2007年8月4日土曜日

トランスフォーマー

 子供の頃に見ていたアニメ『トランスフォーマー』が実写映画になったんだそうで、監督はスティーブン・スピルバーグ。けれども私は、監督がどうこういうの関係なしに、とにかく見にいきたくって仕方がないのですよ。テレビを見ていたらどうしても目に留まってしまうコマーシャル。車が、重機が、戦闘機が次々と変形してロボットになる。この変形ってところだけでもう興奮してしまえるのが私という人間なんですね、実は。変形するロボットってかっこいいと思います。それも現実に存在するものをベースにして、そこから人型のロボットになるというのがいい。昔、私が子供だった頃は、変形と一口にいっても結構無理矢理なものがあって、変形したはいいけど腕も足も曲がらなくて立ちっぱなしとか、プロポーションも変だとか、けれど今はなんだか違うみたいですよね。なによりもかっこいいわ。これはやっぱり技術の進歩ってやつなのかなあ。そりゃたまには残念なものもありますけど、オプテイマスプライムなんか見ると、素直にかっこいいなあと思いますから。

そんなかっこいい映画『トランスフォーマー』は本日公開です。ほんと、見にいきたいものです。

しかし、私は『トランスフォーマー』がこうして映画になるなんて思いもよりませんでしたよ。確かに考えてみれば、アメコミ由来のヒーローがアニメになったり映画になったりして大人気というのはこれまでにも当然のようにあったことで、だからトランスフォーマーが実写映画になってもおかしくないといえばおかしくない。それをなんだか不思議と感じてしまうのは、アニメの印象があまりに強かったからかも知れません。

けど、映画のCMやムービートレーラーを見てると、そんな印象やら感傷やらはどうでもいいって感じになりまして、もう、とにもかくにもかっこいいんですよ。アニメではどうしてもある一定以上の現実感は出なかったですが、実写映画ともなるとそのインパクトは尋常でなく、車が、重機が、戦闘機がロボットになって戦うというそのスペクタクル! なんだか映画では人間の事情もろもろが関わるようで、それでもって恋愛うんぬんもあるようですけど、トレーラー見るかぎりにおいて、そんなんはもうどうでもいいといいきりたい。とにかくロボットがかっこよければいい。存分に動いて、戦ってくれればそれで充分じゃないですか。

トレーラー見て感動したのが、CMには出てこないオプティマスプライムですよ。オプティマスプライム、つまりコンボイ司令官なんですが、赤と青の特徴的なカラーがボディのあちこちに見える、その彼が、重厚感たっぷりに立ち回っているということが見て取れて、ロボット同士の激突なんかもすごい大迫力で、うわあ、これは是非劇場で観たいなんて思うわけですよ。いやあ、ほんと、どれほどに格好良く戦闘が描かれるのだろう。その想像だけでもうなんだかうはうは気分です。

ただ、なんとなく残念なのは、デストロンのボスであるメガトロンなんですが、拳銃じゃないんですね。多分リアルな銃のおもちゃを作ってしまうとアメリカで売れなくなってしまうとか、それにいくらなんでも小さすぎだろなど、問題がいろいろあったんでしょう。ならそれでいいから、せめて実在のメカでやって欲しかったなあと思います。別に実在のメカじゃないといけない決まりはありませんけど、やっぱり現実にあるやつがロボットにというのがトランスフォーマーの魅力だと思うものですから、というわけでスコルポノックあたりはちょっと魅力に欠けるかなあなんて思います。CM、トレーラー見るかぎりでは、めちゃくちゃかっこいいですけどね。

2007年8月3日金曜日

トータル・リコール

 貿易会社勤務のジョンソンは実に平凡なサラリーマン。同じことの繰り返される毎日に嫌気が差している、そんな男であったのですが、ある日メイドロボにいわれるままに訪れたトリップ・ムービー — 望みの夢を見せるという人気のアトラクションをきっかけに、失われた記憶を取り戻したのだった! それはかつての自分が宇宙をまたにかけて大活躍していた宇宙海賊であったという記憶だ! って、海賊じゃ『トータル・リコール』じゃないじゃん。ええ、このあらすじは寺沢武一の人気コミック『コブラ』であります。いやね、ついこの間から『コブラ』を無性に読みたくてですね、そうしたら通りすがりの古書店で全巻セット見付けたものだから買ってしまったんです。そしたらそんな展開で、『トータル・リコール』思い出してしまった。と、そんなわけなのです。

でもこれって、両方がP. K. ディックの『追憶売ります』を下敷きにしているってだけなんでしょうね。実際『トータル・リコール』はP. K. ディックを原案として膨らませたもんだっていいますから、こりゃ一度原作を読んでおかないといけないなあ、そんな気分になっています。

映画『トータル・リコール』は、アーノルド・シュワルツネガーが主演のアクションものであります。望みの夢を見せてくれるというアトラクション、リコール・マシンを使ったことをきっかけに、諜報員であったという過去を思い出してしまうんですね。美しい女性をともに、襲いかかってくる敵を蹴散らし、地球を飛び出し、火星にて敵組織の陰謀を暴き平和をもたらすという素晴らしい勧善懲悪ストーリーなのでありますが、これが実にアップテンポで痛快で面白かったのですね。テレビの洋画劇場やなんかで放送されれば決まって楽しみに見て、夢に落ちていく途中、好みの女性のタイプを聞かれたシュワルツネガーが、玄田哲章の声でみだら……という、そのシーンが忘れられない。って、いや、そこ全然見せ場じゃないですから。

見せ場はとにかく多かったと思うのです。自分の過去を取り戻した途端に襲いかかってくる敵、宇宙港での戦いなんて、持ち物検査のレントゲンに映された骸骨が戦ったり、あとアタッチメント使ったダイナミックな変装とかも印象的で、そしてラストの火星の変貌っぷりも楽しくて、まさにテラフォーミング。高校時分、地学の教師とこの映画の話して、極地の氷を使って酸素を作るという理屈はすでに議論済みだとか、けれどあの映画みたいな急激な酸素の行き渡り方はさすがにしないとか、SF談義みたいなことしたのもいい思い出です。

というか、そんなにふるい映画なんだ。改めて振り返ってみると驚くことがいっぱいです。

でもふるい映画でも、見たらきっと面白いんじゃないかなあ、なんて思います。なにしろ好きで何度も見た映画ですからね、きっと見れば、この映画を好きで見ていた時分のことまで思い出したりして、そうした楽しみ方もできるんじゃないかななんて思いもあったりして、けどそんなの関係なしにまた見たいものだなあ。一冊の漫画をきっかけにして、思い出が広がっているようですよ。

2007年8月2日木曜日

スクーン

台風が近づいているからか、空気が重苦しくてしんどいですね。それに暑いし……。こんなときには海にいきたいなあ、なんて思ってもすぐに海なんていけるもんじゃありませんし、それに台風の海に出向くなんて危険な! 暑い、涼みたい、けど海は危ない。こういう場合にはプレイするだけで涼しくなるゲームを楽しむのが一番なんじゃないかと思います。というわけで、本日は『スクーン』を思い出してみました。『スクーン』っていっても、オールドゲーマーじゃないとなにかわかんないですよね。かつて、ファミコン時代にアイレムから発売されていた横スクロールタイプのシューティングゲームです。このゲームがなんで涼しいのかというと、自機が潜水艦なんですね。世界各地の大都市が水没してしまった地球。今や人類を救えるのは君だけなのだ! それゆけ潜水艦スクーン! といった感じのゲームです。

