずまんが大王』がなかったら、別のなにかが出ただろう。時期こそはわからないけれど、いずれきっとそれに準ずるヒット作が出ただろうと思っていて、そしてその後に続く類似のものが、広くジャンルを形成しただろうと思っているのです。なんでそう考えるかというと、四コマという形式と萌えと呼ばれる様式は親和性が高いと感じているからです。

萌えと呼ばれるもの — 、キャラクター性やシチュエーションの魅力を見せ、展開するためのプラットフォームとして、コマよっつを一区切りにして畳みかけられる四コマ漫画の形式はすごく理想的です。キャラクターそのものがテーマとなりうる舞台において、キャラクターは当然自身のキャラクター性を表現することが求められるわけですが、その表現するという行為はテーマの提示展開だけでなく、キャラクターやシチュエーションの説明、そしてキャラクター性そのものを強化していく手段としても機能するわけです。もちろんこういったことはコマ割り漫画でも見られるのだけれど、四コマ漫画の合理性には及ばないだろう、ましてや循環のうまくいっている四コマの効果は絶大だ。こんなことを私は考えているのですね。

けれどそうはいっても、あ、話は戻りますよ、まとまった時間がなくて本が読めないおっさんには時代小説のショートショートがうけるはずだという意見を見て、ああ、なんのかんのいっても、DV系四コマを好む人たちも時間がないのかも知れないと思ったんですね。生活が忙しい、慌ただしいからなのか、次から次へリリースされる雑誌、漫画、ノベル、アニメ、ゲームを追うのに汲々としているからか、それは私にはわからんことです。ですが、一人一人は自分自身の状況を見て、思い当たるところはあるんじゃないかなと、そんな気もして、じゃあ私自身の場合は? やっぱり時間はないと思う。けど、四コマを読みはじめたのは、隙間時間に細切れで読めるから、ではなかったのも事実です。四コマを読みはじめた時の私にとって、四コマというジャンルには、少なくともそれまで知らずにいた魅力があった、それが全てであると思いたい。そして今は、と問われれば、それを知りたいがためにこうしていろいろ書いているんですと答えます。

引用

  • 『アスペクト』2008年3月号(2008年3月15日発行),7頁。
  • 同前。

2008年3月30日日曜日

ドージンワーク

   この漫画がはじまった時、まさか後にアニメ化するだなんてまったく思いもしなかったどころか、そう長くないんじゃないかなどと失礼きわまりないことを思っていたのが懐かしい。そうなんですね、自分にはあまりピンとこなかったのです。ちょっと硬めの絵、表現はどことなくこわばった印象をあたえたものですし、描かれる内容にしても特に真新しいものでなく、だからどうだろうと思っていたら、私の見立てはいつだって外れますね。人気が出たのですよ。表紙を取るようになり、さらにはアニメ化されて、限定版だって出ました、アンソロジーだって出ました。はあ、すごいねえと私は感心して、確かに面白かったものなあ。そう思いながら、実は今なにをどう書いたらいいかわからなくて困っています。

今日、これを書こうと思って、単行本3巻のシュリンクを外したのですよ。つまり眠らせてしまっていたということなのですが、連載時に読み、そして単行本になった時に、同時発売される他のものを差し置いてまで読もうとは思わなかったということなんです。読んで見て、面白いなと思うんですが、それならそれを思ったままに書けばいいのに。なのにそれをしない。どう書いたらいいかわからないんです。私にとってこの漫画は、妙に感情移入を阻むところがありまして、変わり者、変態といってもいいのかな? ばかり出てくる漫画なんだけど、その彼らのおかしな言動がその瞬間瞬間に私をくすぐって笑わせてくれることはあっても、驚くほどにあとに残りません。この漫画と私のあいだには、なにか緩衝地帯とでもいえそうな隔たりがあるようで、近寄ろうにも近寄れない、そんな気がするんですね。

実をいうと、ジャスティスと星君が好きでした。二人はライバル? なのかどうなのか反発しあう仲で、変態っぽいんだけどあらゆる面で恵まれたジャスティスと、真人間からどんどん離れて駄目になっていく星君の対決にならない対決。駄目になっていくといえばヒロインのなじみや、なじみのライバル? かねるなんかもそうだけど、このどんどん駄目になっていくというのがいわば面白さの根幹かと思っていたら、なんだか妙にわかりやすい決着をしてしまうんだなあ、そんな印象が残っていて、そうした展開からは、同病相憐れむ感じのやれやれ感、近しさよりも、なんかすでにできあがったものをあらすじで伝えられたような、かけ離れた感じしか得られなくて、なんだろうなあ、もっとのめり込む展開だったらよかったのかなあ。

と、ほら、こんな風になっちゃうから、書くに書けなかったのです。

序盤、同人を儲かる市場と勘違いして飛び込んで、目論見の外れたことを知るなじみ。あのころが、私には一番面白かった。だから、あの時に書いておくべきだったなあ、そんなこと思っています。アニメ化の果てに抱き枕カバーまで出てしまった今、私にはあの時に感じていたことを思い出せず、つまりはなにを書いたらいいかわからない。むしろ今は、この漫画の対象とする層に私は含まれていないのね、と妙に納得した思いでいて、けれどこの流れについていけないことに、ちょっとした悔しさも感じているようだから、複雑なんでしょうね。

この感触なにかに似てるなと感じて、思い出したのが『おねがい朝倉さん』でした。かつて面白いと思ったけど今はなにか遠巻きにしているという感覚。けれど『朝倉さん』は雑誌まで買わせる勢いでしたから、それに比べれば『ドージンワーク』はずっとましではあります。けれど、理解されない、理解できないということは、どう言い繕ったとしても残念なことには違いないと思います。

  • ヒロユキ『ドージンワーク』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • ヒロユキ『ドージンワーク』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • ヒロユキ『ドージンワーク』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年;限定版,2006年。
  • ヒロユキ『ドージンワーク』第3巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • ヒロユキ『ドージンワーク』第4巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • ヒロユキ『ドージンワーク』第4巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年;限定版,2007年。
  • ヒロユキ『ドージンワーク』第5巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。

2008年3月29日土曜日

雅さんちの戦闘事情

  この人は設定を作るのが好きな人なのかなあ、きっと作らないでは気が済まないんだろうなあ、みたいなことは『魔法の呪文を唱えたら』で書いた時にもいっていましたけど、どうやら設定を作るのではなく見るのも好きでいらっしゃるようです。後書きにて曰く、僕は単行本の巻末にオマケとかたくさんのってるのが好きなのでとのこと。掲載されたのは設定資料集的なものだったのですが、ああ、確かにこういうの好きです。設定資料というか、こぼれ話というか、こういうの読むのって確かに楽しい。制服のラインが地味にきついとか、そういう話、大好きです。

『雅さんちの戦闘事情』も第2巻に入り、内容も第二部に移りました。第一部では巨人と呼ばれる謎の敵を相手に戦う、ちょっとエヴァンゲリオン的な匂いも強い展開でありましたが、第二部に入ってからは戦いという要素は薄くなり、ともない雅さんちの影も薄くなり、すっかり女巨人のほのぼの生活ものになってしまいましたとさ。一部のころの雰囲気、戦いの中にどたばたとしたコメディをやり、最後に必殺技で締めるというのが好きだった人には、ぬるすぎる、こんなん駄目だという人もあるかも知れませんね。けど私は今の状況、結構気に入っています。主人公が出ないこともネタにしつつ、むしろそういった設定、枠組み無視するように、楽しんでキャラクター動かしてますといったようなのりがいいなと、そんな風に思っています。

でも『キャラット』本誌では、いよいよ話が動きそうな気配を見せているから、今のほのぼの状況は押し流されてしまうのかもなあ。これはストーリーを持つ漫画の宿命なんでしょうが、物語というものは終わりに向かおうとする力を内部に抱えているから、いずれ動かないでは済まないわけで、それに読者も動くことを期待しますからね。ほのぼのは停滞を好むみたいだけど、物語はそうはいかない。だとすると、作者はこの漫画にどういう落ち、決着をつけようと思っているんだろう、それが気になります。

