2006年10月31日火曜日

JavaScript

 今日、人に説明しながらプログラム書いていたときに、なんとなく思いついて、こんなの書いたのでした。

if ('俺' == 'ヒーロー') {

}

これ、もし 俺がヒーローだったらを表してるつもりなんですが、今日、帰り道、やっぱりはオブジェクトにすべきだったかなあと思ったりなんかしまして、だって、('俺' == 'ヒーロー')なら結果は常にfalseにならざるを得ないわけです。だから、まずはHumanオブジェクトを定義して、それをvar = new Human();みたいにしてインスタンスを作成した後に、が英雄であるかどうかを判定すべきでしょう。で、人が英雄であるかどうかというのは、つまりその人の性質を判断するということになると思うので、Natureプロパティあたりを判定すればいいというわけで、つまり、こんな風に書くべきなのかなと思い直したのでした:

if (.getNature() == 'ヒーロー') {

}

なにあほなことゆってんの、てなものですが、人間疲れてくるとこんなもんです。とりわけ、プログラムなんて理屈やらなんやらで書くもんですから、途中で疲れてきて、どんどん頭が悪くなっていると自分でもわかって、言語支離滅裂になるし、しまいにはろれつもまわらなくなるし(やばい?)、そんなときにはこんなくだらないことでもしないとやってられません。

というわけで、さっきのプログラミング例を見ていただいておわかりのように、私は最近JavaScriptに取り組んでいます。JavaScriptというのはWebブラウザ上で利用できる言語でありまして、Webサイトの使い勝手をよくしたり、また最近ではAjaxと呼ばれる手法が花盛りで、過去には考えられなかったようなユーザーインターフェイスを実現したりと、まさしくJavaScript返り咲きといった具合なのです。だって、昔はJavaScriptといったら、ウィンドウをばんばか開いてうざがられたり、ステータスバーに文字列流してうざがられたり、Web上の嫌われ者という印象が強かったのです。ですが、Googleマップが火をつけたんでしょうかね、便利な例が人目につくところに現れて、それにAjaxなんて名前が付けられて、一気に広まって、それで気がつけば私もJavaScript書いてたりします。

Ajaxがばーっと広がったからか、Web上で参照することのできるJavaScriptリファレンスも充実してきて、実にありがたい限りだと思います。それこそ、ちょっと前までとなれば、文字を流す方法とか、ウィンドウ開く方法とか、便利なものだったらフォームの入力チェックでしょうかね、とにかくそういうことをやりたい人のためのサンプルコード集みたいなのしかなかったから、それを考えると格段の変化だと思います。けど、それでもまだ私には不満があって、というのは、ひとつのプログラミング言語としてJavaScriptを知りたいと思っても、そうした視点にたってJavaScriptを学べる環境というのが見当たらないというところです。

Web上の情報だけで済ませようという考えには限界があるなと思って、けれど巷のJavaScript本はといえば、結局サンプルコード集みたいなのばかりという印象で、だから私はオライリーの本に手を出すべきなのかなと迷っているところです。オライリーの本は、GISだったか、地図関連のコードブックをちょっと見たことがあって、けど本格的な本は読んだことがありません。DreamweaverにオライリーによるHTML/CSSとJavaScriptのリファレンスがついていて、それを読んだくらいでしょうか。

言語としてのJavaScriptを学びたいならオライリー本を読め、他には類書はないからという意見は何度か目にしていて、なのでオライリー本を買うべきなのかも知れません。その際には、やっぱりJavaScript 1.2中心の日本語訳第3版ではなく、JavaScript 1.5にまで言及している原書第5版を読むべきなんでしょうか。英語かあ。嫌だなあ。でも、コンピュータ絡みの新しい情報は英語ができないとどうしようもないからなあ、てな感じで迷っていたりします。

ところでHumanクラスで思ったのですが、JavaScriptはプロパティ(インスタンス変数)の隠蔽ができない言語なので、外からなんぼでも中をのぞけるんですよね。つまり、さっきHuman.getNature()みたいに、ゲッターを使ってNatureプロパティを参照していましたが、そんなことせずとも、Human.NatureでNatureプロパティにアクセス可能なのです。けど、これは便利な反面、危険もあって、それ以前に自分がインスタンスなら嫌だなあみたいな話でしてね、だって、内心の秘匿ができないわけです。つまり『サトラレ』みたいな状況ですよ。

そんなわけで、私はちょっとJavaScriptの国には住みたいとは思いません。

  • フラナガン,デイビッド『JavaScript』村上列,垰井正雄,安藤進訳 東京:オライリー・ジャパン,第3版,2000年。
  • Flanagan, David. Javascript: The Definitive Guide. 5th rev. ed. Sebastopol: Oreilly and Associates, 2006.

引用

  • 高橋研『翼の折れたエンジェル

2006年10月30日月曜日

ナツノクモ

 全姉連の皆さん、ご覧になってますか? 私の一押しの漫画『ナツノクモ』の第7巻表紙は、皆さん方のお好きなですよ。アーネフェルト盗賊団のリーダー、アーネフェルトとその弟カツトシが表紙を飾って、そう彼らが帰ってきたのですよ! 気っぷがよくて豪快で、話せるかっこいい姉とちょっとみっともない弟……。つうか、作者は弟なんでしょうか? しかも、嗜虐性のある姉をお持ちなのでしょうか? アーネフェルトの姉さんの強烈なキャラクター性とその説得力は、すなわち作者篠房六郎が弟であると物語っているとしか思えない。そう、やけにリアルなのですよ、あの物言いが、あの振舞いが、あのカツトシのおびえっぷりが!

でも、私は別にシスコでもシスコンでもなんでもないから、別にアーネフェルトが戻ってきたからってなんとも思わない(嘘)。けど、いよいよ役者が揃ったという感じがしてわくわくする第7巻は、実際に戦闘てんこ盛りの大盛り上がりを見せて、『ナツノクモ』の陽の部分が絢爛に輝いているという感じです。そうなんですね。『ナツノクモ』には光の部分、影の部分というのがあって、非常に陰鬱で圧迫されるような心理描写があったと思えば、その揺り返しかと思えるようなダイナミックな戦闘も見せてくれて、この7巻の見せ場はまさしく陰から陽への切り替え。これまで保たれてきた静があのあまりにも感動的な台詞でもって動に転ずるべく舵を切る、その鮮やかさにうなります。

そしてまたうならされるのは、クランクの作戦の鮮やかさでしょう。これが本当に出来すぎている。大魔道士と騎士団の同士打ち作戦にも心を震わせたものでしたが、第7巻はそれ以上。確かにあまりにもクランクの策がはまりすぎていて、ハッターならずともちょっと退屈かも知れないけれど、けど実をいうと私はクランクでもなくトルクでもなく、ハッターでもなく、それこそミツキに似た精神構造を持っているものですから、ああいう一方的な大殺戮は大好きで、面白かった!