しかし、このゲーム、設定がなかなかにすごくて、ええっと、都市が水没したのはいいとして(よくないけど)、問題は人類のおかれた状況でして、海底人に捕えられているんですが、それがなんと食料としてなんですよ。海底に人間を養殖するサイロがあって、名付けて人間牧場だったかな。それと、マンハム製造工場。人間をハムにしちゃうってわけで、とにかくそういった施設を破壊して救出。けどスクーンには乗員制限があって、満杯になったら本拠地である移動島に接岸して全員降ろして、また救出。この繰り返しです。

ここでもうひとつ強烈な要素があって、人を食料にするのは海底人だけではなくて、なんと人食い鮫がやってくるんですね。こいつらにはあたり判定がないので、潜水艦が沈められるようなことはないんですが、そのかわり人を食うんです。海底の施設を破壊、人が出てくる、助けるのに手間取ると鮫がどんどん食べていっちゃう……。そんなにシリアスなゲームではないはずなんですが、こうして設定だけ見るとすごく悲壮感があるゲームに感じますね……。

設定こそは強烈ですが、ゲームとしては変に爽やかなところがあって、海底、各面の始まりは水没した世界の大都市で、その瞬間変わるBGM、すごく好きでした。記憶しているかぎりをあげると、エジプトがあったっけ、あと中国、ニューヨーク、ロンドン、パリはもちろん、東京もあったはずで、それぞれの都市に応じたボーナスキャラみたいなのが出現して、例えば中国はパンダ、他はなにがあったかな、出現させる条件を全然把握してないもんだから全然覚えていないのですが、この世界各国を巡るというのが妙に楽しくて、次の面へ次の面へとクリアしていくはげみになっていたと記憶しています。

そして全面クリアも普通に達成できるようになるんですが、けれどただクリアするだけでは足りないのです。条件をみたすと出てくるパスワード画面、二三回くらい見たかなあ。けど、条件がわかってないから、出たと思ったときにはもう遅いんです。普通に通り過ぎていって、内容わからないまま。一体あの条件ってなんだったんだろう。今でもたまに思い出して、気になることがあります。

シューティングとしてはそんなに難易度の高いものではないけれど、そこそこ難しいという適度さがよかったと思います。たまに引っ張り出して、ぶらーっと世界一周して、途中人類救出を試みるものの失敗もたくさんあって、すまないなあ、みんな。そんな感じ。けど、不思議にのんびりとした雰囲気のあるゲームだから、また遊びたくなる。ほんと、独特の味わいのあるゲームでした。

2007年8月1日水曜日

天使のお仕事

  先日、『天使のお仕事』の2巻を買ったなんていってましたけど、実は今回はこの漫画で書くのはやめておこうかなと思ったのでした。ですが、なんだか私の姉話は評判がいいみたいじゃないですか。鬼気迫ってるからかな? とにかくうける。なんでかわからないけどうける。だからあちこちで姉が姉がといってまわって、いわゆるひとつの定番ネタとしてみたところ、姉スキーみたいに思われた。いや、そりゃ心外な! というか、姉のキャラクターが独り立ちしてるみたいなところがあって、噂のお姉さん、ああ例の! みたいな反応も得られて……、参りましたね。調子に乗っちゃうじゃないですか、私が。そんな具合に気分をよくして、今日は『天使のお仕事』、二回目です。

というわけで、姉トーク。この漫画見て思うんですけど、いくらなんでも和気日生、剣の姉弟、これは異常だと思うのです。いくら姉がアレな存在であるといっても、日生ほどのことはないだろうといいたいわけで、すなわちうちの姉はあんなにひどくないっていってます。そりゃもう確かに、友人が弟からお年玉、おおっとお福分けでしたかな、もらってるという話を聞きつけてきて、ああなんていい弟だろう、お前もお姉さまにお年玉を渡しなさいなんていわれたことはありますよ。けれどそれはあくまでも冗談ですから。普通は弟が貰うもんなんじゃないの? むしろお姉さんが弟にくださいといったら、笑ってそのまま流れました。って、お年玉くれないの!?

『天使のお仕事』というと、姉の苛烈さばかりがクローズアップされる嫌いがありますが(うちだけ?)、本来は産婦人科ナースものであります。可愛い絵で辛辣な内容を扱う、そうした表現上の質の高さがあって、そしてその向こうには本来のテーマがしっかりとして面白い。この本来のテーマが面白いというのが重要なことなんじゃないかと思うのです。

取材の成果であろうリアリティを武器に、けれど実話系のような生々しさは抑えられて、そこにふんだんに盛り込まれるネタの数々。これらが渾然一体となって、ひとつの世界を作り上げています。そりゃたまに、ちょっとこれはない、みたいなものもありますが、けれどそれは漫画だから。それに、こうしたなさそうなところ、おかしなところに突っ込みを入れつつ、少しずつキャラクターの成長を盛り込むことで、あり得なさ、違和感をなくしていくというやり方が実にうまいと思われて、ああこうしてみんな成長していくのねと、コメディとしての楽しみと、医療ものとしての面白さを両立させているといったらいいのかな。実にうまいと感じるのです。

けど、ヒロインのモモが成長する日はこないのかもなあ。くるとしたら最終回。それも数年経って、後から昔の自分の駄目さを振り返るみたいなかたちで果たされるんじゃないかなあ、なんて思って、だって、モモが成長してしまったら、この漫画のベースとなるところが変わっちゃう。だからやっぱりそれは終わるときだと思うのですがどうでしょう。ともあれいずれにしても、この漫画の面白さが持続するかぎり、モモさんには成長せずにいてほしいものだと、そんな風に思っています。

蛇足

『天使のお仕事』に新キャラクターが投入されて、それは武部桜。可愛くて、有能で、姉だけどやさしくて、我々人類に残された最後の希望のような娘です。だからきっと誰もがこの娘がお気に入りというだろうと予想がついて、そして私もその予測の範疇にいるようです。

まあ、他の娘が極端すぎるって気もしますけどね。でもその極端さがいいってこともある……? あるんじゃないかと思います!

  • 佐藤両々『天使のお仕事』第1巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2005年。
  • 佐藤両々『天使のお仕事』第2巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2007年。
  • 以下続刊

2007年7月31日火曜日

ときめきメモリアルONLINE

 多分、この記事が公開される頃には、私はときめきメモリアルONLINE、ひだまりB組の教室にいるのではないかと思います。いや、あるいは最後のイベント、卒業式に出ているのかも。いずれにしても、ともにあの場に過ごした友人たちとともにあるのではないかと思うのです。今日はTMOの最終日。4月に本格復帰してからというもの、できるだけ時間をとっては参加していたのですが、そうした楽しい時間というのが過ぎ去るのは本当にはやいこと。今日でサービスが終了してしまうんですね。なんだか変に現実味がなくて、ぽかりと空白な気持ちがします。なかなか言葉にならないような、そんな不思議な悲しさがしています。

思えばこういう感覚は前にも味わっていて、それはベータの終了時だったのですが、その前日、皆で集まって、輪になって、最後の自己紹介なんてやって、ほぼ徹夜状態で、私は一二時間は仮眠したかな。それで、ベータ期間の終了する正午を待った。あの時も寂しかったけど、でもひと月待てばまた会えるというのだから、今ほどじゃないですよね。今は、時間の経っただけより親しくなった人もいて、だけどその人たちと再びあの時間を過ごすことはかなわないんだと、あの場がもう一度開くことはもう決してないんだろうなと思うから、別れの寂しさ悲しさもより一層深まるのですね。