敵方があんまりに描かれすぎちゃったかなって思うんですね。敵は敵として悪辣なまま、あるいは不明なものとしてあれば、いなして、しばいて終わりなんでしょうが、ああまでほのぼのに、いいやつに、愛すべきキャラクターとして描かれてしまうと、情も移るわけですよ。それで戦いに移行するというのはつらいなと。これがコメディではなく、強烈にシリアスなものならよかった。けどなあ、つらかないかね。なにしろ作者が漫画の中で、みんななかよし完結をネタにしてしまっているから、いくらなんでもこれは使わないだろうなあと思うんですが。といったわけで、この先に関してはちょっと期待です。

でも、正直私はこの作者にストーリーの展開うんぬんという要素は求めていなかったりします。これまでも、今も、これからも多分そうだと思うのですが、だとしたらなにを求めているのかというと、まさしく今が楽しければいいという超ショートレンジのノリの面白さです。私は、この人の漫画は、描かれるものの中に楽しみの軸がきていないと感じていて、じゃあどこに軸があるのかというと、描かれる枠組みを少しそれた外側、取り巻く周辺、です。キャラクターやストーリーといった本来の内部に対して向けられる視点、本来なら外部にあるべき主張が非常に強くてですね、ある意味内輪受けなんです。外部的なものを積極的に取り込みながら、その時ならではのボケ、突っ込み、かき回しをやっている、それがなにより面白いと感じるのです。だから、この漫画の外部的視点と一体化することをいとわないなら、きっと楽しめる。そういった読み方が気持ち悪いという人にはきっと耐えられない、そういう漫画なんではないかと私は思っていて、だから私がこの漫画のはじまった当初、どうにも受け付けなかったのは、その取り込まれることを嫌がったからなのだろうと思っています。

この漫画は、内に外部を導入することで面白さを生み出していると私は思っているから、本来の内部に対してはそれほどの期待をしていないのです。さらにいえば、この漫画を取り巻いている本当の意味での外部、他の漫画との交流なんかも面白さを生み出す要素になっていると思うから、雑誌で読んでいない人は面白さを幾分減じられた状態で読むのだろうなって思って、そうだとしたらちょっと残念ね。けどこれに関しては、『きららキャラット』を読んでいない私の感想はわからないわけだから、本当に面白さが変わるかどうかは不明。いや、きっと私は内輪に入れないという気持ちのために、忌避したんじゃないかなあ。そんな気がします。

なお、白状しますと、私がこの漫画を気にしはじめたのは、『火星ロボ大決戦!』にて突然現れた鬼八頭ガッカリ!なるフレーズがきっかけでありました。さらに加えて白状すれば、その頃私は、鬼八頭と書いてキハットウと読んでおりました。キハットウガッカリ。正しくはオニヤズガッカリです。

  • 鬼八頭かかし『雅さんちの戦闘事情』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 鬼八頭かかし『雅さんちの戦闘事情』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

引用

2008年3月28日金曜日

看板娘はさしおさえ

   看板娘はさしおさえ』も3巻が出て、いよいよ深まってきたなあという感じであります。深まる。いったいなにがかといいますと、情愛とでもいったらいいんでしょうか。家族の情、それに友情なんてものもありますか。知りあって、なじみになって、ほだされるままに深まりゆく情の行く末。私はこの作者、鈴城芹の描く漫画は『さしおさえ』の他には『家族ゲーム』しか知らないのですが、しかしこのどちらも巻が進むにしたがって、情の描かれること濃密さを増して、すごいことになってるなあなんて驚かされるわけです。けど、それでも見失わないベースみたいなものがあるから、情に流されるということがなく、そして溺れることもなく、情の触れ合い、絡み合うその様子に揺れる心情が安定して描かれて、うまいなあと思ってしまうんですね。キャラクターといういわば絵空事、けれど彼彼女らの感じた情、それが伝わる気がする。うまいなあと思うんです。

その情の現れるところ、表情であり、言い回しであり、振舞いであり、そして人と人との関わるところであろうかと思います。読んでいるこちらの心に表面に、ざらつきを残すことがある。そのざらつきは、違和感や不快感といったものではなく、確かになにかが触れていったという実感とでもいったらよいでしょうか。そのなにかが触れたという感触が、心を騒がせ、ざわめかせ、波立たせるまでに広がって、そしてそれは長い時間をかけて丁寧に積み上げられた末の結果であるから、より深さを感じさせることにもなるのです。私のうまいと思うのは、その過程にあざとさという評価の立ち入る隙がないというところです。漫画の人物の心を大切に扱って、傷つけぬように、突き放さぬように、きっと救いもあれば、報いもあると、そう思わせてくれる落とし所に導いてくれる、その安心感がありがたいと思います。いい話しすぎると思う節もあるかもね。けど、いやな話なんてわざわざこうして読みたいなんて思わないじゃない。シビアさ、シニカルさをフレーバーに、湿っぽさ隠しながら、情の行き交いを味わわせてくれるのは、嬉しいことだねって思います。

この味わいをさして、現代の人情ものっていってもいいのかも知れませんね。実際の話、第3巻、十世の姉とみを巡る話は、ほのぼのとしたコメディに見せかけて、それだけにとどまらない大きなものを描いていたと思います。家族、本当の家族と疑似家族、それぞれの繋がりをうっすらと対比させながら、そのどちらもを大切なものとして引き受けるにいたるまでの心の物語は、葛藤、確執をはらんで、静かながらも劇的で、そしてそこにも人の情があったのですね。十世の、いつもは見せない意固地なさまは、そうでもして突っ張らなければ収まりのつけられないほどにわだかまりが大きかったんだろうなあ、涙を絞ったよ。冒頭の描き下ろしについてもそう。人の心にはいろいろな面があり、明るく笑う笑顔の裏に、また違った層がある。当たり前のこと。当たり前のこと。けど、その当たり前を鈴城芹は、ちょっとの憂い帯びた表情と、言葉の綾でもって、ああもうまく見せてくれる。人の情の機微に気付かせてくれる。そしてそれは、この人がそれだけの情の揺れ動きを感じ、見つめ、そして忘れないようにしてきたということなんじゃないかと思います。もしこの想像があたっているのだとしたら、この人はすごく愛らしい人なのかも知れない、そんな風に思います。

情というものは割と厄介で、うかつに踏み込めば抜け出せなくなる泥沼だけれど、この作者は引き際をわきまえているようにも思われるから、ずぶずぶにまでははまらない。それは他のネタにおいてもそうかも知れませんね。思いっきり踏み込んでいるように見せても、これ以上いったらもう駄目という手前でとどめてくれる。だから余計に私は、この漫画によさ感じるのだと思います。身を委ねても安心と、そうした感じを得ているのかと思います。

余談

上につらつら書いたようなこと思ったのは、五十鈴ちゃんの台詞、お母さんのそういう所キライ!! を読んで、感じるところあったからじゃないかと思っていて、なんていうんだろう、あれくらいの年ごろって性的なこと、自分が徐々に性的存在になりつつあること? に嫌悪したりするけど(いや、男はどうだろう)、そういうのがよく現れされてるなあって思ってなんですね。そういう心情のもろもろ、よく覚えていらっしゃるんじゃないのかなって。それも生々しい体感としての記憶、そんな覚え方されてるんじゃないのかなって。そんなこと思いながら読んだ3巻でした。

そうそう、この五十鈴ちゃんの台詞は、ともすればやり過ぎで鼻につきかねないお母さん、桜子さんの傍若無人な振舞いを一度に押さえるカウンターとして機能して、無害化とまではいわないけれど、ずいぶんと緩和してしまったと思っています。同様に、五十鈴ちゃんの鼻につきかねない部分、お父さん、匡臣さんにやたら厳しい部分ですが、これは十世ちゃん、さえちゃんの方面からと、それからほかならぬ五十鈴ちゃん自身からもカウンターがあるから、やっぱり無害化されています。こういうのはほんとバランス感覚のなせる技かと思います。

引用

2008年3月27日木曜日

天然女子高物語

  門井亜矢の漫画はなんか変に脱力しているというか、微妙な緩さがあって、時折作者にやる気あるのかどうか疑問に思ったりもするのだけど、けどその力の抜け具合が妙に面白かったりするものだから、あんまり問題とは感じません。むしろそれが味といっちゃった方がいいのかも。気の置けない友人と、だらだらしゃべる面白さってあるでしょう。この人の漫画って、そんな感じがするんですね。だんだん頭が煮えてきて、どうでもいいことでも面白くなってくる時間。普段だったら間違っても口にしないようなギャグ、くだらない駄洒落とか、下ネタとか、あるいは皮肉交じりのブラックなジョーク、そんなのを思いついたままにしゃべって面白がってる。気だるい楽しみですよ。でも、それができる相手ってやっぱり限られてて、つきあいの長さ? 腐れ縁? それともよっぽど気が合った? そういった特別な条件が揃ってはじめて得られる楽しさなのかなと思うんですが、だとしたら私はこの人の漫画に、『天然女子高物語』に、なにか特別な条件を感じ取っているとでもいうのでしょうか。波長?