面白かった — 、けれど本当に面白いのは爽快な一方的勝利ではなく、随所にちりばめられたギャグでもなく、それらを縫い取る糸のように紆余曲折しながら語られる、登場人物の心理描写であると思うのです。確かに、戦闘の描写やギャグが増えれば、その分心理描写は弱くならざるを得ないのですが、ですが第7巻は要所要所に大きな山が設定されているから、それら描写が胸にずしんと響いて、涙がにじんだこと一度や二度ではありません。とにかく『ナツノクモ』は振り回してくれるなと思うのですす。

第7巻では主要人物の抱えていることの大きさ重さがはじめてはっきりと語られて、それがきっかけとなって物語の奥底にあるテーマが動き出したと実感できる重要な話を含んでいます。これまでに積み重ねられたことが、いよいよかたちを成そうとしていると感じられて、だから私はこの章をもって『ナツノクモ』は終わりに向かうかも知れないと思い、寂しさを思ったのです。それは、漫画の登場人物であり、またMMORPGのPCであるという意味で二重に架空の人格である彼らの表現形の向こうに、確かにあると感じられる心が、その心が変化し動きを見せる様に、私の心も引きずられるように動き、どうしようもなく揺れるからなのです。

  • 篠房六郎『ナツノクモ』第1巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第2巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第3巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第4巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第5巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第6巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2006年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第7巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2006年。
  • 以下続刊

2006年10月29日日曜日

○本の住人

 はじめてみたときからなんだかよくわからない漫画でした。なにしろ、タイトルの正しい読み方もわからなかったくらいで、最近になってまるほんのじゅうにんでいいということが確認されたのですが、このいろいろとよくわからない、ナンセンス色の強い漫画がとにかく面白いのですから、私の趣味というのも微妙によくわからないなと思います。主人公は兄ひとり妹ひとりでけなげに日々を暮らす気苦労の絶えない小学生のりこ。彼女のまわりにいる人でまともなのといえば、友人のみかちゃんくらい。後はみんなどこか変で、そんな中で一二を争う変が兄と友人ちーちゃんなんじゃないかなと思います。

けど、ちーちゃんはすごいよ。話す内容支離滅裂、行動にしても限度知らずの乱暴狼藉系で、ナチュラルに普通じゃないちーちゃんの行動言動を毎回毎回ハイテンションに打ち出してくる作者の発想が本当にすごいと思います。このすごさはちーちゃんだけではなく、兄の言動行動にも現れていて、この兄というのが絵本作家なんですが、極めて内容意味不明な絵本を書いている、その意味不明絵本を本編にもちらほらと出してきて、いやあ、本当に意味不明。けど、その意味不明がただ意味不明なんじゃなくて、読んでいて面白いのがすごいのです。この意味不明さというのはもしかしたら『あずまんが大王』に見られたシュール系ネタの延長線上に位置する意味不明さなのかも知れません。だから、『あずまんが大王』のシュールが面白いと思った人(「脳が!」とかですね)には手放しでお勧めできるんじゃないかと思います。ああいう起承転結がはっきりしてないのは嫌いという人は読まないほうがいいと思います。

さっきから意味不明、意味不明と連呼していますが、頭から最後まで意味不明の連続なのかといえば、決してそういうわけではないのです。毎回、緩いストーリーが作られていて、そこにちーちゃんや兄の意味不明なネタがちりばめられるという、そういう構成です。もちろん、意味のわかるネタというのもありまして、それは兄やクラスメイト男子を中心としたおたくの生態、行動原則を扱ったものが多く、萌え追求主義とでもいうのかなあ、傍目には迷惑で、あるいは理解しにくいようなもの。そうしたものと日常とのギャップでもって面白がらせるようなパターンができあがってるのですが、だからそういうおたくっぽいもの、 — 行動や言動に嫌悪を抱くような人にはちょっとお薦めできない漫画じゃないかと思います。

でも、そうした要因がマイナスにならないというような人には、きっと面白い漫画であると思います。とりわけナンセンスなものが苦にならない、むしろ好きというような人には、それは私自身にほかならないんですが、絶対読んで損しないタイプの漫画であると思っています。ストーリーもいい、ナンセンスネタもよければ、コマの端々に見えるサブカル系小ネタも面白くて、ただこうした小ネタはちょっと対象年齢層高目なんじゃないかなという気もするので、そうした層にすっぽりと含まれてる私はなおさら面白い。いい循環にはまっていると思います。

  • kashmir『○本の住人』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

2006年10月28日土曜日

RICOH GR DIGITAL手拭い

 先日いっていたGR DIGITAL一周年記念の手拭いプレゼント企画ですが、これ、プレゼントに応募するトラックバックが三百に満たなかったから、うまくすればあたるかもなあ。倍率にして二倍弱くらい? みたいに思っていたのですが、開けてびっくりですよ。トラックバックは確かに130件と少なかったのですが、フォームからの応募1,077件だとか! わお。約四倍ってとこですか? というわけで、正直あたらないと思っていたのです。で、期待せず手拭い当選Blogを見ていたら、*おおっと*、こととねお試しBlog発見。しかし、こうして他のBlogに並べてみると、うちのBlog、変な名前だなあ。

これ、例えば応募総数350件みたいな、落ちる人間の方が遥かに少ないような抽選だったら、私、落ちてたと思うんです。ええー、こんな倍率で落ちるのー!? というのが私の常なので、しかしそれにしても今回は幸運でした。粋な手拭いいただけるということで、Ricoh様には厚く御礼申し上げます。

と、これだけで終わるのもなんですから、写真を紹介しておきましょう。

一枚目は、神社の狛犬です。なんか、独特の顔が面白いので寄ってみたら、秋空がなんだか良い感じ。これ、ちょっとアンダーに補正しても面白かったかもと思っています。

Stone guardian dog

もう一枚、同日午後です。空のグラデーションが思っていた以上に効果的でした。もうちょっと右にフレーミングしたらよかったと思いますが、案外これくらいでいいのかも知れません。なお、狙った被写体は月です。ちいさっ!