けれど、消えない繋がりもあるはずで、今私たちは次なる場所を模索しているところです。それがどこになるかはわからない。けれど、どこかに新しい場所を見付けることができればいいなとみんなが思っていて、そしてその場所は今過ごしているTMOとは違うのだということもよくわかっていると思うのです。違う。確かにあの場所は特別だったといっていいんだと思います。私はそもそもMMO自体をやらないプレイヤーでしたが、それでも特段目的のあるわけではないTMOが楽しかった。集まって、チャットして、たまにクイズする、その程度のゲームじゃないかといったこともあったけれど、少なくとも私にとってはそれで充分だったように思います。なによりも、あの場で出会える人が大切だった。だから私は終わるサービスにではなく、あの人たちにこそ心を残したいと思っています。

次の場所がどこになるのか。どこになったとしても、私はあの人たちのいる場所に向かおうと思っています。願わくば新しい場所においても新たな出会いがあることを、そして楽しみや喜びを分かち合えること、ときにははげましあったり支え合ったりして、そういう関係を持続できることを望みたいと思います。

ありがとうございました。あの場で出会った人たち、得られたものは、私にとっての宝であると思っています。だからサービス提供者であったコナミ株式会社にもいいます。本当にありがとうございました。あの場で過ごした時間は、私にとって紛れもなくかけがえのないものでありました。

2007年7月30日月曜日

手塚治虫「戦争漫画」傑作選

 私はもちろん戦後の生まれで、安穏と平和に浸って育ってきたものだから、戦争の本当のところはわかりません。これは父にしても母にしても同じようで、二人とも戦中生まれですが、物心ついた頃には戦後です。それはそれなりに苦労もあった時代とは思いますが、けれど戦争の苦難、悲哀のようなものは聞いたことがなくて、だからやっぱり父母にしても戦争を実感するように思うことはないでしょう。そういえば、以前たまたま駅で出会って話した女性が、大阪の空襲のこと話してくれました。工場に動員された少女時代。大阪は丸焼けになって、瓦もオレンジ色に変わるほどの火勢、焼け野原あちこちに死体が転がっていたといいます。いつ死んでもかまわないという捨て鉢の毎日で、けれど生きるのに必死だった。食べられるものはなんでも食べて、けれどこうしたことは実際に体験した人でないとわかってもらえん。戦争を経験しても空襲を知らない京都の人には、わかってもらえないのだとおっしゃってました。なら、空襲も戦争も、どこか遠くのできごとのように感じる私たちの年代はいかなるものでありましょう。きっとわかるまい。口ではわかった風にいうけれど、本当に理解することなどできっこないのだと思います。

手塚治虫が書いた戦争漫画が新書で出ています。ぱらぱらとページめくってみたら読んだことあるのもいくつかあったけど、なぜだかそのままにしておけないような気持ちがざわざわとざわついたものだから、購入、帰りの車内で没頭するように読みました。そして今更ながら手塚治虫の語る力にほとほと圧倒されて、この人の漫画はやさしくて、言葉の運びも美しいのに、どっしりとのしかかるほどに重いです。こと戦争ものとなるとその実感は普段以上で、痛ましさはいうまでもなく、無力感や絶望めいたやるせなさがコマの端々に顔をのぞかせて、救いがないとはいわないけれど、でも救われないものも多すぎたというように思います。これらはどこまでが手塚の体験で、どこからが手塚の創作であるのか、読んでる私としては判断のつけようもないのですが、けれど読んで感じることは、それらはきっと実体験の反映であるということです。手塚はあの戦争を、餓えや空襲に苦しめられながら、自由の制限されるというかたちで経験したのでしょう。それこそいっぱいいやなことも舐めてきたに違いなく、夢や希望が潰えるのを見て、人間の悪いところがあらわになるところも見て、それで戦争という人がおこしたものに、抑えようもない怒りを感じていたのだろうと思います。

『紙の砦』で、主人公は米兵を前に一度は怒りを炸裂させながら、けれど兵士という個人に対しその怒りをぶつけることはできなかった。それは臆したからではなく、リンチの末に殺された兵士を目の当たりにして、思うところがあったのでしょう。爆弾を落としたそいつが悪いのか。戦争に巻き込まれ翻弄されるなか、人間性を失って憎み合い殺し合うという現実が、おそらくは手塚にとって到底耐えられるものではなかったのだと思うのです。だから手塚は、戦争に取り巻かれるままに残虐性を満足させたものを断罪しながら、一方では軍という組織を離れ人間性を回復させる将官なども描いたのでしょう。

手塚の戦争ものは、内地における暮らしものにこそリアリティが感じられると思えて、それは漫画に描かれたできごとが手塚の実体験であるかのように迫るからかも知れません。かつて身のそばにあったものが永遠に失われるという、深い深い喪失の体験。戦後のどさくさを描く『すきっ腹のブルース』なんかはむしろユーモラスであるのだけど、愛に恋に焦がれながらも意地汚く食に執着する主人公、彼が本当に餓えていたものというのはなんなのかと考えると、胸が詰まる思いがします。

そういえば、野坂昭如なんかもいっていました。戦時中の記憶は餓え一色だったと。激しい餓えとともに青春を過ごした彼らにとって、餓えとは単に食えなかったということではなかったのかも知れません。戦後、なんとか食えるようになったとしても、餓えがまとわりついて離れなかった。餓えの記憶に、体感に、食だけにとどまらない思いが渦巻いているのかも知れないと、そう思いながらも私には結局その想像の向こうに広がる現実の苛酷を知ることはなく、だから本当の意味でわかることなどできなくて — 、ただこうして思いをはせるのが精一杯なのかと思います。

2007年7月29日日曜日

ウィザードリィ エクス2 — 無限の学徒

  6月にはじめたWizardry XTH 2、シナリオクリアなりました。といってもここでいうシナリオクリアというのはメインシナリオだけでして、全クエストをこなしたわけではありません。だから、僕たちの本当の戦いはこれから、なんでありますが、でもまあひとまずは終了。それで、現時点での感想なのですが、なんか辛いシナリオでした。正直ちょっとやり切れないというか、前作においてプレイヤーキャラの友人という位置付けだったNPCがですよ、今回ではシナリオにおける重要な狂言回しとして機能しまして、しかも彼女を止めねばならないというんですから、こりゃもう辛い。きっちり引導渡して、なんかしんみりとしてたら、その後に物語の発端となった娘の痛ましい独白聞かされて、さらにへこみました。しかしこうもしっかり片をつけるとはなあ、意外でした。だってね、昨今の物語は感動のために軽々しく命を弄ぶくせに、ぎりぎりのところでは甘いところがあるものでしょう。最後の最後にみんな生き返って、よかったねー、ハッピーエンド。そんな具合なのかなと思ってたら、ロスト扱いの死亡して、ああやるときにはやるねと思った。シナリオ書いた人も思いきったなと感心して、けれど私としては甘いラストであってもよかったんだ、なんていっときます。