特別な感覚、それを生み出す要因というのがきっとあるんです。こと『天然女子高物語』にはそいつが揃っているように感じられて、くだらない駄洒落、あります。下ネタ、結構あります。ブラックなジョーク、大いにあります。基本すごく緩いなかに、皮肉っぽいネタ、とりわけ自虐はいるようなものがやけにぴりっとしてましてね、ほら、こういう感じさ。あー、もー、わたしはだめなんだよー、これいじょー、がんばれねーよー、だれでもいーから、あいしてるっていってくれよー。みたいなことぐだぐだいってる癖に、具体的に誰さんがあんたのこと、気に入ってるっぽいこといってたよ、みたいにいわれると、えー、そいつはお断りだ! どっちやねん、みたいなのり。

申し訳ない。これ、絶対伝わってないね。読んでる人、意味わからないよね。いやね、わたしはどうもさいきんだめになってまして、かんがえてること、まとめられねーんですよ。ことばになんねーんです。あーもー、だれでもいーから、あいしてるっていいたいんだけど、そのいうあいてがいねーんだよー。管を巻くわけです。で、そのみっともない自分を責めるのね。責めて欲しいのね。でも、本当にそれどうかと思うよなんて諭されると、そういうのは勘弁してっていうのね。わかってるんだ、わかっててやってるんだよ。

そんなのり。わかんないね。うん、私もわからなくなってきた。次いこう、次。

初期の『天然女子高物語』はタイトルにあるように女学生の日常の一コマを捉えて漫画にしましたという、そんなのりがあったのですが、どうも途中から路線変更されたようで、登場する娘たちが固定されて、そして阿佐ケ谷先生がクローズアップされるようになって、微妙に方向性が不穏になった。そんな感じがしています。

女学生メインだった頃は、華やかで賑々しいなかに潜む女の本性、けれど友情も、みたいなそんなのりでいっていたのに、阿佐ケ谷先生とその友人に関しては、女はある程度年取ると化けるのか? そんな感じがするのがおそろしくって、実にいいんですね。友人だけどこの人には負けたくないって気持ちとか、気にしてないつもりで気にしていることが増えている現実だとか、そういうのがほのめかされる(というか、割と直球?)たびに、ああ、なんかいいなあって思えるのです。腹を割って話している感じ。さっきいってた、私ってほら駄目でしょ、っていって笑う感覚。でも、うん、ほんと駄目だねー、っていわれるとむっとする感覚。だから普通はそんなこといわないんだけど、阿佐ケ谷先生の友人、みっちょんならいいそうな気がする……。でさ、癇に障ることいわれてさ、あいつはもう駄目だって、昔からそうなんだ、いやなやつなんだよって、そんなことになって、連絡とらなくなったりするんだけど、ほどなくしたらまたなんとなく普通に付き合ったりしちゃうんだよね。って、これが私のいっていた波長の合う感じに一番近いんじゃないかと思います。

もちろん、この漫画を読んで癇に障るってことはないんです、私は彼女らの関係から外れた、一読者に過ぎないから。でも、彼女らのあいだでは、きっとそんなこともあるんじゃないのかなあ、って思う。微妙な友達同士の距離、 — まだ十代の娘たちの距離、そしてもうじき二十代が終わる娘たちの距離、それぞれ描かれて、それがまた妙にかけ離れているように思われたりもするんだけど、そのどちらにも友情はあって、変わらないところもあるんだねえと、ほっこりする。私はとうに二十代を終えた人間だから、若い娘たちのにぎやかな様子見ていると、ノスタルジック感じます。大学で、新入生のわいわいとはしゃいでいる様子見て、彼女らの時間は私の時間よりも早回しで動いている気がしますと、担当教官と話した時、実は私の新入のころはどうだったんだろうって思ってた。若い人たちを見ていると、なんだか懐かしく思えてくる。『天然女子高物語』にはそういう感傷も隠されているように思います。

昔なじみとの無駄話構成する要素は、ばかばかしいギャグ、駄洒落、下ネタ、自虐と、そして思い出話。昔やった馬鹿を暴露する、よかったこともしみじみと思い出して、そんなこともあったねと笑う。私にとって『天然女子高物語』は、そんな感じの残る、昔なじみの匂いかね、ちょっと特別な感触のする漫画なのでありました。

  • 門井亜矢『天然女子高物語』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 門井亜矢『天然女子高物語』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 以下続刊

2008年3月26日水曜日

PILOT ボーテックス

Letter昨年末に万年筆を買ったのをきっかけに、再び万年筆使う人になったわけでありますが、私の以前万年筆使っていた頃に比べると、今は比較にならないくらいに情報が潤沢で、なんだか振り回されてしまいそうです。万年筆自体がブームらしいとも聞きますし(本当? 私の身の回りで万年筆使ってる人皆無ですよ)、またBlog、サイト等で文具に関する情報を公開していらっしゃる人も多くて、これはいけないわ。欲しくなります。万年筆ばっかり持っても使い切れないからとなんとか我慢している状態ですが、それでも5本ほど買ってますからね。いかんわ。さて、一番最近に買った万年筆を紹介したいと思います。日本の文具メーカーであるPILOTの製品、ボーテックス。価格にして1,575円のお手軽万年筆です。

しかし、これ、非常にコストパフォーマンスがいいんです。とはいっても、私はmasahiro万年筆製作所の内野成広さんに調整いただいたものを買ったので、未調整、すなわち店頭に並んでいる通常の状態を知らないのですが、それでもあえていいたい。このペンはよいですよ。プラスチック製のボディで、ものすごく軽いのですが、それでも筆圧かけずにすらすら書けるんですね。もともとペンというものは、力を加えずペンの重さで書くものだというように諒解しているのですが、まさしくそのように書けるペンであります。

私の頼んだものはF(細字)であったのですが、実際に書いてみて驚いたのがその細さでありまして、いやね、思っていたよりもはるかに細くてですね、国産Fは細い細いといいますが、聞きしに勝る細さであります。こんなにも細いのか! 国産Fの細さを好む人の中には、海外メーカーのペンはFでも太いから困るというようにいう人がありますが、そりゃそうだわ。だって比較にならないもの。しかもボーテックスは、こんなにも細いのに、インクの供給に不安を感じるようなことは皆無で、気持ちよくすらすら書けます。グリップに巻かれたゴムも、軸中ほどにいたるくらいに長いから、首よりも少し上側を握る私には持ちやすい。ああこりゃあいいものを手にしたな。本当にそう思えるペンでありました。

さて、ボーテックスを買ったのは、ただ欲しいからだけではなく、ちゃんとした目的あってのことでありました。4月からペン習字をはじめます。石川九楊の『二重言語国家・日本』にそそのかされるかたちで始めた毛筆は、その後通えなくなって中途でやめてしまいました。けれどこの経験、まったくの無駄になったわけでなく、やはり以前よりもいい字が書けるようになっているんですね。でもさ、それでも中途半端なんです。昔のくせに別の癖がついたような字、綺麗な字ではないんですね。ひとつひとつの字がばらばらで、一貫性なく、繋がらず、けんかしてる。だからこれをステップアップしたいと思った。ペン習字だな。それも通信でと考えた時に、PILOTの実施するペン習字通信講座は非常に魅力的に思えました。字の系統が四種類提示され、そこから自分の好みにあったものを選べるというんですね。そして会費の安さです。年間一括で12,600円。正直、ありがたいですね。気軽にはじめられる価格であると思います。