Twilight, streetlight, crescent moon

最後に、ちょっとした面白写真を。

Gold Mask of Tutankhamun

これ、あちこちから引き合いがあった写真なのですが、実はこんなのなのです。

Tutankhamun's mask on my hand

普段は冷蔵庫に貼り付いております。

2006年10月27日金曜日

HR — ほーむ・るーむ

 長月みそかを読むときは、彼彼女らの関係を、にまにましながら見守るのがいいのだと思います。中学生の多感な時期を、友達と一緒に迷ってみたりふざけてみたり、道草しながら歩くみたいにしてゆっくりと、けれど着実に過ごしていく、その日常の風景に垣間見せる表情やしぐさがドキッとするほど魅力的で、ああこんな季節がはたして私にもあったろうかってなんだかふつふつと疑念がわいてくる。ああ、私にはなかったかも知れないね。でも、似たような季節を通過してきたような気もします。少なくとも彼ら彼女らのような青春ではなかったけれど、けれどもし来し方を振り返ったときに、こんな一コマのひとつやふたつくらい見つけることができるのだったら、きっとそれが私と長月みそかを繋ぎ止めるものの正体なのではないかと思います。

この本には、夢がつまっているのです。こんなだったらいいなと、毎年の春、新学期、新しいクラスに不安をともに思った期待が描かれているかのような気がします。あるいはクラブ活動で、新入生の獲得、新しいメンバー、新しい友達、広がっていく人間関係にわくわくして、また戸惑って、そうした微妙な心の揺れ動きを思い出させてくれるみたいで、だから私がにまにましてしまうのは、私のかつての期待やなにかがめくったページの一コマ一コマに見透かされているみたいな気がするから。この期待の入り交じった落ち着かなさを思春期のそれというのなら、やっぱりあの季節は青春であったんだと思います。なら、この漫画は間違いなく青春の真っ直中を、照れもてらいもなく実直に、夢に思い描いた理想をそのままに描き出して見せていると、そういっても言い過ぎではないと思います。

けれど、ここに描かれているのは、本当に夢のような理想だけなんだろうかとも思うんですよね。これがただの夢で、理想だけをもって組み上げられたものだとしたら、このしっとりと肌に残るような実感はなんなのだろう。私の通っていた中学は、給食ではなかったし、プールもなかったし、こうしたものが私の過去の実感を呼び起こすことは決してないはずなのに、体育館の壁際に、印刷室の暗がりに、文具店の陳列に、夜店の屋台の灯に、私の実感はうずくのです。それらの記憶は、きっと私のものではないというのに、デジャビュを感じたときのように、私はこれを知っているという鮮烈な感触が肌の表面をなでていく。 — 共有している感覚がそこかしこにちりばめられているためなのでしょう。違う時間、違う場所で経験した、細部は違っていてもおおまかに同じような体験が、コマの端々、できごとのそこここにほのめかされているものだから、知らず知らずに私の記憶は呼び覚まされて、実感は再構成されて、

そして私は山葉第二中学校に迷い込むのです。そこで出会うのがあの子たちであるとしたら、私が彼ら彼女らのあれこれにどうしようもない親近感を得るというのもしかたがないのかも知れません。

長月みそかの漫画は、理想が、夢が、実感が、どれも不可分に結びついていて、そしてそれらを絡めてとめる媒体はきっと対象への愛なのだろうと思います。愛が世界を包み、あたたかなまなざしが惜しみなく注がれている。そんな感じがするから私はこの漫画を好きになり、同じく愛を注ぐものとして参加したいと思ったのです。

蛇足

梶井素子が大好きです。大歩危小歩危、鉄分豊富、機械に強くてちょっと地味。最高です!

  • 長月みそか『HR — ほーむ・るーむ』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

2006年10月26日木曜日

ふたりめの事情

 私は本の病にかかっているような人間です。本屋を見れば寄らずにはおられず、例えば仕事帰り、駅にたどり着くまでに書店三軒をはしごします。書店はそれぞれに得手不得手があって、日によれば三軒が四軒になって、途中、乗換駅で改札でたところの書店により、しかも最寄り駅前でも寄ってと、一日に五軒六軒はやり過ぎだろうと自分でも思うのですが、寄らずにはおられないのだからしかたがない。それぞれの書店で新刊見つけては買い、面白そうな本を見つけても買い、そして今日買ったのは、きづきあきらの『メイド諸君!』第1巻、久世番子『ふたりめの事情』、そして同じく久世番子『暴れん坊本屋さん』第3巻、でした。

これらの本を見つけたのは三軒目、けれど三軒目で買ったのは久世番子の二冊、きづきあきらは途中下車して買いました。なぜか? それはちょっと美しさに問題があると思われたから。美しさ? そう、美しさ。ほら、よく本屋にいくといるでしょう? 神経質そうな客が、おんなじ本をためつすがめつ眺めて、一番綺麗なの選んでるみたいな風景。そう、それが私です。どれ買っても同じじゃん、とも思うのですが、だって明らかに違うじゃん! との理由で、どうしても選んでしまいます(疲れているときほど神経質です)。

けれど、久世番子の二冊は問題ない感じでしてね、だから三軒目で買ったのですが、いやあ、油断しましたね。まさかレジでシュリンクを外されるとは思いませんでした。カバーいりますか? いえ、そのままで。袋だけでいいですよ。と答えたそのままの解釈が違ったんですね。私はシュリンクもつけてそのままでといったつもりだったのに、店員さんはカバーなし本のみでそのままでと思って、シュリンクを外してくださった。けど、けどさ、その外し方はカバーが、カバーが傷むんです!

番子さん、傷物になっちゃった……。しかも被害としては、『ふたりめの事情』の方がひどくて、っていっても一般人なら気付かない程度の瑕疵ですな! と思って今みなおしたら、カバーにボールペンの線がはいってるじゃないかあ。うう、しくじったなあ。もういいや、明日、明日買い直そう……。

というネタでもって『暴れん坊本屋さん』で書こうと思っていたのですが、けど車内で読んだ『ふたりめの事情』が割合に面白かったので、今日は『ふたりめの事情』です。

軽いのりとタッチで書店の内幕を暴露する『暴れん坊本屋さん』を読んだ直後に『ふたりめの事情』に移行して、正直重くてしんどそうかなというのが最初の印象でした。細やかな絵、吹き出し内の台詞も多く、疲れている体にはきついかもしれない。読むのやめようかな — 。やっぱり同じ読むならベストコンディションで読みたいと思いながらも、けれど物語は動き始めて、そして静かに私は物語世界に引き込まれていったのでした。

久世番子は、繊細なタッチで、時にはギャグも交えつつ、けれど割合に重い内容を書くことが多くて、そうした傾向は『ふたりめの事情』においても同様であったと感じています。知らなかった双子の兄弟に出会うという物語。主人公の少年は双子の弟に出会ったことをきっかけに、コンプレックスに足を取られながらも、自分自身を見つめ直し、成長していく。しかしこの伸びゆく少年の物語が、みずみずしさよりも切なさを強く感じさせるというのは、一体どうしたことでしょう。物語のそこかしこに死や忘却というテーマが顔を出して — 、そういえばこの感覚は久世番子の既刊においても同様だったということをふと思い出しました。そうなんです。久世番子の漫画には通底するテーマがあって、それは自分を見つけて欲しいという思いなのではないかと思ってます。自信を持てない主人公が、あるいは素直に気持ちを表現できない主人公が、心の奥に隠してしまった本当の私を見つけて欲しいと思っている。そのような、分かたれてしまった私をめぐる物語が、久世番子のテーマであると思うのです。