まあ、実際のところ、あのラストでなければならなかったという思いは強いので、あれはあれで仕方なかったんだろうなと。ちょっとショックでありながら、こうしたショックを味わうのも物語追うには必要なことと思って、なのでシナリオについてはここで終わり。ここからは自分のパーティについて話すことにしましょう。

今回のパーティは前作のメインパーティ同様、君主、神女、盗賊、僧侶、司祭、魔術士、スタンダードといってもいいパーティだと思います。このパーティ、ごくごく初期に爆裂槌なる高ダメージ武器を入手するにいたったものですから、ボス戦とかが恐ろしく楽でありました。XTH 2ではシナリオを進めるために固定敵を点々と始末していく必要があるのですが、負ける気がまったくしませんでした。というのも、今回はパーティスキルがありますからね。特に重要なのが、物理攻撃を必ずヒットさせるという集撃の陣でして、ここに爆裂槌の1Hit 300も夢でないという特性が生きてきます。だってね、この武器はもともと1Hitしかしないわけで、とにかく当たればオッケーというシンプルさが素晴らしい。そうなんですよ。必ず当たる集撃で、がつんと当てて、ガツンと稼ぐ。まず負けませんでしたね。というか、1ターンキルが必ずなるわけで、正直、戦術練るのが下手になりそうだなと、そちらが心配になったほどでした。

メインシナリオクリアに200時間を費やしたXTH 1に比べ、100時間程度という極端に少ない時間でエンドロールを見られたのは、ひとえにこのパーティスキルのおかげであると思います。パーティスキルをがんがん使って、パラメータのプラス補正もどんどん延ばして、そうしたらHPの伸びも違います。こうして効率よく強くなって、またそこそこ強い武器も持てましてね(といっても、星天球と連合軍式将軍剣が双璧でしたけど)、だから結構楽にさくさくと進めたという印象です。ありがたいのは、魔封じの盾が2枚あったってとこかな? 君主に突撃の盾とで両盾献身させて、星天球、将軍剣持った神女で神撃を食らわす。で、魔術士の強魔マハンマハンが強烈。防御固めて、特殊能力封じ込めて、魔力の増強して、適当に回復する。これで負けるわきゃないなと思いましたよ。本当。XTH 2の戦闘はかなり楽だと思います。

パーティの死亡について。当初にRip2がついた戦士(後の君主)ですが、なんとその後魔術士が首を刎ねられて死亡。ええと、ダムドかなあ。はっきりいって、腰が引けました。メインパーティにおける死亡事故は以上。ただ、一度呪文禁止域で強気で銀箱開けた揚げ句、コブラの呪いにかかって全滅してます。というか、戦闘よりも宝箱の方が危険ってどうなんでしょう。以上、メインパーティでは死亡回数9、全滅1という結果です。まあ、誰もロストしなかったからよかった。とはいえコブラの呪いは私の心に大きな傷を残したようで、その後は金箱であってもリリースしています。もしかしたら村正が入ってるかも知れないのに!? ええ、例えそうだとしても全滅の危険を冒してまで開けたいとは思いません。腰抜けですか? 腰抜けですね。けれど誰もロスト者を出さずに終えるには、これくらい腰が引けているほうがいいのだと思います。

とりあえず、こんな感じでやってます。現時点においてメインパーティにサブパーティ、そして後三つのパーティが登録されていて、そう遠くないうちに六つ目七つ目のパーティが編成されるでしょう。けど今はパーティふたつで精一杯。今はメインパーティで残りクエストの消化が目標ですが、落ち着いたらセカンドパーティ(侍、修道士、錬金術士、狩人、僧侶、超術士)以下も動員して、低中レベルのユニークアイテムなんかも集めたいなと思います。

2007年7月28日土曜日

突撃!第二やまぶき寮

 私は岩崎つばさというと『サーティーガール』くらいしか知らなかったんですけれど、けれどその後四コマ誌にも進出されて、あ、岩崎つばさだと喜んだものでしたよ。可愛い絵柄、チャーミングなキャラクターたちが繰り広げる楽しい日常漫画。けれど最初はちょっと薄味かなあなんて思っていたんです。なんだかちょっと弱い、惜しいなあ。弱さがあるというのはどういうことかというと、アクの問題なんじゃないかと思うんです。最初はそれこそあんまりにシンプルすぎて、ストレートすぎて、ヒロインの青ちゃんはいい子だし、有能だし、可愛いし、いうことないんだけど、そうした設定が引っかかりなくすっと通り過ぎていくような感じがあって、だからちょっと食い足りないかななんて思ってたんです。

ところが、今となっては結構どころでない好きな漫画になっていて、いやはや私ってどうしてこうレイトスタートなんでしょう。最初は、やまぶき製菓の女子社員寮きっての暴れ者、自由人、青ちゃん大好きの紫子さんだったかな。癖のある寮生のなかでも特に癖のある女性で、とにかくドラマは彼女から始まる、というかトラブルメーカーといったほうがいいかも。けれど気っぷのいい姉御肌、まだ幼さの残る青ちゃんをよく支えて、また漫画もよく引っ張って、こんな具合にいい循環ができてきたと思います。だんだんとキャラクターの本性があらわれてくるに従い、漫画の楽しさもあらわになってきた。寮生みんなが楽しそう。それがなによりでした。青ちゃんと紫子さんを筆頭とする寮のみんながいる。日常をイベントに変える彼女らのエネルギーは見ていてすごく楽しかったしうらやましかった。ああ、いい漫画だねと思ったものでした。

だからですよ、社長の息子山吹統治があらわれたときには、この楽しい今を壊さないで! って本当に思った。憎かったですね。一体なんだこの男はと思って、早く去ってほしいと願ったら、なんと副管理人になっちゃった。うわー、最低だ!

けれど、この副管理人、だんだんとやまぶき寮の雰囲気に染まっていくかのように、角が取れ、よさが見えてきて、今となってはもう欠くことのできない重要なメンバーって感じになって、ええ、私副管理人ももういやじゃないです。好きですよ。最初の辛くあたられた時期、犬のこがねとともに庭住まいをしていた時期を抜け、副管理人として青ちゃんのサポートにつくようになって、最初彼を怖がっていた青ちゃんが打ち解けていったように、私も打ち解けたのだと思います。カバーを外したところ、表紙に描かれた漫画を見ても、もう副管理人のいないやまぶき寮は考えられないといった具合。なんだかこがねとも強い繋がりあるようで、いいキャラクターになったなあなんて思っています。

いいキャラクター、岩崎つばさの漫画はキャラクターがいいんだと思います。あんまりアクは強くないかも知れない。けれどみんなすごくいい人で、その人たちの作り出す場の空気が温かくてほっとするような穏やかさにあふれているものだから、読んでいてすごく嬉しくなるのだと思います。悪い人がいない。悪い人がいたとしても、きっとその人のいい部分が引き出される、そんな感じの漫画です。

2007年7月27日金曜日

あねちっくセンセーション

 今日は『あねちっくセンセーション』の第2巻の発売日。ということで地上三十階書店にて買い求めようと探してましたら、なんと『天使のお仕事』の2巻も出ているではないですか。こいつはたまらん、示し合わせたように同日発売と相成った姉コミックスに、戸惑いながらも心は購入と決まっているのですから、私という人間はもう本当にどうしようもない。けれどこれはまだ序章に過ぎないのかも知れません。というのは来月には『アットホーム・ロマンス』の第1巻が発売されるというのですから。しかし一体この状況はなんなのでしょう。今、四コマにおいては姉ジャンルが大人気!? しかも刊行ラッシュ!? 今、市場は、それほどまでに姉を求めているというのでしょうか!?