といったようなわけで、この四月からペン習字をはじめます。調整されたよいペンでもって書くのだから、道具のせいにはできません。あらかじめ、逃げ場をなくしておく。これが私の考える上達のコツです。

2008年3月25日火曜日

Spring Blossoms, taken with GR DIGITAL

Letterこうしたものはベタでいいんだと思うんです。GR BLOGのトラックバック企画、毎月提示されるお題を見て、多分私は無駄にいらんこと考えて、変な方向へ、変な方向へと流れていってしまっているって気がついて、そう、こうしたものはベタに受けるのが一番だと、そう思えるようにようやっとなったのですね。さて、2008年3月のトラックバック企画、お題は春の足音であります。春の足跡、春の訪れを実感させるものってなんだろう。花だな。ええ、ベタにいくと決めた私、今月は花の写真でまいります。

日本語で花といいますと特に桜をさしますが、もともと、奈良時代くらいまでは梅をさして花と呼んだのだそうですね。他の花に先駆けて咲くからだなんていいますが、確かに梅は寒中に咲きはじめ、いよいよ春が来るぞという予感をさせる花であります。

Ume tree

そしてお定まりの桜。

Cherry blossoms

Cherry blossoms

こうした花が街のあちらこちらに咲いているのを見ては、ああ春だ、そう思い、また日本人はこうした花の身近にあるということを喜びにしていると感じるのですね。

そして最後に、木瓜の花をば。

Japanese quince

梅や桜のようには目立たないけれど、美しい花だと思います。

2008年3月24日月曜日

ヨメけん — お嫁さん研究クラブ

 ほへと丸という、ちょっと変わった名前の漫画家がいらっしゃるんですが、私はこの人の描く漫画がすこぶる好きでありまして、なにがいいといっても、その独特の緩やかさであります。出てくるキャラクターの皆善良なこと。にこにことしてほがらかで、前向きで芯から強くて、だから読んでいるだけで、いやさ眺めているだけで気持ちが和んできて、にちにちの疲れも溶けて流れていってしまうは、とげとげしくいらついていた気持ちもすっかり丸められてしまうは、本当、この独特の当たりはなんなんでしょう。間違いなく今の漫画であるんだけれど、過ぎた日の懐かしさも感じさせるような、穏やかで優しくて、人の体温の心地よさを思い起こさせてくれるような、そんな暖かさにあふれているんですね。そして私をなにより捉えるのは、この人の描く漫画の端々に感じ取れる、人とその暮しを愛おしく見つめるまなざしであろうかと思うのです。今日を懸命に生きる人とはこんなにも愛おしいものなのかと、私のような心の凍えた人間にも思わせるのですから、本当に貴重な、それこそなくなってもらっては困る、大切な漫画であるのです。

(画像はほへと丸『ひだまり家族』)

しかし、ほへと丸という人は、ただ微温的な漫画を描いて満足しているような人ではなくて、暖かさと愛らしさがないまぜになったような世界をベースに、ちょっとシニカルなネタ、ナンセンスなおかしみから、思いもかけないありそうネタまで、多種多様な展開してくれて、楽しいやらおかしいやら。突拍子もない発想があったり、しれっととぼけて見せるような人の悪さも見せたりして、けどその向こうにいたずらっぽい笑みが浮かんでいると感じられる、そんな身近さですよ。たまんないです。だいたい『ヨメけん』にしても、部活乗っ取りをたくらんでいた折り紙部ふたりが、部の私物化に成功したひなた先生にすっかり取り込まれてしまっているという、不穏なんだかほのぼのなんだかちっともわからない前提がそもおかしくて、それを支えているのが『ひだまり家族』のヒロインであったルイだったり、そしてルイの従姉妹のカナであったり — 。いろいろな個性がぶつかるでもなくぶつかって、けんかするわけでなく、なれ合いすぎるわけでなく、でもすごく調和してると感じられる、そこが好きなんですね。すごく釣り合いのとれて安定した、いい関係ができあがってるなと思って読んでいたんです。

そして『ヨメけん』、最新号で、カナが地元に帰ってしまいました。びっくりしましたよ。まさかこんな別れが予告もなく訪れるだなんて、思ってもいませんでした。びっくりしたのは、折り紙部残党であるアリカやサトだけでなく、読者である私にしてもそうだし、もしかしたら作者にしてもそうだったのかも知れません。誰よりもヘコんだんだそうですから — 。けどそれもわかる気がします。それだけ、キャラクターの一人ひとりに愛着をもって対していらしたんでしょうね。それだけに、状況を動かすことを決めた、その決意は大きかったんだと思うのです。安定して心地よい状況をあえて動かす。そうした決意は、もしかしたらほかならぬカナの台詞に色濃く反映されていたのかも知れません。

日常をかえる時って
すごくエネルギーいるけど

一度かわった日常は
いつかなじむものなんだよ

だから大丈夫

先生も頑張ればきっと
自分を変えられるよ

たったこれだけの台詞。二コマ、吹き出しにしてよっつ。まっすぐな目をして、ひなた先生に向けて贈られたこの言葉は、漫画の向こう、誌面の向こうから私に向けても投げ掛けられたかのように響いて、ばかばかしいと自分でも思うんだけど、何度見ても涙が出るんだ。見返すたびに涙が出るんだ。どうにも涙が止まらなくなって、それは今変わらなければならないことを理解し、切望しながらも、怖れに縮こまってしまっている私の胸のうちを、あの娘がとーんと打ち抜いたからかと思うのです。鮮やかに、軽やかに、したたかに、けれど優しさが、暖かさが、その一撃にはともなっていたから、痛みはなく、むしろ怯えていた自分がおかしくなるくらい。頑張らないとね、泣いてどうするんだ、顔あげてどうにか笑って見せようとするよな、勇気奮い起こさせてくれる、強くて深い第一級の言葉だったんですね。

『ヨメけん』は駄目な先生を立派な女性にしようという話。隅から隅までコメディなんだけれど、でもその真ん中には人という存在の愛おしさがしっかりとあるものだから、心ひきつけられてやまない。そんな、素敵な、大切な、愛おしさに胸をいっぱいにして読む、最高の漫画であります。

  • ほへと丸『ヨメけん — お嫁さん研究クラブ』

引用

  • ほへと丸「ヨメけん — お嫁さん研究クラブ」,『まんがホーム』第22巻第4号(2008年4月号),91頁。

2008年3月23日日曜日

終末の過ごし方

  二日続けで『終末の過ごし方』取り上げます。いやね、昨日プレイしたDVD-PG版が呼び水になったとでも申しましょうか、寝しなに一から全キャラクリアをしてしまったんですね。といってもスキップ積極使用、既読は全部とばすというエコノミックプレイであります。それだとだいたい一時間ちょいくらいでCGコンプリートできるくらいのボリューム、ちょっと薄すぎる嫌いもないではありませんが、思い立ってまたプレイしたい、あるいはあの世界に触れたい、そんな時に再プレイのハードルが低いというのはありがたいことだと思うのですよ。プレイしたのはDVD版です。そう、馬鹿なことに、私はMSX除いたすべての版を持っているんですね。いや、ほんと馬鹿だわ。

再プレイしたのは、DVD-PG版ではオミットされている部分を確認したかったこともありますが、それ以上にストーリーを追いたい気持ちを抑えられなかったんですね。私にとってのベストである大村いろはルート。もちろん辿って、それから私には少々厳しいキャラである稲穂歌奈ルート辿って、そして宮森香織、バッドエンド、敷島緑と続いて、これで全部。

私にとって大村いろはルートが特別なのは、いろはさんの台詞、

「私が…君を守ってあげる。
この残酷な世界の全てから、君の事を守るの」

「わたしがこの世界でする——最期の約束」

のためであるといっても過言ではないんですが。いや、もちろんそれ以外にもいろいろいいところはたくさんあって、月の誕生説のくだりや、彼女のあまりにも儚げなるさまとその理由、そして投げ捨てられた鍵に彼女の覚悟が見えるような気がするところなど、とにもかくにも好きなんだ。いや、ほんと、まだまだ好きなところあるんだけど、きりがないからやめときます。