だから切ない。

久世番子の切なさは、この私を見つけてくれるはずの誰かもまた、自分自身を見つけて欲しいと願っているというところにあるのではないかとも思っています。この構図は『ふたりめの事情』には特に色濃く、例外はありますが、登場人物のほぼすべてがそうした分かたれた自分自身を心の奥に隠していています。見つけ出して欲しい、そして受け入れて欲しいと思いながら、けれど、それを表には出せずに苦しんでいる様が切なくて、しかも、望みのうらにきっと駄目なんじゃないかという不安を寄り添わせているからなおさら。けれど、久世番子はこうした不安を放りっぱなしにすることなく、希望も切なさもすべてをクライマックスの一点に凝縮してくれるものだから、私は胸がいっぱいになったのです。

どちらかが優位な立場に立っていたらば、こうはならなかったでしょう。お互いが、お互いに不安と切なさを抱えて、けれど両者がそうした迷いを乗り越え、歩み寄ろうとするからこの物語は成った。甘くけれど煮え切らないラストは拒否して、決然と終わりを、切なく悲しい終わりを選び取りながら、それがこれほどまでにあたたかで幸福で美しい印象に包まれたのは、なされるべきことをまっすぐに見つめて、ひるまず一歩を踏み出したからだと思うのです。誰もが — 、登場人物が、作者が、そして読者が、切なくけれど仕合せなこのラストを選ぼうと決めた。その決断がこの読後感を支えていると、そんな風に私は感じています。

2006年10月25日水曜日

ありのままに

  私は子供時分、暇があれば本を読んでいるような子供で、もしファミコンという新しい娯楽がこの世に存在していなかったら、きっともっと一杯、たくさんの本を読んで、今よりももっと豊かな読書体験をしていたことかと思います。そんな子供の頃に好きだった本が『クレヨン王国の十二か月』でした。どれくらい好きだったかというと、高校の夏休みの宿題、読書感想文の題材にこれを取り上げたくらい。そう、私は高校の読書感想文を全部児童文学でやっつけたのでした。こんな私ですから、クレヨン王国シリーズがアニメになるというのを知って、『夢のクレヨン王国』もしっかり押さえてみたのですが、残念ながら日曜朝というのは私にとっては深夜と同じですから、最初のひと月くらいしか見られなくて、けどその主題歌のシングルだけは買ってあって、 — したらそれがいい歌なんです。

といっても、もちろん買ってはじめて気付いたとかそんな話じゃないですよ。アニメを見て、主題歌、オープニングとエンディングを聴いて、これだ、これはいい、と思ったから買ったんですが、その後アニメ本編を見られなくなってからも、この歌はやっぱりずっと好きであり続けています。その後、iTunes / iPodに取り込んだので、今でもたまに聴く機会を持つのですが、もともとのアニメや物語という文脈を離れてもやっぱりいい歌なんですね。

『ン・パカ マーチ』も好きなのですが、それ以上に好きなのが、エンディングテーマの『ありのままに』です。ゆったりとしたテンポに清浄な雰囲気の漂う佳曲で、女性の歌うメロディに児童合唱団がかぶさってくるところなんかは、涙が出るかと思うくらいに美しい。空へ、天へと志向するかのような旋律の上昇感は、私たちがもっとも美しいものを見たときに心に兆すような、一種敬虔な思いを呼び起こしてくれます。そしてその詩の持つ豊かな世界、暖かく深いメッセージがメロディ、ハーモニーに渾然として、私を包み込むようにしてあたりいっぱいにあふれ返って、ああいい歌だ。すごくいい歌なのです。

このアニメの本来の対象である子供たちがこの歌を聴いて、この歌、福永令三の詩に触れて、そのあたたかさ、この地上には命がありそのすべてが生きているということの素晴らしさを称揚しようというその思いを感じ取ってくれるとしたら、それはどんなにかよいことだろうと思います。

2006年10月24日火曜日

RICOH GR DIGITAL

 GR DIGITALが発売されて一周年ということで、いろいろな企画目白押しです(でした?)。この間いっていたのは手ぬぐいのプレゼント企画でありましたが、それとは別にGR DIGITAL一周年記念カレンダーコンテストというのもありまして、これなにかといいますと、GR DIGITALで撮られた写真を募って優秀作を選び、それでもってカレンダーを作ろうという企画でした。ひとり三点まで応募できて、選ばれるのは十三点。無理だろうなあと思いながら、私はその締め切り直前に中国は四川省にいっていた。これだ! と思いましたね、まさしくナイスタイミングってやつです。

さて、ここでちょっと引用をしましょう。書いたのは私。別のところで書いている日記で、書かれたのは2006年10月8日22時52分。タイトルはカレンダーでした:

私の愛用しているカメラGR DIGITAL。このカメラが発売されて一周年ということで、Ricohがカレンダー企画というのをおこないました。GRで撮影した写真を応募してもらい、優れた写真でもってカレンダーを作っちゃおうという、そういう企画です。

選ばれるのは各月の十二枚と表紙の一枚、計十三枚。私は、私の普段撮っているような写真ではまったく勝ち目がないとわかっているから、こういう企画は参加すれど対岸のできごとみたいに思っているのですが、けれど今回は違いました。中国での写真があるからです。自然世界遺産に登録されている九寨溝にいって、三百枚ほど撮ってきました。そんだけ撮れば、1%くらいはいい写真があるはずだ。今回の企画ではひとり三枚までと決められていて、しかも締め切りは九月三十日。タイミングばっちり、まさしくうってつけの企画であったのです。

[中略]

さて、カレンダー企画の選考はすでにおこなわれておりまして、以下がその風景です:
http://blog.ricoh.co.jp/GR/archives/2006/10/post_197.html

で、出る幕がない……。壁に貼り付けられた写真の数々、そのどれもが小さくはっきりとは見えないですが、けれどそれでもかなりの力作とわかります。比べて私の写真のインパクトのなさよ。出る幕がない。それが私の素直な感想です。

私も気付いているのです。私の写真にはなにかが足りない。後一歩がないというべきか、何歩も足りないというべきか、とにかくなにかが足りていないことには気付いているのですが、それを埋めるにはどうしたらいいかがわからない。わからなくてもしかたがないから、わからないなりに撮り続けてはいるのですが、いつかその足りないなにかが埋まることはあるのかなあと、そんな気持ちになりことはままあります。