けれど、ほんと、実際のところ、姉もの増えてきたなと思いますよ。王道のパターンというと幼なじみヒロインとか、まあ幼なじみがなんなら同級生ヒロインでもいいや、そういうのがそれこそ一般であったと思うのですが、気付けば妹ブームというのが吹き荒れて、それでついに姉の時代到来!? その姉というのも優しくて甘々な姉という幻想の産物なんかじゃなくて、兇悪にして傲慢不遜の存在、まさしく人類の敵というほかない、そうした姉が描かれているからまた驚きです。例えば芳文社を見てみると、苛烈な姉漫画が二本あって、ひとつは『あねちっくセンセーション』、もうひとつは高原けんじの『花咲だより』。理不尽、偉そうという、まさしく姉らしい姉。しかし、本当に今市場はこうした姉を求めているというのでしょうか? 私にはわからない、私にはわかりません!

といいながら、『あねちっくセンセーション』買ってるんですから始末に置けないというんです。好きかといわれれば、迷いも躊躇もなく好きだと答えることでしょう。実際、連載を楽しみに読んでいるのも事実であるし、こうして単行本が出れば買って読んで、やっぱり面白いなあと思って、そしてこの面白さ、2巻は1巻を上待っていると思います。

2巻が1巻を上回った理由は、姉さくらの弱点が次々と発覚していって、いつまでも弟春人は負けてばかりじゃないぜ。いわば対等になれる可能性が出てきたっとこじゃないかななんて思うんですが、まあそれでも可能性は可能性に過ぎなくて、弟は負けっぱなしだなあ。その結局は負けちゃうところがいいといったらおかしいけれど、和気あいあいとほたえて、紙一重で負けておくという、そこに弟の美学があるような気がしませんか? この漫画は実際そうだと思います。姉が嫌いなら弟はこうはならない、姉にしても、弟が嫌いならああはならないでしょう。けれどお互いに好きのどうのと言葉にしないのが姉弟というもので、じゃあその肉親の情はどうやって確かめられるかというと、結局は拳で語るしかない、いやごめん嘘、拳じゃなくて命令と服従だな。もちろん弟だからといって理不尽な命令なんでも聞くなんてことはなくて、適当に抵抗したりするんだけど、姉もしたたかだから、どの程度ならいうことを聞かせることができるかという、その許容範囲を知っているんですね。だから一種馴れ合いだと思う。馴れ合いの中に、約束事として成立した服従があって、そこでは指令と遂行が互いの信頼を確認しあうためのコードとして機能しているのです。

こうした感覚を持っているものとしては、『あねちっくセンセーション』は実に面白いのですよ。さくらと春人には姉と弟のコード体系があるように感じられて、春人がさくらをおちょくるのは、きっとかまって欲しいというサインなのだろうし、そしてさくらが春人に常勝するのも、春人の負けることによってポジションを安心させるという、そういった機構における約束なんだと思うのですね。もちろんこうした約束は姉弟によって違いがあるし、強度もそうなら、適応の範囲も異なるのが普通だと思いますが、『あねちっくセンセーション』では三種の姉弟関係を持ち込むことで、姉弟の約束事の多様性を満足させ、そして中心に据えられたのは典型的な姉弟の関係。基本がしっかりしているから、絵空事が絵空事と思えない。慣れたコードに近しく描かれる展開に、私は言い知れぬ安心を覚えるのであると思います。

蛇足

さくらもいいですが、撫子がいいですね。あの不死身という設定。あれは面白いわ。ちょっとひねった設定加えて、そこから面白さ、おかしさをひき出すことにかけては、この人はかなりのものだなと思います。

なのに、第3巻で完結予定!? そりゃないよ。できたら続いて欲しいなあ、無理ない範囲でなんて思う私は、まだこの漫画の面白さに浸っていたいようですよ。

2007年7月26日木曜日

トーマの心臓

   萩尾望都の名前を知りながらも決してその作品を読もうとはしなかった私が、遅まきながらも作品に触れ、その深さに打たれたときのことははっきりと覚えています。行きつけの書店に文庫を見付けたのでした。有名な人だからと、評価の高い人だからと、古典に手を伸ばすような気持ちで、読むことへの楽しみや高ぶりのためではなく、漫画に関する教養を身に付けようという、そんないささか無粋な理由で一冊を買い求めた、それが『トーマの心臓』でした。ギムナジウムにて繰り広げられる、美しい少年たちの物語。一人の少年の死という衝撃的な場面に始まり、謎のメッセージ、そして身を投げた少年に生き写しの少年エーリクが転校してきて……。これこそが私にとってのはじめての萩尾望都体験であり、目もくらむような強烈な一撃を与えた作品です。

こんな話があるのかと面食らった気持ちでした。もう二十年以上も前に描かれた漫画で、しかし旧さはまったく感じられない、それどころかふつふつと湧くような生命の息吹にあふれていて、これがこれが漫画の世界なのかと、目が開く気がしたものでした。それから私は萩尾望都の文庫を買い集めて、それは自分に足りなかったものを埋め合わせようとするように性急な買い方、読み方で、けれどすごく充実していました。友人に、萩尾望都はすごいから、だまされたと思って買ってみろと強引に勧めて、萩尾ファンを一人増やしたことも懐かしい思い出です。その人も、その後萩尾望都の漫画を買い集めて、こうして人をいったん捕えれば夢中にさせてしまう力がある、強力な魅力に満ちた作品群です。

『トーマの心臓』がこんなにも苛烈に働き掛けたのは、はじめての萩尾望都だったというだけでなく、やはり作品の持つ力であると思うのです。陰鬱で謎めいて、耽美で退廃的な影も持つ漫画。けれどその向こうには、光と闇の狭間に苦しむ心のドラマがあり、そして愛が苦悩に交錯するのです。その物語は、はじめて読んだその時、すでに大げさではないかと思ったほどにドラマチック、ダイナミックで、けれどひとたび没頭すれば、その描かれ方に魅惑されてしまいます。大げさだなんて思わない。絵が、場面が、ビビッドに情感を伝えてくる。ドラマが生きている、思いはあふれ、乱れ、そして明澄な静けさに溶け込むようにして終わって — 。悲しみもあった、切なさはいうまでもなく、けれどいつも救われたという感じに包まれながら読み終えるのです。そして私はきっと言葉を失ってしまうから、『トーマの心臓』についてはなにもいえなくなるのです。ただ、ただ読んでみて欲しいと、読めばわかるんだからと、それ以外にいえなくなるのです。

今日、書店で新しい萩尾望都のシリーズが出ているのを見付けて、それが『トーマの心臓』でした。私はそれを買おうかどうか迷って躊躇して、そして帰って文庫を読んで、そのすごさに打たれてしまった。文庫のなんのという判型なんか関係ないと思った。萩尾望都の作品は、そんな低いレベルのものにとらわれない。物質やなにかを超えた高みに位置するものであると、そんな思いを再び深めただけでした。