このゲームの気に入っているところは、ヒロインそれぞれが受け止めている終末、その思いようの違いがよく表されている、そこであると思うんです。私の苦手という歌奈にしても、終末を迎えるに際して彼女の思っていたこと、それを知れば切なさに胸がいっぱいになって、例えばいつか…… 綺麗って言われてみたいです……とか反則級だと思う。だって、そのいつかのないってことは、誰もが知ってるんだもの。ともあれ、皆が納得しているわけでない終末に、立ち向かうでもあらがうでも、もちろん受け入れるでもなく、ただただ日常を反復することで考えないようにしている、そのように見せている彼彼女らが、それでも内面にはいろいろ思うところを抱えているんですね。それがプレイヤーの選択次第で表に現れてきて、それが切ない、悲しい。あるべき未来が奪われているということの残酷さを思って、それがなにより悲しいんですね。

件のいろはさんの台詞、守ってあげるは香織がいうべきだったのではないか、というのは小池定路氏のおっしゃっているところなのですが、このあまりに際立って特別に感じられる台詞の存在が、私をしてもいろはさんを特別にしているというのは先ほどもいいました(それだけでないこともいいました)。おかげで正ヒロインである香織の影の薄いこと、薄いこと、と思っていたら実はそんなことなくってですね、やはり香織は正ヒロインの位置に置かれているんですね。というのは、香織ルートだけなんです。主人公知裕が自分の得たいと思うものに向かって、自ら行動を起こすというのが。他のヒロインのルートでは、むしろヒロインこそが能動的で、知裕はそれを受け身で迎え入れるだけというような、そんな構図であるんですが、香織ルートでだけ、知裕は自分の意思でもってヒロインに向かっていくんです。だからやっぱり香織は特別だったんだ。久しぶりの『終末』プレイで、改めて香織の正ヒロインとしての貫録を思ったわけですが、つまり過去香織ルートをそれほど読み込んでいなかったってことを白状しているわけですが、いろはさんそして緑ファンとしてはちょっと複雑だぞ。

このゲームは、終末という避けられない悲劇を迎えるにあたり、それぞれのキャラクターが自分の身をどのように処するか、もろもろの思いを決着させることができるか、そういう物語を読ませるものだと思っているのですが、他でもない知裕のもやもやは香織を選ぶことなしには解決に至らないんですね。過去の関係、そして悔い、それらが香織ルートでは寄り合わされて、知裕を走らせる。そうかあ、やっぱり香織こそが知裕の特別だったんだなあ。ちょっと悔しい。なにが悔しいんだかよくわからないけれど、けど知裕も悪いやつじゃないんですよね。これからは知裕のためにも香織ルートを読むことにしたいと思います。

以下、上にもましてかなり余談気味です。

以前、知人が乙女ゲームプレイしている時に、全キャラ攻略には本命に冷たくしなければいけない、ごめんよ、ごめんよ、と心の中で念じながらプレイしているという話をしていたんですが、実は私、他ヒロインとのエンディングを迎えた時の歌奈の絵、これが耐えられないんです。ひざを抱いて座る歌奈、髪形がいつもの結い上げたものでなくなっているところを見て、ああ、この娘は皆の前では無理して明るく振る舞っていたのかもなあ、そう思って、すまねえなあ、ごめんよ、ごめんよ、って唱えてしまって、けどこれは、そう思いながらも歌奈ルートをなかなか選ぼうとしない負い目があるからなのかも知れません。

さらに余談

緑はよいツンデレ。この時代にはツンデレなんて言葉はなかったし、妹ブームなんてのもまだきていなかったわけだけど、幼なじみの年下で、しかもツンデレ。記号化される前のツンデレ的ヒロインとしては実に白眉であると思います(というか、DVD-PG版プレイするまで、気付いてませんでした)。

この人の素直でないところと、それから目つきの鋭さ、好きなんです。だってかわいいじゃありませんか。

引用

2008年3月22日土曜日

終末の過ごし方

  先日、『眼鏡なカノジョ』に触れて1999年くらいの私なら、きっと一も二もなく飛びついていたといっていましたが、その1999年という年は、決して思いつきやなんかで決められたものではありませんでした。他でもなくこの年を選んだ根拠、それはゲーム『終末の過ごし方』の発売された年であったからです。1999年、世界の滅びるという予言の年ですが、もうみんな忘れてるよね。私もすっかり忘れていました。ですが、終末思想は綺麗さっぱり忘れてしまえても、『終末の過ごし方』というゲームの残した印象は忘れるわけにはいかなくて、それは私のこのゲームに向けられた愛着のためであると諒解してくださったらどんなに嬉しいかわかりません。

1999年当時、私はWindowsの動作するマシンを所有していませんでした。まだLC630使ってたころじゃなかったかなあ。風の噂に、ヒロインが全員眼鏡かけてるゲームがあるらしいぜ、なぬーっ! それってどんな桃源郷!? みたいなやり取りがあったかどうかは今やさだかではありませんが、その噂のゲームこそがほかならぬ『終末の過ごし方』で、当然ながら欲しいと思ったのですね。けれどそれはWindows用のゲームであります。なので、存在は知りつつも手にすることはきっとなかろうと思っていた。それが私の1999年という年でした。

Windows機を入手したのは2001年のことであったようです。いや、2000年末であったかも。冬。それは『終末の過ごし方』のために入手したものではありませんでしたが、ですがいずれあの記憶に残るゲームを手にしたいと思って、そしてそれがはたされたのは2001年の8月でした。なにがそれほどまで私に働き掛けたのだろう。ゲームとそしてすでに絶版(出版社倒産)していたために入手困難となっていた『オフィシャルアートワークス』を立て続けに入手することとなって、そして私はその夏、このゲームの持つ雰囲気に打ちのめされたんですね。陰鬱というより繊細で、絶望よりも儚げさが感じられるこのゲームの世界に迷って私は、悲しくて、切なくて、なんだか泣きそうな思いであったのですね。

『眼鏡なカノジョ』で書くにあたって、『終末の過ごし方』の発売された年を調べました。それでDVD-PG版が出ていることを知って、私の行動は実にわかりやすい、買いました。そして到着次第プレイしてみて、ああ懐かしい。小池定路氏の絵も温かみをもって、なんだかそれだけで泣きそうになっている自分もどうしようもないけれど、ああ好きだなこの雰囲気。胸いっぱいに広がる空白に耐えられない自分を自覚している。そんな人には、きっとこのゲームはぴったりだ。そう思ったその瞬間、私は私自身がずっと空白のまま、今の今まできてしまったことに気付いてしまって、ああ、自分という人間は、空虚を吸い、空虚を吐いて生きているのだなあ。あまりの自分の変わらぬことに愕然として、そして空虚をひとつ、ため息とともに吐いたのですね。

関西のあの地震はいつだっけ。あの時、燃える街の様子をテレビで見た時、私は自分自身が生きていることがわからなくなって、それっきり。実際に被災したわけでない私がそんなことをいうのがおかしいことはわかっているんだけど、けれど私は自分の役に立たないことをいやというほど知って、自分が当然のように思って信頼している基盤にしても、実はそれほど強固なものでもないということを理解して、なんだか現実の側との繋がりがぷっつりと切れたみたいになってしまって — 。この気持ちというのは私個人のものであるのは当然ですが、あの時代、多くの人が共有していた気分がこうだったといってもいいように思います。失われた自分と社会との接点を回復したいと思った。けれどそれは回復されたのか。他者との関わりの中で確認される自分の価値、それを見失ったままさまよった人たちは、今、自分の価値を確かなものとして信じられるまでになったのか。私は無理です。私はまだ空白のまま生きています。それでは駄目だと理解しながら、深い穴から抜け出すための最初の一歩を踏み出せず、今も、まさしくこの瞬間も、足踏みするばかりのように思われてなりません。

『終末の過ごし方』は、私にとってのはじめてのDVD-PGとなりました。プレイしてみて、多少出来に荒さを感じないではなかったけれど、例えば、シーン・テイクを告げる声がそのまま残されていたり、台詞が取り違えられていたり。またシーンをまたいだ台詞の間がつまりすぎているなど、残念ながら最高の出来とはいえません。ですが、ナレーションの読み上げられるのを聞きながら話の流れを追う、それは割と悪くはありませんでした。それだけに、男性キャラの台詞が読み上げられないのが残念で、いやね、ナレーションのお姉さんが読んでくれてもよかったんですよ。男性キャラの台詞が完全に空白になってしまうため、読むことをやめることができない。それがただただ残念でした。