とまあ、そんなわけで、予想したとおりというべきか、私の写真は入賞どころか佳作にもかすりもせず、見事落選したのでありました。世界遺産まで投入しといて!? いやほんとすまないねえ、中国……。

でも、誰にもかえりみられないままというのも寂しいので、ここで紹介しておこうと思います。上から、黄龍、九寨溝、九寨溝です。

Huanglong valley

Jiuzhaigou valley

Jiuzhaigou valley


でも、私は縦位置の方が好きみたい。

Huanglong valley

Jiuzhaigou valley

Jiuzhaigou valley

2006年10月23日月曜日

コンプレックス

  まんだ林檎といえば私の中では、『セーラームーン』の二次創作をしていた人という印象がいやに強かったりするのですが、でもある日本屋で出会ったその人は、すっかりBL作家でいらしゃった。その本というのは『コンプレックス』(ソノラマ文庫版)。やんちゃな少年二人がジャングルジムにのぼってという表紙イラストに私の目は釘付けになって……、といったら正直いいすぎですが、この表紙イラストが妙に気になったというのは本当です。なので、中身をぱら見して、よし買うかと決意して、電車で読んで、ちょっとドキドキした。特に一巻最後の話、あまりにべたといわれればそうかも知れないのですが、けどちょっとああいうの好き。そこに至るまでの過程が、それこそ十年分しっかりと書かれているから、すごくいいなと思って、だからこの続きはどうなるんだろうとずっと楽しみにしていたのです。

そして二巻を読んで、感想はやっぱりべたな展開だなあの一言。だって、これまでの展開があって、今これだけの要素が用意されたら、ああならないほうがおかしいよなというくらいにべた。ある意味期待通りで、すなわちこれ王道であります。でも、こういう王道って効くんですよね。それは、どうせこれからきっとこうなるんだぜと、意地悪な気持ちもある裏腹、期待もおんなじくらいしてるわけですよ。それこそ、き、きたー、思惑通り! ってなもんで、悔しいけどちょっと泣いた。

いや、問題はたくさんあると思うんですよ。結局主人公二人は状況に流されてるばかりじゃないかとか、問題の解決は物分かりの良い第三者にゆだねられてばかりだとか。それこそ重要なポジションに着けながらも最初から最後まで使い捨てのように扱われたような人さえいて、だからこそ余計に泣けたのかも知れませんが、でもそれでもこの漫画においてはそういった部分はしかたがないのかも知れないなとも思うんです。だって、こうした漫画の読みどころというのは、事件や物語の推移、展開よりもむしろ、主人公二人の心の揺れ動き、内面の感情の機微であると思うのです。時に迷い、弱気になりながらも、少しずつ気持ちを確かめあっていく達也と淳一の、その時々の心模様がこそ見どころであれば、物語の起伏はあまりに大きすぎないほうがいい。物語が一歩引いて脇に退いていることで、ふたりの思いのさざめきは一歩ずつ舞台の中央に歩みを進めることができるのです。

そんなわけで、これから先の展開もあるという『コンプレックス』。息子の代の物語もほのめかされ、そして主人公ふたりの行く末も気になる。それこそ、ラストでは必ず泣きますという栗本薫のあおりもあらば、余計に気になってしまうというもの。来月が、来月が楽しみです。

  • まんだ林檎『コンプレックス』第1巻 (ソノラマコミック文庫) 東京:朝日ソノラマ,2006年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第2巻 (ソノラマコミック文庫) 東京:朝日ソノラマ,2006年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第3巻 (ソノラマコミック文庫) 東京:朝日ソノラマ,2006年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第1巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,1996年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第2巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,1998年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第3巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,2000年。
  • まんだ林檎『コンプレックス』第4巻 (ビーボーイコミックス) 東京:ビブロス,2002年。

引用

  • まんだ林檎『コンプレックス』第1巻 (東京:朝日ソノラマ,2006年),帯。

2006年10月22日日曜日

ザナック

 シューティングゲームの話題が続いているので、今日もシューティングゲームでいってみよう。べ、別にネタが尽きたからじゃないんだからね!

私はどちらかといえばシューティングゲームはあまり好まない質で、だからそれほど遊んではいなかったりします。実は、あんまりうまくないのですよ。最終面までいけるようなゲームというのは、やっぱりどこかクリアしやすく作ってある。ところが、本物のシューターを相手にして一歩も引かないようなゲームとなると、もう手も足も出ないって感じでしてね、クリア? は、なにそれ? って感じでクリアできない。以前私は、昔のゲームはクリアできないのが普通だったみたいなことをいっていましたが、いやあ本当にクリアできないゲームの多かったこと。そんなわけで、最終面さえ拝んだことのないシューティングゲームを紹介します。かの『ぷよぷよ』で一世を風靡したコンパイルが、ファミコン・ディスクシステム向けにリリースした硬派高速スクロールシューティング、『ザナック』であります。

シューティングゲームにたいしてアンテナを張っていなかった私ですが、当時購読していた『ファミコン必勝本』にちょろっと『ザナック』特集がなされたのを見て、このゲームの存在を知ったのでした。曰く、ファミコン・シューティング最高峰! 『ファミコン必勝本』はライターの趣味嗜好が強く反映される傾向のある雑誌で、だからこの雑誌が推すゲームはまずはずれがないというのが私の印象で、だから、『ザナック』、覚えたぞ! という感じで、いつか遊びたいなあと思っていたのでした。

この『ザナック』ですが、なにがすごいといってもディスク片面のゲームなのですよ。容量としては448kb(キロバイトではなくキロビットであることに注意)になるのかな? とにかく小容量で、なのにゲームとしてはめちゃくちゃ面白いというのがすごい。面白いイコール=大容量じゃないといけない、みたいな間違った認識がありますが、そういう人には『ザナック』遊ばせてみたい。ゲームの面白さは容量じゃない。まさにそこに繰り広げられるゲーム内空間の広さであるのだということがわかるのではないかと思います。

しかし、この『ザナック』は難しかったです。私は書き換えに必要な余分なディスクを持たなかったため、残念ながらこのゲームは借りてしか遊んでいないのですが、しかしそれでも遊んだ遊んだ。連日連日飛んで撃っての繰り返しで、けど飽きない。毎回新鮮にプレイできる、というのはこのゲームがただのパターン学習ではクリアできないタイプのゲームであるからなんです。

AIとかいっていたのですが、プレイヤーの動向がゲームの展開に影響するのです。だから、初心者にはやさしく、上級者には厳しく、とかいうけど、それでも初心者には難しかったよなあ。でも、初心者がだんだんと技量を上げてくるにしたがい、敵の攻撃も苛烈になりはじめ、効率よく敵を始末できるくらいに慣れてしまうと、そこでまた攻撃パターンが変わってしまう。ある一定の目安こそはあるんですが、けど必勝パターンが確立したと思った時点で違うパターンに移行してくれるから、結局パターン反復ではなく、目の前に現れるものに臨機応変で対処する必要があるのです。