  • 萩尾望都『トーマの心臓』第1巻 (フラワーコミックススペシャル 萩尾望都パーフェクトセレクション;1) 東京:白泉社,2007年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』第2巻 (フラワーコミックススペシャル 萩尾望都パーフェクトセレクション;2) 東京:白泉社,2007年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』第1巻 (小学館文庫) 東京:白泉社,2000年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』第2巻 (小学館文庫) 東京:白泉社,2000年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』(小学館文庫) 東京:白泉社,1995年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』(小学館叢書) 東京:白泉社,1989年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』第1巻 (フラワーコミックス) 東京:白泉社,1975年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』第2巻 (フラワーコミックス) 東京:白泉社,1975年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』第3巻 (フラワーコミックス) 東京:白泉社,1975年。

2007年7月25日水曜日

Half moon, taken with GR DIGITAL

MoeリコーGR BLOGにて催される恒例のトラックバック企画。七月度のお題が発表されたときには、まあまた私の苦手そうなと思いました。スローな風景。ふと時間の流れが止まったような、日常のせわしなさから切り離されたようなそんな時間の流れる穏やかな風景。それを撮ればいいんだろうなと思いながら、こうして先頭に持ってくるのが萌えTシャツ。スローな風景はスローシャッターで撮った写真のことじゃないんだってば、というわけで今月もトラックバック企画『スローな風景』に参加します。

私は日頃、できるだけスローに、スローに生きようと心がけているところがありまして、というのも頑張ってしまうと途中で息切れしてしまうものですからね、兎のようではなく亀のように、ゆっくりと少しずつ着実に進んでいこうと、そんなことを思っているわけです。ですが、気付けばせかせかと過ごしてしまって、時間がない時間がないなんていっている。それが家に帰る道すがら、ふと空を見上げれば月が出ていて、半月。ああ、そういえばもうずいぶん月なんて見てなかったな。そうなんですよ、私は日常の風景を見過ごしにしたくないからカメラを持って、毎日持ち歩いているというのに、それでもいい加減に見過ごしてきたものがあったんですね。と、反省。がらんとひらけた空、月を撮っておこうと横道にそれた、それがこの写真です。

Half moon

実はこの写真とは別に、どうだろうなんて思った写真もありまして、ある朝、出勤途中寄った神社にて鳩が狛犬の頭に止まってましてね、近寄っても逃げない。人を怖れない奴等だなあなんて思ったんですが、それが妙にほのぼのしてるかなって。けど、なんでかぎりぎりになって月見上げた写真に変更。果たしてどちらがスローかといわれると……、やっぱり月かなあ? 皆さんはどうお感じですかって聞いて、どっちもスローじゃないよっ! なんて返事が返ってきたら私のスローとは一体なんだろうって感じになっちゃいますね。

Pigeons on dog's head

2007年7月24日火曜日

エル・ポポラッチがゆく!!

 Amazonでなんだか夏の大バーゲンとかやってるよって聞いたものだから、どんなだろう、欲しいのあるかなってわくわくしながら見にいきまして、こういうとき、まず見るのはゲームですよね。以前、春のバーゲンだったと思うんですけど、では、発売日に購入したゲームが特典付きでお安く提供されているのを見付けて、愕然としたり、いやね、まだ封さえ切ってなかったものですから(今も未開封だけど)、もう本当に悔しくて悔しくて、もうひとつ買っちまおうかと思ったくらいでした。買いませんでしたけど。ゲームを見たら次に見にいくのがDVDストア。実は欲しいのがあるのですよ。アニメかというと、残念、アニメじゃない。アニメは欲しいのが多すぎて危険すぎるから見ないようにしてるんです、っていう事情はおいておいて、ええと『シャーロック・ホームズの冒険』が欲しいんですね。昔、NHKで放送されていた海外ドラマですよ。これ、23枚組という大ボリューム、もちろん価格も結構なものだから、欲しいなと思ってもおいそれと手を出せるものではなく、涙をのんではや数年が経ちました。と、こんな感じで欲しいの買えないのとバーゲン商品をぶらぶら眺めていたところ、ちょっと気になるものを発見。1min. ドラマ『エル・ポポラッチがゆく!!』。おお、これはNHKでやっていた変なドラマじゃないですか。

私がはじめてエル・ポポラッチに遭遇したのは、今年の正月のことでした。NHKはですね、紅白が終わった後にですね、『年の初めはさだまさし』なる番組をやっていましてね、今年で二年目? さだがファミリー引き連れてなんか端書読んだり、歌ったり。わりと面白いんですよ。しかもこれ生放送だから、結構危険な領域に踏み込んだりしましてね、そういうところも楽しみどころだと思うのですが、そう、今年の私はさだまさしで始まったんですよ。

笑って、歌に心揺さぶられて、そして番組終了後、突然始まったのが『エル・ポポラッチがゆく!!』なる番組。いや、これ番組なのか? 私は最初、てっきりコマーシャルかと思いました。新番組の宣伝じゃないなとは気付いたものの、けれどこれはNHKのイメージ広告? いや、そうだとしたらなんか変すぎる。主人公はマスクを付けたレスラー? 街にふらっとあらわれて、街の人たちと交流を深めていくみたいなストーリー? が淡々と展開されるんだけど、なぜか米屋の地下にリングがあったり、ほんとよくわからない不条理感。これをさだ見た後で見たんですよ。しかも夜中、結構な時間、脳はつかれてるし眠たいし、けど目を離せない。早く終わらないかなあ、もう寝たいんだけどなあと思うんだけど、番組は延々続く。次へ次へと回が進み、多分、こんときに全部見たんだろうなあ。目を離せないまま、最後まで見てしまったのでありました。

その後、時代劇の後なんかにポポラッチが放送されるようなこと数回経験して、なんかぽいっと放送しちゃう、予告もなんもなしにやっちゃう、そういう企画みたいですね。でも、私はこれが1min. ドラマなんていうシリーズだったとは今の今まで露知らず、しかもこれDVDが出とるのか。なんか、欲しくなるなあ。ちょっと興味がそそられる。なんでかわからないけれど、私を釘付けにしてしまうそんな番組であるようなのです。

ドラマでは鈴木京香が素敵だったなあ。この人、正ヒロインだと思うのですが、なんかしっとりとしたいい美人ですよね。この美人が、なんか変な不条理なドラマにて淡々と役をこなしていく様は実に美しく凛々しくて、ポポラッチと恋仲になったりする!? なんて思ってたらどうもそうでもないみたいで、とにかくほんとよくわからないんですよ。筋もあったようでないというか、結末も変によくわからないまま、それこそ終わったんかどうかもわからないまま終わったというか、このへん、DVD見たらわかるのかなあ?