とりあえず久しぶりのプレイにおいて、辿ったのは大村いろはルートでした。というのは私はいろはさんこそがこのゲームの正ヒロインと思っているからなんですが、次の週末に世界が滅亡するという現実に、立ち向かうでもあらがうでもなく、変わらぬ日常を送ろうとする彼らの物語において、もっとも過酷な未来に向きあえたように思えたのがいろはさんルートなんですね。誰よりも厳しい状況をあたえられていたキャラクターで、それゆえに誰よりも現実から遊離していた彼女が、主人公知裕と繋がることで、過酷な運命を引き受けようと決意するにいたる。いや、それを口にしたのが彼女であったというだけだったのかも知れませんね。主人公をはじめ、誰もが喪失された自分を持て余していた、その色が一番強かったのがいろはさんだったということなのかも知れません。

このゲームプレイすると、いつも私は思うのです。八週間後に人類が滅亡すると知らされて、彼らは学校という日常を維持すると選んだわけでありますが、もし私だったらどうするだろう。今の私に、はたして最期まで大切に残したい日常っていうのがあるだろうかって思うんですね。多分、こうして八週間、自分の身を振り返って56タイトル抜き出して、文章書き続けるような気がします。って、それまでにネットワークは途絶するか。けど、私は誰が見なくなったとしても、文章書いているような気がします。ギターを弾いて、歌って、文章を書いて、届けられない手紙と公開されないBlog。それできっと最期の日には、『終末の過ごし方』を取り上げるに違いないのです。

余談

いろはさんと呼ぶのは、小池定路氏いわく、

どうでもいい話だが、彼女のことは「さん」付けで呼んで下さると有難い。

とのことなので。愛されたキャラクターなのだと思います。

引用

2008年3月21日金曜日

日本字ペン

 今日、ちょっと呼び出しを受けたものですから、申し訳ないけどお仕事お休みしましてね、京都にいってきました。まあ呼び出しったって強制ではなく、お世話になっている人が、21日京都で人と会うんだけどあなたもいかがって聞いてくださったものですから、じゃあ、折角ですからという感じに受けたのでした。と、ここで、京都に出るんだったら便箋封筒の類い買い込んでおこうと思いつきまして、なにしろ京都には鳩居堂嵩山堂はし本といった名店、いろいろありますからね。この春という季節にあった封筒便箋を揃えて、お世話になっているあの人に手紙を書こう。そんなこと思ったんですね。

便箋一揃えまかなうことになって、そうなるともっと凝りたくなってくる。悪い癖ですね。センスがよければ凝るのも一興でしょうが、決してそうでないという悲しさ。でも、いつもブルーブラックのインクじゃつまらないじゃないですか。たまには色インクも使ってみたい。しかしインクだけでは書けないわけです。ペンだな。しかし、うちには色インク入れられるような余分の万年筆なんてないぞ。つけペンだな。かくして目当てのペン先を探して京都をさまようこととなったのです。

目当てのペン先っていうのは日本字ペンっていうやつなんですが、知らない人も多いと思うんですが、漫画を書く人ならご存じかなあ。カブラペン(最近ではサジペンっていうの?)っていうのがありますけど、それを日本字書くのに特化させた、そんな感じのペン先なんですね。うちにあるのはGペンとスクールペンだけだからなあ。だから買ってこないと。しかしペン先なんて最後に買ったのいつだったか。二十年くらい前? アニメイト京都店がブックストア談の上にあった頃だよ。ええと、今アニメイト京都店って新京極にあるんだっけ? というわけで、京都に着くや否やアニメイト京都店に直行。私の予測では、ここでミッション完了するはずだったんですが、ところがないんですね。Gペンはある、カブラもある、丸ペンは当然ある。しかし、日本字ペンがない。あれー。アニメイトなら完璧だと思ったのに。

予測が外れて、早くも先行きは不透明になりました。なのでまずは便箋封筒を買いましょう。その途中で文具店、画材店もあるかもしれないしと思ったら、それが意外と見つからず、結局はし本の店員さんに教えてもらいました。けどそこは普通の文具店。つけペンなんて扱ってない。ここでも店員さんに問い合わせたのですが、そうしたら新京極下がって蛸薬師西入ったらLoftがありますから、そこならあるかも知れません。ありがとうございます、痛み入ります。Loftは文具売り場にGo。あ、ありましたありました。あ、日本字ペンもありますよ。やったあ。と思ったらさにあらず。なんと日本字ペンはセット売りだったんですね。もれなくGペン、カブラペン、丸ペン、スクールペンがついてくる。加えて軸までついてくる。って、勘弁してください。漫画書くのが目的ではないんで、日本字ペンだけでいいんですってば……。

ここでタイムアップ。待ち合わせの店、スターバックスへと向かったのですが、おや、まだいらっしゃらないようだ。ちょっと待って、けどさすがに遅いな、電話してみよう。今どちらにいらっしゃいます? 烏丸四条下がったスタバです、っておいおい、私いるの烏丸三条上がったスタバだよ……。

ひとしきり話をして別れたあと、京都大丸を経由して、文具店壺中堂に到着。ここで色インクを買ったんですが、ぱっとした鮮やかな色買うつもりが、生まれついての気の弱さがたたって、無難そうな色をば選んでしまい、無難すぎたと後悔しているのは内緒です。さてこの店でも聞いてみたところ、日本字ペンはおいていないとのこと。参ったな。もう疲れたので、ここでカブラペンを購入。けどこのまま上がれば、もう一店舗くらいあるんじゃないか。そう思って、河原町通を御池まで上がってみたら、ああ、ありましたよ。ちょっとおしゃれな雑貨店、angersというお店の文具コーナーに日本字ペンらしきのが置かれていて、でもそれが日本字ペンかどうかはわからなくてですね、いやね、ペン先の種別とかまったく書かれていなかったんですよ。けど、かたちを見るかぎり日本字ペンだよ。あの穴の四角なの見てもそうだよなとは思ったんですが、自信がない。店員さんに問い合わせても、この商品に関しては詳細わからないとの話で、どうしようかと思ったら、ここからちょっと下がったところに京美堂という画材店があると教えてくださって、ありがとう、ちょっといってきます。いってみたら、日本字ペンおいてなかった……。

こうしてangersに戻った私は、件のペン先入手と相成ったのでありました。あ、ちゃんと日本字ペンでした。日光のNo. 555と打たれています。

帰宅後、早速軸にペン先付けて書いてみたんですが、ああ久しぶりのつけペンですよ、こんなに硬かったっけ? 線が驚くほど細くてですね、あれー、こんなにインク出ないもんだったっけ? まごまごしながら書いたのですが、どうもこれインクの癖もあるのかなあ。買ったインクはエルバンのティーブラウン(まさしく茶色ですね)なんですが、これが意外に水っぽく、試しにと出してきたパイロットの黒。これとはインクの出方がずいぶん違うんですね。パイロットは十年ものかな? さすがに煮詰まってしまってるかもなあ。いろいろ思うところあるんですが、とりあえず書いて書いて、ペン先と手をなじませるかなといった感じです。ちょっと線が細くて、神経質に感じてしまいがちだから、もうちょっと柔らかい感じが出てくれるといい。それには落書きでもなんでもいいから書くしかないと、そんな感じなのですね。

2008年3月20日木曜日

眼鏡なカノジョ

 先日、『ふぃぎゅあ — こととねシークレット』について書いていた時に、なんでか知らんけど急にツンデレ風言い回し使いたくなってしまったものだから、手近な雑誌に典拠を求めてみたのですよ。いったいどういったものがツンデレなのか、調べて書こうと思ったんですね。そうしたら出てきたのがししし仕方がないわねぇ! 寅屋が食べたいなら付き合ってあげるわよ!! 残念、シチュエーションにそぐいません。ししし仕方がないからWebに典拠を求めてみたところ、『眼鏡なカノジョ』という漫画はよいぞというお薦め得られましてね、そうか、じゃあちょっくら買ってみようか、って思った。え? ツンデレはどうしたかって? すみません、その時にはもうすっかり忘れてしまっておりました。