でも、私は往生際が悪いから、最初の数面はわざと初心者を装うみたいなせこい手を使ってました。とはいっても、どうしても取りたいパワーアップアイテムや1upなんかには本気が出るから、どれだけビギナーのふりが成功していたものか。しかも悪いことに、ある程度敵の攻撃が熾烈になってくると、私もふりしている余裕がなくなりますから、撃ちまくりの避けまくりの、そいでもって死にまくりの、てな感じで作戦はここに失敗という感じであったんでした。

『ザナック』はパワーアップが豊富でした。全部で八種類あるんですが、私はデフォルト装備の0番愛用者でした。これは、先ほどの『ひっぽん』の人気ライター、バラモス中野氏が0番愛用だったというのも影響しているかと思われますが、とにかく0番は強かった。最初こそぱっとしないショットですが、最強にまで育てると(アイアイで一気にパワーアップできる!)敵の弾をかき消せるようになって、しかも八方向に撃てるから、敵一掃も夢じゃない! そんなわけで私は0番。これ一点張りでした。

だもんだもんだから、間違えて違う番号取った瞬間に弱体化。あるいは死んでしまってショットが初期レベルに落ちればもうきついといった有り様で、でもそれでもがんばったものでしたよ。

Wikipediaのザナックの項目によれば、エリアは全部で12あったそうなのですが、エリアの特徴を見ると、私がどうしても越えられなかったのはエリア8であったことがわかります。この面にはショットでは倒せない敵が出てきまして、それらは自機で体当たりすることで消せるのですが、そいつらがショットを貫通させず、他の敵及び弾を守ってしまうため、これまでの0番で敵及び弾を掃討するという手が通用せずきつかったんでした。8面のボスには会えたんだっけかなあ。とにかくあの赤いぶよぶよに阻止されて前に進めないというのが、私の『ザナック』の限界でありました。

PlayStationで『ザナック』が出たとき、私は買いましたね。予約してまで買いました。で、リメイク版はまったく遊ばず旧版でばっかりで遊んで、けど今となってはエリア8など夢のまた夢。全然先に進めず、やっぱりゲームは子供の頃の方がうまかった。いや、時間があったんだ。今も、あの頃と同じくらいの時間をかけて打ち込めば……、クリアできるかなあ。多分無理だと思うなあ。

引用

2006年10月21日土曜日

沙羅曼蛇

 昨日の記事に対してコメントいただきました。全方向シューだと、ナムコ「ボスコニアン」、コナミ「タイムパイロット」も面白いですよね。ああ、申し訳ないのですが、両方遊んだことがないのです。名作として名前だけは聞き及んでいるのですが、残念、遊ぶにいたりませんでした。私のゲームプレイにおいて重要なのはなにであるかといいますと、そのゲームがコンシューマ機に移植されたかどうかの一点なのであります。というのも、幼い時分、真面目だった私はゲームセンターに寄りつかず(うそ、小遣いが少なかったから遊べなかったのだ!)、そのためファミコン版が出て、それを買った友達があってはじめて遊ぶことができたのです。ああ、でも今こうしたレトロゲームを遊べるのなら遊びたいなあ。ただの懐古趣味かも知れないとはわかりながらも、けど昔のゲームも面白いんだもの。Wiiもそうですが、EGGなんかにも期待したいところであります。

そんな私が生涯でもっとも遊んだシューティングといえば、おそらくは『沙羅曼蛇』ではないかと。もちろんファミコン版。中学時代にとにかく毎日のように遊んだ牧野が持っていまして、やることがなくなんとなく手持ち無沙汰を持て余しているようなときには、『沙羅曼蛇』でもやるか、ってなのりで遊んで、遊び過ぎたものだから一面二面は楽勝になっちゃった。

どれくらい楽勝かというと、ノーミスで最終面にたどり着くのは基本。だから私たちはクリア時にパワーアップゲージをリップル以外消してしまうというのを決まりにして、最終面についたらカプセル取ってはスピードアップの繰り返し、スピードは15段階でしたっけ? とにかくスピード1でもゲームになりませんが、スピード15だと余計にゲームにならないというか、ちょっと油断すると激突死を招くスリル展開。けど、これでも死んではならないというのが決まりですからね。でも、当時はこれでクリアしたんだもんなあ。今なら絶対無理です。スピード15どころか、ノーミスで最終面にたどり着くことすら不可能でしょう。

でも、こんなに遊んだというのに、もうずいぶん忘れてしまっているのが悔しいですね。一面は横スクロール、内臓面。二面はなんだっけ? 三面がかの有名なプロミネンスの美しい太陽面。四面なんだっけ? 五面はどうだっけ? 六面が最終面で、最後に左右からシャッターが押し寄せるんでしたが、しかしそれにしても覚えてないですね。多分、『グラディウス』の方が覚えています(1. 火山、2. ?、3. モアイ、4. 逆火山、5. 触手、6. 敵基地)

ちょっと気になって調べてみたら、i-revoで配信されているのが判明。しかもファミコン版が出ていて、『沙羅曼蛇』も『グラディウス』もあるというのは嬉しいなあ。でも『グラディウス』は持ってたりして(中古で買ったのじゃ)、だから遊ぶとしたらファミコン引っ張り出してということになりそう。『沙羅曼蛇』は……、買ってくるか。多分、そんなに高くないでしょう。

ということで、『グラディウス』の各面が判明しました。二面はストーンヘンジ(だったのかあれ)、六面には細胞ステージがあった! あったっけ? 覚えてないなあ。

CD

2006年10月20日金曜日

バンゲリングベイ

子供の頃の思い出のゲームといえば、それはそれはたくさんあるのですが、なかでも印象深いのは『バンゲリングベイ』でした。発売はハドソン。でっででででっでっ、でっででででっでっ、という地味なBGMが印象的なゲーム。ヘリコプターを駆り、敵地にて工場破壊を遂行する、という非常にシンプルなシューティングゲームなのですが、けど一般にシューティングといって思い浮かべるようなスタイル、縦シューとも横シューとも違う、全方位に移動可能という斬新さが光っていたゲームでした。

私は残念ながらこのゲームは所有していなかったのですが、友人が持っていましてね、彼のうちにいくとなんでかむやみにこれを遊びたくなって、その場でプレイしたりまた借りてきたりと、散々遊んだものでした。だいたい三面くらいまでクリアできたかな、というとなんだかちょっとしか遊んでいないようですが、このゲームにおける面の概念は他のシューティングゲームとは違うので注意が必要です。そうですね、他のシューティングでいう一周がバンゲリングベイの一面に相当するかと思われます。複数ある工場を完全に駆逐、すなわち目標を達成すれば一面クリア。しかし、一面のクリアはそれほど難しくないんですよね。問題は二面からなのですよ。