なんだか本編よりも特典映像の方が長い『エル・ポポラッチがゆく!!』。ちょっとおふざけ感もあって、けれどみんな真面目にやってるってことは伝わってきて、この不思議感はちょっと他にはないような気がします。だから、だから、買っちゃおうかな、どうしようかな。買っちゃっても後悔しないだろうけど、いつでも見られるポポラッチというのもなんか変な感じがする。ほんと、その存在自体が不思議なドラマであると思います。

2007年7月23日月曜日

反社会学講座

 女房と畳は新しい方がいいっていうから、きっと本もそうに違いないと、買ってきました『反社会学講座』。あれ、あんた、この本持ってなかった? ええ、持ってますよ。というか、既刊、全部揃えていますね。なんかマッツァリーノのファンみたいですね。そういえばサイトのチェックも結構まめにやってるし、ついでにいえばエッセイなんかも読んでます。ええ、好きなんですよ、この人の文章。ちょっとひねくれた風で、悪ふざけやら皮肉みたいなのがあちこちにちりばめられていて、けれどいってることといえば結構真っ当で、それになんといっても主張がある、視座がある。おかしいって思っていることに対しては、そいつぁちょいと妙じゃねえかい、と真っ向から啖呵を切って、けど口先ばかりじゃないよ。種々様々のデータ、資料、統計を駆使して、おかしいってところを根元からあらわにする。けれどそれがお説教くさくないのですからたいしたもので、ああ、こりゃ希有だね。読んで、面白がって、そうかこんな調べ方があるのかと勉強にもなって、ついでに溜飲を下げ、活力もわいてくるっていうもの。ええ、私はこの人の文章読むと、なんだか浮き立つようで、変に元気がわいてくるんです。

けれど、さすがに同じ本を買うっていうのは尋常じゃないよな、なんていう意見もございましょう。正直、私もそう思います。けど、それがファンっていうもんなんだ。いや、そりゃただの盲従だな。そういう態度はいけません。じゃあなぜこの本を買ったのかというと、補遺がついてくるからです。題して「三年目の補講」。『反社会学講座』旧版が出版されたのは2004年でした。そして今は2007年。この3年の間になにがどれだけ変わったのか、また変わらないものはなんなのか、こういう検討がされているとでもいったらいいのかなあ。まあ、ちょっとしたおまけみたいなもんですが、けれどおまけというにはしっかりとしている。本文に不備があらば補足し、異論反論があれば再検証し、また同じ統計からその後の変化を追跡したかと思えば、思いがけない見識まで披露されて……、ええと例えば、マッツァリーノ曰くまだまだネットには質・量ともに、図書館に取って代わるほどの情報はありません。実は私も同意見です。

私は本家こととねにて初学者のための音楽講義というコンテンツを公開していますが、これがオリエンテーションすなわち導入部で止まっているのはなぜなのか。その理由、まず第一には、生徒が忙しくてこれなくなった。これ、生徒に音楽のもろもろを教えるために用意した資料だったんです。つまりは再利用だったってわけ。そして第二の理由、こちらが切実、私が勤めていた図書館をやめたから。私の働いていた図書館はいわゆる専門図書館で、音楽に関する資料、文献もろもろへのアクセスが極めて容易であったのです。私はあれらを作成するにあたり、多くの資料にあたり、裏をとり、面白そうなエピソードをピックアップして、そして同僚に意見を求めて、できるだけ正確なもの、妥当性の高いものを作ろうと骨を折っていたのです。ですが、その資料が利用できなくなった。これ、もう大打撃ですよ。本当ならオリエンテーションを終えたら、すぐさま歴史編に移るつもりだったんです。ですが歴史こそは資料が大切で、自宅にも何冊も歴史関係の本を確保してるんですけど、けれどそれでは足りないのです。全然足りない。だからといってWebに答えを求めるなんてもってのほか。あれが書かれた2001年時点はいうに及ばず、今2007年であっても大同小異です。よくまとまってるなあと思えるものはあるけれど、それはごく一部。大半は参考にするにも弱すぎるものばかりで、だからWebというものは、読み物探すにはよくっても、資料となるとからっきしだと思っています。本当だったら大学や研究機関がさ、信頼に足る情報源として機能しなきゃいけないんだと、特に文系学問、さらにいえば音楽、音楽学。けれどそういうのがほとんどないってどういうことだよ。私みたいな個人がやったって焼け石に水なんだよ、それこそ学会とかなにしてるの、って思ってるんだけど、でもまあ駄目なんだろうね……。

なんの話してたっけ? あ、そうか図書館か。残念ながらWebは情報源としては図書館にはるか及びません。私はちゃんとした図書館員になりたくて司書の資格を取ったのですが、その課程において知ったのは図書館をツールとして利用するための技術でありました。図書館には情報源がたくさんある。もちろん、すべての図書館にあるわけじゃない。残念ながら日本の図書館は、資料のアーカイブとしてよりも貸本屋的な機能が中心で、それは結局は利用者の求めがそうだからとしかいいようがないのですが、けど本当は図書館というのは、調べものをするためのツール群を用意する施設であるのです。ヨーロッパやアメリカなんかは図書館における最前線であるといっていいと思うのですが、ライブラリアンのステータスが半端でないといいますね。図書館学以外に専門課程も修める必要があったはずで、そうした専門知識を駆使し蔵書を構成し、また利用者に対して適切なリファレンスをおこなう。公共図書館でもかなりのものだといいますが、大学図書館ともなるともうそりゃ半端でないんだそうで、調べたいことがあるんだけどって聞いたら、ちょっと待ってろ、山ほど本を抱えてきてさ、お前の知りたいことはこの本とこの本に詳しい。これとこれとこれには関連する論文が収録されている、ほらここからここまでがちょうどそのテーマだ、みたいな具合なんだって、アメリカに留学していたという人から聞きまして、私はそういうライブラリアンになりたかったんだけど、けど私にはそういうことは求められてなかったなあ。頑張ったんだけどなあ。ある作品について知りたいと問われれば、論文集やらエッセイやらかき集めて提供したりできる寸前までいってたんだけど……、けれど私のそうした機能はあの図書館では結局必要とされず、だからやめるほかなかったんですね(だって専門駆使して時給800円だぜ、そりゃねえよ)。

なんの話だっけ? ああ、図書館か。

パオロ・マッツァリーノの調査活動見てると、ああこの人は図書館を知っていると感じられて嬉しくなるんですよ。図書館には資料があって、適切に利用すれば、こんなにもたくさんのことがわかるのだ。資料、統計、本の類いは、表面をなぞるだけならただの数字、文字、データの羅列に過ぎないけれど、多様な情報へのアクセス仕方を知り、読み解き、組み合わせをおこなうことによって、再び命あるものに還元することができるんだって、その手本みたいなんですから、本当に興奮します。情報は単体ではえてして弱いものですが、だから様々な情報で支え合い、補強して、またひとつの情報が次の情報をひき出すための呼び水となったりもして、当初の予想以上にいろいろなことがわかったりするのも非常に面白い体験なんです。これは学問だとかなんだとかは関係なくて、とにかく知るという、情報を咀嚼しわかるという楽しみ、喜びの洪水です。本来図書館とは、そうした知の楽しみ渦巻く遊園地、アトラクションであるのですが、けれど今は半分以上眠ってるっぽい? 残念よね。ほんと、残念だと思います。

あ、そうだ。パオロ・マッツァリーノは世界有数のふれあいウォッチャーだそうですが、氏に触発されて私もふれあいを求めたりなんとかしてみたところ、私の住むまちにもふれあいが発見されたのですね。その名もふれあい回遊のみち。その入り口に立つ案内の写真を撮りました。見てください:

  • Guidepost
  • マッツァリーノ,パオロ『反社会学講座』(ちくま文庫) 東京:筑摩書房,2007年。
  • マッツァリーノ,パオロ『反社会学講座』東京:イースト・プレス,2004年。

