2004年11月19日金曜日

ONE KNIGHT STANDS

 まさに衝動買いをしたのです。CD店、邦楽のフロアに入ったときに流されていた音楽にびびっと引かれてしまい、しばらく呆然と聴いていたかと思うと、やおらレジに近寄って店員を一人つかまえ訊ねたのでした。

— 今流れているのはなんですか?

— これです。

— じゃあそれをください。

レジそばに置かれていた現在演奏中のアルバムは山崎まさよしの『ONE KNIGHT STANDS』。こうして私は、まったくなんの前知識もなく、聴いた音楽に魅了されるままにアルバムを買って、そこには躊躇とか迷いとかが浮かぶ余地さえありませんでした。

『ONE KNIGHT STANDS』は山崎まさよしのライブアルバムで、ギター一本、一人で弾き語りするという実にアグレッシブなライブ。しかし、ただ一人だというのにこの広がりはなんだー。と思わず問わずにはいられないほどにパワフルでグルーヴィで、実際この人は並の人ではないと度肝を抜かれます。

ギター一本で弾き語りといえば、どことなく侘びしさとか地味とかそういう印象を持つのは私だけですか。けれどもしあなたがそう思っているなら、このアルバムを聞いてご覧なさい。そんな思い込み吹き飛ばされるくらいにすごいですから。

じっと座って聴けるものではありません。ビートが背中を押すんです。リズムがはじけて煌めいています。声を上げてしまいそうです。しかもこの完成度がライブで実現されているんだからすごい。チャンスは一回こっきりのやり直しなしのライブでは、どこかまずいところがあったりするのが普通なのに、そうした揺らぎをまったく感じさせない。この人の音楽性が、きわめて高いところに結実しているとわかります。

どーんとでっかい存在感が目の前にある、アルバムの印象を言葉にするとこんな感じでしょうか。しかもリズミカルでダンサブル、一転してメロウでセンチメンタル。表現の引き出しもたくさんあるから、ディスク3枚の時間をまったく飽きさせません。CDを聴いているだけでこんななのですから、ライブではどんなにかすごかったのでしょうか。いつかこの人のライブには行っておかないと、とそんな思いにとらわれるのです。

2004年11月18日木曜日

『室内』40年

  『室内』というのは工作社の出している雑誌で、その前身は『木工界』といいました。名前を見れば中身もおおよそ見当がつくと思いますが、木工品などを作る業界の人、職人の読む雑誌です。じゃあ、この『『室内』40年』というのはなにかといいますと、この雑誌『室内』の歴史を追う回想記、工作社の社史です。けれど工作社社長にして著者であるのが山本夏彦翁。ただですむはずがないじゃありませんか。そう、この本は社史にして社史に留まらず、社会史戦後史昭和史建築史、とんでもない膨らみをもった実に恐るべき本なのですよ。

実は今日、テレビを見ていたら、建築デザイナーの家というのを映してまして、それが実にひどかった。床が透明アクリル張りで下から丸見えというのもそうなら、風呂も丸見え、便所も食卓のすぐそばで丸見え。ナレーション曰く、この建築デザイナーとやらの作る家は風変わりで云々、一瞥してこいつら馬鹿じゃないかと思いました。作らせた人間、止めなかった人間、そして面白がって持ち上げる人間。どいつもこいつも正気の沙汰ではありません。

建築というのは、特に住宅というものは、住む人間があってはじめて成り立つものです。それをただ真新しさや奇をてらった作りにして見せて、ほらこれが建築芸術でございとやってみせる。そうした、居住者の存在をないがしろにしているものが住宅と名乗るのは実におこがましい。醜悪です。とかくこの世にあって、アーチストぶっている輩ほど始末に負えないものはないとわかります。そうした連中は自意識丸出しに、誰のためにもならないものばかり作って自己満足に浸って有害です。

と、私がこと住宅についてこうしたことを思えるようになったのは、他でもなく山本夏彦翁の本を読んでいたからです。氏の本は、ただ面白がって読んでいるうちに、真当な態度で考え、批評する基礎が身につくという、実に希有なものなのです。