一面は正直小手調べです。ウォーミングアップといってもいいかも。すなわち本番は二面からなんですが、二面以降からは敵の攻撃がいやに苛烈になって、落ち着いて工場爆撃もできなければ、自分の本拠地である空母の危機も頻繁で、空母が撃沈されればもう後がないですから助けにいくのはいいとして、敵攻撃機とドッグファイトしているうちにせっかく追いつめた工場が修復されていたりして、しかたないまたちまちま爆撃するかと、ミサイルよけながら工場周辺の敵を掃討して、いよいよ爆撃しようとしたら敵戦艦の建造が開始されて、正直私は戦艦を撃沈できるほどの手だれではありませんでしたから、工場ほっといてでも敵ドックに駆けつけ大急ぎで爆撃、破壊、やれやれさっき片づけそこねた工場を始末しにいくかと思ったら、また空母が攻撃を受けている! ああ、もう、護衛機くらい用意しとこうよ!

と、こんな感じのゲームなのです。

このゲームの印象を特に強めているのは、2コントローラで敵軍を操作できるというところじゃないかと思うのですがどうでしょう。テレビコマーシャルでやっていた、マイクに向かってハドソーンと叫ぶと戦闘機がやってくるというフィーチャー。そして誘導ミサイルをばんばか撃ちまくって嫌がらせという、あんまりやり過ぎるとけんかになるので、そのへんの塩梅をうまく調整するのが腕の見せ所、ってそりゃあんた八百長じゃんか。

このゲーム攻略のコツというのは、いかに素早く作戦を展開できるかであると思うのです。私の常は、ゲーム開始直後に敵空港近くの工場に駆けつけ始末、敵空港を利用して補給、もうひとつふたつ始末という、いわば電撃戦。というか、とにかくこのゲームはどれだけ迅速に工場を減らせるかが肝で、工場がある限り敵兵機は生産され続け、敵が増えればそれだけ作戦妨害も熾烈になるから、最初にどれだけ工場を減らせるか。工場の耐久力が上がる前にどれだけ動き回れるか、それが重要なポイントになるのです。

Amazonで検索しても見つからなかったのが割りとショックです。中古ファミコンショップに行くと、大抵置かれているマストアイテムなんですけどね。もうじき発売されるWiiで遊べたりするときっと嬉しいなあ、なんて思います。いや、多分Wiiは買わないですが、けど気になる気持ちはとめられません。

  • バンゲリングベイ

2006年10月19日木曜日

積極 — 愛のうた

 書店によったら並んでいた谷川史子の新刊。私はこれまでも何度もいってきたように、谷川史子の大いなるファンです。本が出ているとあらばなにがなんでも買い、なにをおいても読み、そして心に兆すなにかに大きく揺さぶられる — 。こうした揺さぶられ体験をもたらしてくれる谷川史子は私にとってかけがえのない作家であり、その人の生み出す漫画もまたかけがえのないものに他なりません。そして、この『積極 — 愛のうた』もやっぱり私の大切な一冊となりました。まだ一度読んだだけです。けれど一度読めばそれで充分なのです。しんと胸に染みる悲しさや切なさ、それらを越えて人を愛したいという気持ち、愛するということの実感、そして愛したということそのもの。多様な感情が押し寄せる感覚。ああ私はこの人に、この人の漫画に出会えてよかったと思う瞬間です。

『積極 — 愛のうた』には、表題作である『積極』に『スパイラル ホリディ』、『風の道』が収録されて、先にのべたとおりのしんと胸に染みる切なさの光る作品があるかと思えば、どたばたと楽しく幸いのふるようなものもあり、またギミックに富んだ小品あり。それぞれは印象を違え、風合いを違え、けれどそのどれもから谷川史子らしさの感じられる、多彩にして嬉しい一冊となっています。

でも私には表題作『積極』がよかったのでした。シンプルな構図。繊細な描写。物語は淡々と進みながらも起伏にうねりを見せて、しかしそれらは決して爆発的ではなく、ナイーブに内面で揺れ動きながらひとつの終わりに向かって集束していく。寂しさや悲しさはあるけれど、けれどそれらを遥かに上回って大きな感情が包み込んで洗い流してくれるから、私の心は充足しつつ開け放たれて空っぽでもあるといったような不思議な感覚に満たされるのです。

私は思うのですが、谷川史子という人は日常を取り上げてそこに新しい意味を与えていく、そんな詩人に似た人ではないかと。だから、たとえそこに大掛かりなギミックなんてなくても、本当に日常の切り取りみたいな話であっても、そこに人があって、心があって、感情の動き出すきっかけが生まれれば、心動かされる愛らしく素敵な物語になるのだと思います。そして、その時には日常はただの日常ではなく、すべてがかけがえのない一瞬に変わっている。そんな作家であると思います。

まあ、ただの日常と言い切るにはあんまりに不思議で変わった人たち、できごともあるのですが、けれどこの人の本質というのはそういうエキセントリックではなく、誰しもが持っている普通の感情に芽吹くものではないかとそのように思っているわけです。だから、ぱっと見には派手さはなくとも、不意に心に触れ、涙を流させたり微笑ませたりする、そういう効用があるのだと思います。

  • 谷川史子『積極 — 愛のうた』(クイーンズコミックス・コーラス) 東京:集英社,2006年。

2006年10月18日水曜日

ガルフォース

   最近、なんだかアニメづいております。しかも新作じゃなくて昔のアニメ。ほら、『ダーティペア』と『ドリームハンター麗夢』がDVDで出るというでしょう。でもって買うと決めたらこれが呼び水となって、あれも見たいこれも見たいなあなんて感じでどんどん欲求が膨らんでいってるの。というわけで、目下最高潮に盛り上がってるのが(もちろん私だけの盛り上がりだけど)『ガルフォース』。なんだ、また女の子ものかよという無粋な突っ込みはなしにしていただくとして、いや、懐かしいですね。これ、以前もいいましたけど、『アニメ大好き』で放送されまして、これがもう大人気でリバイバル放映もされて、多分録画したビデオがどこかに残ってますよ。『エターナル・ストーリー』、『ディストラクション』、『スターダスト・ウォー』が一度に放送された時があったはずで、これを録画してるはず。でも、例によって例のごとくビデオが見つからないから容易に見られない。なんで私ってこうなんだろう。つくづく情けなく思います。

しかし、今、なんでまた私は『ガルフォース』にこんなに興味津々なんでしょう。多分私が見たのは『レア・ガルフォース』まで、あるいは地球章の第一話くらいは見てたかも知れないですね。でも、宇宙章(最初の三作)があんまりにも印象が強かったせいで、私にとって『ガルフォース』とは最初の三作なのです。