参考

引用

  • マッツァリーノ,パオロ『反社会学講座』(東京:筑摩書房,2007年),258頁。

2007年7月22日日曜日

ふたりごと自由帳

 昨日は小坂俊史編、とくれば本日は重野なおき編で決まりでしょう。重野なおきは、芳文社においては『ひまじん』、竹書房においては『Good Morning ティーチャー』、そして双葉社にては『うちの大家族』を連載し、そのどれもが人気という、地味ながらも才能の光る作家です。おそるべしはその連載数。上にあげただけでなく、『たびびと』(芳文社)、『千秋しまってこー!!』(竹書房)、『のの美捜査中!』(白泉社)といった連載もあって、これらがことごとく単行本化されているという事実を見ても、着実に売れる作家であるというのは間違いないところでしょう。しかし、なんでこうも支持されるのか。残念ながら、私には私の感じているところしかわからないのですが — 、人柄でしょうかね。漫画に、漫画の登場人物を通して現れる作者の人となりというかが、なんかすごくよいのだと思います。明るくて、前向きで、さっぱりした感じが気持ちいい、そんな人柄。そして、この感じは『ふたりごと自由帳』においても健在で、ああ重野なおきらしいなあと思った。つまりは、読んで気持ちのいい漫画だなあ、ってことであります。

『ふたりごと自由帳』での重野なおきは、小坂俊史同様、日常の暮らしに発想されたと思しい漫画が展開されていて、それもなんだかにんまりと笑ってしまいたくなるような恋愛、ぶきっちょという表現が実にしっかりくるような、そんな恋愛を描いたものが多くて、面白かった。なんというか、みんな今の状態で足踏みするのは嫌なんだという、とにかく前に向かおうという意気込みにあふれているというか、けどなんでそういう踏み出し方しちゃったの? みたいなところがすごく可愛らしく、そう、登場人物のアプローチの仕方が、ちょっとずつまどろっこしくて、ああでも確かに恋愛状況に入るとこんな感じかもね。なんか普通じゃいられんもんね、なんて思ってしまってほほ笑ましいのですよ。

でも、恋愛というのは常にうまくいくばかりでなくって、失恋の苦さ、そうしたものも、恋愛成就ものと同じくらい描かれていて、けれどそれが重苦しいばかりでなく、心に引っかかりながらもきれいに離れていくように感じられるのは、登場人物が自分の心の痛みも悔いもなにもかもを、少し突き放して客観的に見ているからなんだと思うのです。ああ、自分の心が痛いといっているよと、けれどそれでべそべそと泣いたりはしない。痛みを整理して、自分の心の動きをきっちり精算して、一体なぜ、私はこのように思うのだろう、その理由やきっかけが明らかにされて、そして後は余韻。余韻には、言葉にされなかった心の色がほんのりとあらわれて、しんみりとしたり、けれどきっと立ち直れるだろうと、やっぱり前向きなんでしょうかね、今とそしてこれから先のことがうかがえるような、そんな膨らみがあるのです。

私の好きだなと思ったのは、金魚の話でした。無理してる、けどその無理してることが明らかになって、そして……。面白かった。なんか、ほんとぶきっちょで、けどぶきっちょ同士がそれなりにひきあうような、そんな可愛らしさがいいなあって思った漫画です。そして「君に幸あれ」。この感情の流れ。私にも身につまされるところがあって、人はこうした負の感情からは容易には自由になれなくて、けど重野の漫画のいいところは、一旦は落ち込ませながらも、けれど最後にはきっと前向きに終わらせてくれる。人によっては、楽観的すぎるというのかも知れないけれど、重野なおきの明るさ、前向きさは気持ちがいい。ああ、自分もこうであれればいいね、皆もこうであれればいいねと、そういって静かに微笑んで本を閉じることのできる、そういうよさのある漫画であると思います。

  • 小坂俊史,重野なおき『ふたりごと自由帳』(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。

2007年7月21日土曜日

ふたりごと自由帳

 なんだかもったいなくって、少しずつ読んでます。『ふたりごと自由帳』。だから、感想も少しずつ書いていこうと思います。今日は、小坂俊史編。

私が小坂俊史ときいて思い出す漫画はなにかというと、まずはなにをおいても『ひがわり娘』、これ、私の講読している芳文社の四コマ誌で連載されていたものです。そして女子スリーピースバンドを扱った『サイダースファンクラブ』でしょうか。他にもいろいろあって、私も他にもう少し持っているのですが、そのどれもに共通するのは、登場人物の破天荒さというかナンセンスぶりというか。自分勝手で非常識で、けど人間くさくて、なんか憎めないやつなんだよなあ、って感じ。けど、ちょっと小憎らしい。こんちくしょうって思うんだけど、ほんとお前ってどうしようもないやつだよなあ、ははは。そんなあっけらかんとしたところの強い作風だと思います。

でも、それは一面だったのですね。『ふたりごと自由帳』は小坂俊史、重野なおき両氏が同人誌にて発表した漫画をまとめたもの。つまりこれらは、描きたい題材を選んで、商業的な成功どうこうという要素を抜きにして、作られたものであったのですね。だからこそ、これまで私が触れてきたものとは味わいを大いに違えて、ナンセンスなギャグを得意とする小坂俊史がギャグをやらない。驚きだったとはいいません、だって予想していたことだもの。けれど、その心象風景のあまりに自分に訴えること、驚きをこえて嬉しくなった。ときに少し引っ込み思案の人たちの、内面に広がる思いのおかしさ、切なさ、いとおしさ。屈折していたり、あるいはまたあまりに素直すぎたりして、突拍子もない行動の原動力にもなる人間の心。それが、まあこんなにもしんしんと、淡々と、日常に紛れることもなく息づいているものだ。人は、人は、小さくて、弱くて、切なくて、悲しくて、そしてたくましいものであるなあと、そういうものを感じさせる作風。小坂俊史のよさは、こうしたところにも隠されていたのかと、これまでこの一面を知ることなくきたことがちょっと悔しいと思える漫画たちです。

でも、本当に人間くさい。それが漫画的というよりも文芸的といいたくなるような筆致で表されていて、ダイナミックさはもとより感じられない。本当にささやかな小品集といった味わい。ファンタジーに逃げず、あくまでも日常あるいは生活感を出発点とするような、違ういい方をするなら、ああそういうことってある、私もそんな風なこと考えたことあったわ、なんて共感に満ちた掌編たち。それが嬉しいのですよ。

こんなこといったら、笑うかも知れない。私は学生の頃、なんだか妙な思いにとらわれて、神戸線の電車飛び乗って、三宮を越えてずっと向こう、須磨の方までいったことがあったのです。日常を抜け出したいという思いであったのか、たまたま私が不安定なだけだったのか。目的もなく、ただ海が見たいなと思っただけの小旅行。なにを得られたわけでもないけれど、あの時の私にはきっと必要なことだったのだと思います。

小坂俊史の漫画を読んで、そんな昔のことを思い出しました。思いは共鳴する。今、そんなことを考えています。そして、私はこの漫画を読んで、身の回りにこの漫画について話のできる人がいないということをすごく残念がって、私の胸の中に生じた思いは、誰にも吐き出されることもないままに、胸の中、反響しながら虚空に落ちていくようです。

それではあんまりに寂しすぎるから、私はインターネットの闇に向かってこうして思いを放っているのかなって、そんなことも思った。だとしたら、小坂俊史も自分の中の思いを、こうした同人という活動において世に放ったのかも知れないと、そんなことに気付きました。大丈夫、小坂さんの放った思いは、きっと多くの人が受け取って、自分の思いに共鳴させながら読んでいることと思います。そしてその思いが、その人たちの中でまた違ったなにかに変わっていくのだとしたら、それはどんなにか素晴らしいことであろうと、そんなことを思います。

  • 小坂俊史,重野なおき『ふたりごと自由帳』(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。