昔は眼鏡といえばいけてない、あかぬけないを象徴するかのようなアイテムであったのですけれど、時代の移り変わりがそのイメージを刷新させて、今や男も女も使う、おしゃれアイテムとなってしまいました。おかげで、街で、職場で、テレビで、漫画で、眼鏡着用した人に出会う機会も増えまして、私にしても実に嬉しい話なんですが、けど実はちょっと悔しいというか残念な気持ちもありまして。いや、私の裏道歩きの所以なんです。皆が、眼鏡なんて、と否定的にいっている時に、なにいってんだ、眼鏡いいじゃないか、眼鏡かわいいじゃないか、そういってきた時間が長かったですからね。幼稚園のころからだから、七十年代か! まだ世の中には萌えどころか眼鏡っ娘なんて言葉もなかったんじゃなかったかなあ。

『眼鏡なカノジョ』は眼鏡ヒロインを巡る恋愛模様を描いた短編集です。1999年くらいの私なら、きっと一も二もなく飛びついていたんでしょうね。ですが、最近では見送ることも覚えたものですから、もしさっきいってたおすすめに出会わなかったら、買わなかったかも知れません。だとしたら、きっとちょっと損をしていた、そう思えるくらいに力の入った、良作であったのですね。

なにがよかったか。ドラマだと思います。ヒロインを巡る恋愛模様、ただヒロインが眼鏡をかけているというだけではなく、小道具として眼鏡がよく活かされているんです。恋愛という劇を盛り上げ、引き立てるのに貢献する眼鏡たち。全八編という、決して少なくもない話数に、それぞれに違った個性のヒロインとシチュエーションを持ってきて、バラエティー豊かに眼鏡を巡る恋愛劇を展開するのですが、その物語の描かれ方がよかった。実に丁寧に練られていて、そのため感情の流れもすごく自然と感じられて素敵。眼鏡縛りというギミックも鼻につくことなく、むしろその良質さに引き込まれてしまったんですね。

話の傾向は、スタンダードといえばスタンダード。しっとりと繊細なタッチで、登場人物の心のうちをそっと描きだそうかとするのです。その感触は、派手さはないけれど、しっかりとした手応えを残すに充分なものだったから、読み終えて、充実の度合いがすごいですね。一気に読み終えられませんでした。二編ほど読んで、なんかほうっとため息つくような感じ。二日にわけて読んで、ページ閉じて、よかったなあって、物思う感じ。スローで、けれど鮮烈な印象もあって、若々しい息吹とでもいいたい、そんな漫画であったんですね。

今回は眼鏡縛りであったけれども、きっと眼鏡関係なしにこれだけ話を膨らませることもできたんだろうなと思いながら、けれど眼鏡でなければ成立しないような話もあって、眼鏡ものにして眼鏡ものにあらず、しかしあくまで眼鏡もの、ギミックにとらわれない広がりと深みを、ギミックに見事に共存させたまさしく力作でありました。実によい恋愛漫画、これは確かに買いであったと、一押しくださった方には感謝の気持ちでいっぱいです。

  • TOBI『眼鏡なカノジョ』(Flex Comix) 東京:ソフトバンククリエイティブ,2008年。

引用

  • 佐藤両々「そこぬけRPG」,『まんがタイム』第28巻第4号(2008年4月号),41頁。

2008年3月19日水曜日

少年少女は××する

 表紙で買いました。作者は陸乃家鴨、おかのあひると読むみたいですね。と、ここでいきなり作者の名前を確認しているのはなんでかというと、ちょっと気に入ってしまったといいますか、どうも既刊買い集めコースに入りそうだぞという予感がしているからでして、まあ相当気に入ったってことなんじゃないかと思います。ところで、陸乃家鴨っていうのは成年向けタイトルに使っている名義なんだそうでして、つまり別名義で他のジャンルでも描かれてるっていう話を、つい今さっき知りました。この名義だけでも結構出ているうえに、他名義も! そうなるとかなり骨が折れそうだぞ。なので、まずは陸乃家鴨名義を、全部とはいわず、買いやすそうなところから買っていってみたいと思っています。

しかし、なんで私は陸乃家鴨がよいと思ったのか。それはひとえにヒロインのキャラクターがよかったから、につきるんだろうなあと思うんです。また眼鏡か! というとそうではなくて、キャラクターにとって見た目はもちろん抜き難い要素であることは了解したうえで、加えてその行動、ふるまいが重要なんだろうなとそのように思うんですね。ヒロイン、加納瑞希は、特別目立つところもなく、友達の部活を教室で静かに待ってるタイプの、典型的な文系少女。ああ、如月系? といわれるとさにあらず。悪くいうと考えてるところがよくわからない娘です。ちょいエキセントリック、少々自己完結気味の嫌いもある、でもそこがかわいらしいと思える、そんなキャラクターであったんです。

でもさ、なに考えてるかわからない=電波というわけでもなくて、興味のある対象にまっすぐ向かっていくのはいいんだけれども、なにしろ相手あってのことですからね、普通なら遠慮したりしそうなところが、彼女にかかるとまあもう見事にストレートで、その無垢さがよいんです。エロ漫画的なちょっと都合のいい展開に持ち込むにもよいんでしょうが、なんか無茶いってるけど、悪意やなんかがあるわけでもなくって、ただ単純にそう思っただけなんだよねキャラ。けどそうしたストレートさの裏に、自己完結的思考があるから、主人公黒川麻人は振り回されて、その様も実に面白かった。このへんは読者特権というやつでしょう。瑞希の考えているところも黒川の悩みや戸惑いも全部見通したうえで、彼彼女らの右往左往する気持ちに添う楽しさです。エロ漫画だからそういうシーンは出てくるんだけど、そうでありながらボーイ・ミーツ・ガール的なラブコメにもなっていた、それがよかったんだろうなって思うんですね。ただ、ガールがちょっとエキセントリックなだけで。

エロの傾向があっていたというのも大きかったかと思います。割とノーマル。ただ、女性が振り回すかたちではじまることが多いんですが、ええと、誘い受け? よくわかんないんだけど、あんまり露骨でなく、嗜虐的でなく、ましてや強要ではなく、ラブラブ? まあ、これはなんというか、男性側にとって極めて都合のいい展開であるわけですよ。自分が主導権を持つことで事後の責任を追及されたくないんだね! へたれ受け? いや、攻めなのか。よくわからないけど、自身がそういう傾向にあると自覚する私には、大変によい漫画であったのでした。つーか、困っちゃったね — ♡には確かに困っちゃったと自白しないではおられません。かわいすぎです。

引用

2008年3月18日火曜日

ふぃぎゅあ — こととねシークレット

 タイトルだけは知っていたこの漫画、いつか読まねばなるまいなと思っていて、なぜか? 単純な話ですよ。タイトルが『ふぃぎゅあ — こととねシークレット』。なんと、うちのサイトとちょっとかぶってる。正直なところ、これはレアだなあと思われて、いやね、言葉ふたつ繋ぎ合わせて作った名前です。ちょっと発音しにくいし、キーボード打つ時に、kototoneのつもりでkotototoneになったりするような、そんな有り様だから、あんまりかぶることはないんじゃないかと思っていたんですよ。けど、かぶってしまいました。かぶっているのはこの漫画だけでなく、自分の知っているかぎりいつつくらいかな? こととねという名前の人(?)、もの、団体はあるようで、ちょっとした縁といってもいいものでしょうか。なんだか嬉しく思っています。

さて、『ふぃぎゅあ — こととねシークレット』という漫画、いったいこととねというのはなにかといいますと、ヒロインの名前であるのですね。佐倉琴十音(19歳)、専門学校のフィギュア科に通ってるんだ。へー、それでタイトルがふぃぎゅあなのか。なんていって感心している場合じゃありません。眼鏡ですよ眼鏡。ヒロインはショートカット、眼鏡、ちょっと気弱な娘。って、もしかして私、狙い撃ちされてる!?(被害妄想です) いやしかし、眼鏡ですよ(だから妄想です)。べべべ、別に眼鏡が好きだってわけじゃないんだからねっ!