女性七人で構成されるチームが乗り込む宇宙船内で発生した奇怪な事件。外部からの侵入者によってチームは分断され、しかも犠牲者まで出るという結構ハードなストーリーに、ただの美少女ものではないという感じを得たものですが、でも当時のアニメって結構そんな感じだったよなあという気もします。

私がこのアニメの描写で好きだったのは、艦船が打ち合うレーザーの描写で、あの一旦後方に射出されたレーザーが屈曲して前方に向かうという描写がことのほか気に入っていて、そしてキャティの存在でした。物語のキーパーソンですよね。第一話で非業の死(?)をとげ、しかしその確かに死んだはずのキャティが生きていた!? 第一話では語られなかった謎が、第二話、第三話にて徐々に明らかにされていき、そして物語は佳境へ。あの殲滅戦の描写は実に悲しかった。なんか、業みたいなものを感じたというか、大きな流れに翻弄されて消えていく命の悲しさみたいなのが残った、といえば大げさな感じに思われるかも知れませんが、本当にそんな風に思ったものなのです。

ただ、この感想というのはもうずいぶん前のものだから、今見直すと幻滅したりもあるかも知れません。でも見たい。でも、ちょっと見ようにもなかなかにそろえるのが大変そうで、しかも『テンリトル・ガルフォース』ってDVDになってない? ああもう、ああいうのも見たいんじゃないかあ。

でも、これだけラインナップが揃っていて、いずれそうした番外編も併せて再リリース、みたいな盛り上がりはないでしょうね。よっぽど『ガルフォース』が人気があるとか(それこそ『ガンダム』なみにね)、そういうことでもない限り、今あるものの中から探して、幸い中古市場に溢れているっぽいVHS『テンリトル・ガルフォース』でも買って、みたいなそういうやり方しかないかなあ、なんて思います。でも、そこまでして揃えたいか? うう、ちょっと揃えたいかも。だって、結構好きだったアニメなわけで、こういう若い頃に思うように入手できなかったものを揃えられるだけの経済力を得た今、迷いは踏み出すか踏み出さないかの一点になるんですよね。いやあ、本当に迷います。

DVD

VHS

CD

2006年10月17日火曜日

奏(騒)楽都市OSAKA

これまでずっとやりたいと思ってできなかったことをやっと実現するにいたりました。それはなにかというと、お試しBlog[旧お試しBlog]にweb拍手のボタンを付けて、それから一部の要素にCSSを適用させるということ。実をいいますと、このお試しBlog[旧お試しBlog]というのは極めてレイアウトの自由度が少なく、テンプレートをいじるなんてことは不可、他のBlogのようにBlogアクセサリーを付けるというようなこともできないのです。と、このような状況下でなんとかweb拍手ボタンだけでもつけたいと思ってきて、そしてようやくそれを実現することができました。決め手はJavaScriptです。この便利で、けれど妙に扱いづらい言語でもって、CSSとweb拍手ボタンの送信に成功したのでした。

JavaScriptの扱いづらさ。Netscapeが実装し、後を追うかたちでInternet Explorerも実装。しかし両者独自の実装であったため、その仕様というのはまちまち。こちらを立てればあちらが立たずということは普通に起こります。こういう厄介な状況は今もなお残っていて、今回のチャレンジにおいてもずいぶんと悩まされました。けれどなんとか逃げ道はあるもので、とりあえずIEとFirefox(Mozilla)、そしてSafariで期待通りの結果が得られることを確認することができました。しかし、このうまくいった時の嬉しさったらないですね。それまではまさしく暗中模索、こんがらがった意味不明状況の中、解決を求めてWWWをさまよい、情報を拾っては試し、その結果をもってまた情報を求めの繰り返し。けれどこうしているうちにだんだんと光が見えてきて、ついにブレイクスルー。ああ、やった、できたよ。もう、ぐったりです。でも、長らくの懸案が解決してよかった — 。

私のやみくもなプログラムへの取り組みをみていると、ちょっと昔遊んだゲームを思い出します。それは『奏(騒)楽都市OSAKA』。川上稔の都市シリーズ第四作、『奏(騒)楽都市OSAKA』と世界観を同じとする世界においてのアナザーストーリー。メディア競争に勝ち抜くため、情報を探し、組み合わせ、発表し、前へ前へと進んでいくというゲームなのですが、このゲームの混沌さ具合というのが、なんだか私とJavaScriptの関係に似ていると思うのですね。

なにが混沌かといいますと、まずは情報の多さでしょう。このゲームは、原作者である川上稔の要請を受けて、とにかく長大にできています。原作者曰く、自分は同じゲームを二度遊べないタイプの人間だから、一度遊んだらお腹一杯になるくらいにしてくれだそうで、そのためイベント数が強烈。千を越えてるんだそうで、はっきりいって全部みるのは無理。一度エンディングをみたくらいでは達成率は半分にも満たず、かといって何度もクリアできるようなゲームではないです。とにかく長い。途中で嫌になる。しかもゲーム途中で情報が錯綜するから、中抜きでイベントが発生したりして全然訳がわからない。え? なに? なにがどうなってるの? という意味不明さにあっぷあっぷするのがファーストプレイで、セカンドプレイなら多分もうちょっと状況を整理して眺められるだろうと思うんですが、しんどいから二度目を遊ぼうという気にはちょっとなれない。ここですね。私がさっきJavaScriptに似ているとかいったの。情報膨大にして大いに錯綜し、意味不明五里霧中、だから最後には力技で解決。ええ、まさしくそんな感じなんですよ。

けど、それでもひとつの結果を得られると、ぐったりしながらも嬉しいんですよね。そういうところも似ていると思います。で、人間というのはのど元過ぎれば熱さ忘れるから、なんかまたやってみようだなんていう気になったりして、でもよほどのことがないと手を付ける気にならないというのも似ていて、なんか困ったやつだよなあなんて思いつつ、心底憎めないというようなそんな感じなのだと思います。

そういえば、ゲーム『奏(騒)楽都市OSAKA』は、複数のプレイデータをマージして、達成率を上げることができるという他に類を見ない機能を持っています。これ、イベントクリアを達成するのはひとりじゃまず不可能だから、友達同士でがんばってなんとかしてね、ってことなんだと思うのですが、私はついぞこのゲームで100%を達成した人のいるという話を聞いたことがありません。もしかしたらどこかにはいるのかも知れませんが、けど多分いないじゃないかなあ。だって、攻略本みながらでも投げそうなゲームなんですよ。というわけで、私ははなから100%をあきらめて、けどそれでも全然悔しくない。

こういうあきらめが肝心って感じも、JavaScriptに似てるかなあ。