ともあれ、名前がこととねで眼鏡着用のヒロイン。これはと思わせるシチュエーションが揃って、けれど残念なことに、私にはちょっとのり切れないところがあって、ほんと惜しいなあ、惜しいです。この漫画、端的にいいますとエロ漫画なんですが、ヒロインが割と好みの造形で、しかしこうも乗れなかったというのはなぜなんだろう。ちょっとね、躍動というと変ですが、そういうものが感じられなかったんです。いうならばオートマチック。事前に用意されたエロのパターンにキャラクターがはめ込まれた、そんな感じがして、のるにのれませんでした。あるいは、こととねの相方である絶人のキャラクターがしっくりこなかったのかと。強引な男なんだけど、なんかそればかりで、それ以上の魅力が伝わってこなかったかと思われて、やっぱりエロにおいては女性キャラだけでなくその相方の造形も大きいのだなあ、そう思ったんです。

けど、黒岩よしひろって『変幻戦忍アスカ』の人なんですけど、丁度中学生くらいのころに読んだのかな、ちょっぴりエッチとでもいったらいいんでしょうか、そういうのりがあって、好きだったんですよね。私は友人の持ってた単行本で一気に読んだのですが、これって打ち切りだったらしくてですね、けれど続きを描き下ろして単行本で完結させたという、一種入魂の漫画でした。ほのかな色気というか、ちょっとドキドキしながら読んだ少年時代。今読んだらどうなんだろう。ちょっと別の意味でドキドキしますね。

『アスカ』は変身ヒロインものであったのですが、もしかしたら作者は今でもそうした漫画、変身ものとはいわないけれど、ちょっとSFタッチとでもいいましょうか、そういうものを書きたいと思っていらっしゃるのかも知れませんね。というのも『ふぃぎゅあ — こととねシークレット』も中盤からそうした色が出始めて、最初はそういったそぶりなかったと思うのに、意外というか、ああこうしたものがお好きなんだと思って、残念ながら本格というまでにはいたらなかったのですが、どうしてもエロにページを割かねばならない制約の中ですから、描ききれないんでしょうね。大急ぎという感じもして、それ以上に型にはまりすぎているとも感じられて、やっぱりのれなかった。このへんもちょっと残念なところでした。

でも、昔好きだった漫画を描いていた人が、今もこうして描いていらっしゃる、それは嬉しかったかなと思っています。ちょっとノスタルジーが過ぎると思うけれど、藤子不二雄くらいしか読んでなかった私が少年漫画に触れたその頃に出会った、いわば刷り込みみたいなものでしょうか。そのころ思い出しつつ、お元気でよかった、そんな感じであったのでした。

引用

2008年3月17日月曜日

ああっ御主人様!!

ずいぶん前にもいったことがありますが、私は渡辺純子の漫画が好きなのです。代表作はというと、『まゆかのダーリン』がありますね。それから『ことはの王子様』もありますね。どちらも少々恋愛絡めて、どたばたとしつつも、どこかしら温かみの感じられる作風。温かみに関しては、『ことは』のほうが優位かな? 『まゆか』は、当初は姪のまゆかちゃんに迫られてあたふたするりょうさんを見て楽しむ漫画だったのが、今や家族公認両者ラブラブという甘々状況をにまにまとみんなして見守る、そんな漫画になって、そのどれも好きだったなあ。いや、過去形じゃない。今もやっぱり好きなんですよ。なんというんだろう、こんな書き方したらどう思われるかわからないけれど、渡辺純子という人に関しては、心の奥にきちんとその領域が確保されている、そんな感じであるんですね。

私は以前『5-A(ごのえぃ)』について触れた時、渡辺純子の漫画をさして、あざとさを読者と共有する共犯感覚が魅力だと、そんな風なことをいっていました。タイトルによってあざとさのあからさまにされる度合いは違うけれど、どこかに、こんなのが好きなんでしょ? というような要素があるというか、はい、好きです……、って思ってしまうところがあるというか。けどもちろんそれだけでなくて、そうしたけれんの要素、目を引き、くすぐりを入れてくるネタの引いたあとに残る、落ち着いた色合い。漫画の登場人物でしかないというのに、彼彼女らの気持ちと気持ちが確かに触れあった瞬間があったと思う、そういう実感。それがきっと優しさを感じさせる源泉になっているんではないかと思っているんです。

『ああっ御主人様!!』は、渡辺純子さんが機械の体でいらっしゃった頃の漫画。きっちり成年コミックの表示があるのですが、エロ大規制吹き荒れていたころの作、つまり1996年基準ですね。今の成年コミックを基準に考えると、おとなしい部類に入るかと思われます。とはいえ、間違いなくエロ漫画なので、そういうのが嫌いという人は手を出さないにこしたことないでしょう。

さて、ここで『5-A』の記事で触れた好きな順、見直してみましょう。

  1. 『5-A』
  2. 『ことはの王子様』
  3. 『ああっ御主人様!!』
  4. 『まゆかのダーリン』
  5. 『無敵のファニー・ドール』

これ見るとずいぶん『まゆかのダーリン』の評価が低いように思えますけど、それは読み違いというやつでして、だってそもそもが『まゆかのダーリン』いいじゃん! 他のも買ってみよう、という流れだったことかんがみても、『まゆか』時点で結構なプラス評価であったことは間違いない。そして、後発のタイトルが上位に着けているというのは、新しいものに触れるたびにもっと好きになっていったということなんですね。さて、『ああっ御主人様!!』に戻りましょう。この人のエロはあんまり肌に合わない感じといっていたはずなのに、なぜか『まゆかのダーリン』より『ああっ御主人様!!』の方が上位につけているという不思議。なんでだ!? それはですね、やっぱりね、キャラクターの好きというものがあると思うんですよ。

『ああっ御主人様!!』で好きなキャラクター。褐色肌で貧相な胸(を喜んでいる主人公も主人公だ)の魔道士エリスも好きだったのですが、それ以上にはまったのが、主人公に女ができたことを信じられない友人神下が呼びつけた、姉にして超常現象オタクの、え、えーと、名前わからないな、ま、とにかくお姉さんです。

キャラクター造形が素晴らしかったのですよ。オタクであることはおいておくとしても、おかたいスーツに眼鏡、ロングヘア、ちょっときつめで、美人系つり目で、眉の高さで揃えられた髪も素敵、全体に真面目というか奥手という雰囲気漂わせて、華やかさや柔らかさよりも、凛々しさかたくなさ感じさせるそこが実に好みだったというか、ああそうさ、好みだったんです。綺麗だと思ったんです、かわいかったんです。堅物装ってる割に興味は人並みにあるところとか、気丈なそぶりみせているくせに実は結構あかんたれなところとか、本当最高じゃないですか。でもまあ、主人公にやられちゃうんですけどね、エロ漫画だから仕方ないんだけどさ……。

『ああっ御主人様!!』の面白いところは、エロ漫画であるんだけど、最初割と無理矢理だったりするんだけど、主人公とヒロインである妖精? 精霊? 魔人? のメイルがなんだかえらくラブラブで、いやバカップルなのか? とにかくちょっと馬鹿なのりで突き進んでしまうというコメディ展開も楽しくってさ、だからというわけでもないんですけど、好きだなあって思ったんですね。私は残念ながら単行本でしか読んだことがないのですが、これにはまだ続きがあったはずで、それを知ることができないっていうのはちょっと、というかかなり残念で、この後どんな風に話は進んだんだろう。お姉さんの再登場はあったの? いろいろ思うところあるんですが、残念ですね。ほんと、こういう時はたのみこむとか復刊ドットコムで呼びかけたりしたらいいのかなあ。でも、ビブロスは廃業しちゃってるから、復刊は難しいだろうなあ。新装で愛蔵で出たりしないかなあ。

などと夢想するほどに好きだったりします。

さて、なぜ今日という日に『ああっ御主人様!!』を思い出したのかと申しますと、ひょんなことでそのお姉さんと再会することができまして、それがあんまりに嬉しかったからなんです。ちょっと挑戦的ないでたちで、眼鏡にスーツも凛々しいんだけど、胸元のフリルに女性らしさ感じさせて、ああやっぱり素敵だ! とそんな風に嬉しかった、それはそれは嬉しかったんですよ。

  • 渡辺純子『まゆかのダーリン』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 渡辺純子『まゆかのダーリン』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 渡辺純子『まゆかのダーリン』第3巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊
  • 渡辺純子『ことはの王子様』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 渡辺純子『ことはの王子様』第2巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

引用