夏彦翁は工作社社長でありながら、自身が文筆をする人でもあります。建築業界を見、出版を営み、自らも書く。この多彩なありかたが実際著書にもよく表れて、話題はあっちに行ったりこっちへ行ったり。けれどその散漫がちっとも散漫に感じない。ひとつ翁の実感があまりに生き生きしているもんだから、まるで目の前にその光景を見るかのように絢爛で釣り込まれてしまうのです。氏の興味はもちろん木工の世界、職人の世界でありますが、おそらくそれ同等か以上に出版の世界、広告の世界、実業の世界、社会風俗に向けられています。こうした広範な事物への知識興味が、工作社女子社員との対談という形式でつづられたのが『『室内』40年』そして続く新書の三冊です。

これらの本での夏彦翁は、思い出語りするみたいな雰囲気で、戦前という時代、戦後昭和のことを明らかにしていきます。そのほとんどは一見なんだかセピア色に感じられるのですが、読めば現在への鋭い言葉があると気付きます。この氏の感性が、ややもすれば現在に取り巻かれて、鈍くなってしまっている私たちをはっとさせるんです。たびたび自分の鈍さを自覚させられていくうちに、自ら考え出すようになっているのですから、氏の影響力は絶大です。

山本夏彦翁の本は、独特の文体(それがまたよいのですが)でつづられるので、本を読み付けない人にはしんどいかも知れません。ですが対談形式による『『室内』40年』以下は、そもそもがかみ砕かれていて読みやすく、山本夏彦入門として最適です。

しかし入門といって侮る事なかれ。入門ではあるがそれでもしっかり実のあって刺激に富んだ、やはり希有な本なのです。

2004年11月17日水曜日

ガールフレンズ

  なんでか知らないのですが、最近友人に恋愛相談を持ちかけられておりまして、男性側の意見を求められているといったらいいのでしょうか。けれどそもそも、恋愛そのもののことにせよ男性としての意見にせよ、私に相談するのはどこか間違っているような気がします。

とはいいましても聞かれれば答えるのが私です。一通が二通になって、三通四通とメールをやりとりしているうちに思ったのですが、その人はどうも素直すぎるような気がするのです。よくいえば一途ですが、悪くいえば盲目的で、それゆえ一面的で複雑性に欠ける。それではよくないと思うのですね。なので、ちょっと山下和美の『ガールフレンズ』なんてすすめてみようかと思っています。

山下和美の漫画に出て来る人は、基本的に一途で素直で、けれど裏に含むものを持って、そこが魅力になっています。この、山下和美的裏面を友人関係のなかでクローズアップさせてみたのがこの『ガールフレンズ』で、やはり多面的に立ち回れる人というのは、男性女性問わず魅力であるなと再確認するのでした。

自分の欲しいもののために働いた友人への裏切り、友達に嫉妬してやまない卑屈さあるいは優越的にあることに発する傲慢さ。こうした、本来なら表に出したくない感情を、ときには自分自身にさえ隠してしまうような醜さを、はっきりと直視している人のなんと魅力的なことであるか。

作中の、自分の妻の卑怯な面を聞かされた男の科白、前より好きになったというフレーズに、私の意見は集約されているのではないかと思います。目の前にいる人が、ただ従順でかわいらしいだけの存在でないと知ったときに、愛憎含めてその人の本当に近づくことが可能になるのではないかと、私は思っています。そう、愛憎含めてというところが重要なんじゃないかと思っているんですね。

2004年11月16日火曜日

ボラーレ! — ベスト・オブ・ジプシー・キングス

 ジプシーキングスのベスト盤はいろいろあって、そこからひとつ選ぶのもなんか迷ってしまうものですが、だったら私はこの『ボラーレ!』をおすすめしたいのです。『ボラーレ!』というのは、ビールのコマーシャルで一斉風靡をしたカンツォーネですね。しかもこの曲の人気は日本だけに留まらないようで、US盤でもUK盤でも『ボラーレ』がベストアルバムのタイトルに上がっているのだから、その人気の程が知れます。

アメリカでは英語じゃない歌は売れないというのが相場だそうですが、ジプシーキングスばかりはそうした逆境をものともしないのだと聞いています。フラメンカなギターバンドの音楽は、ダンスミュージックとしても人気で、一時などはダンスシーンを席捲したとかいう話です。

このアルバムの魅力は、そのボリュームではないかと思います。二枚組、フィーバーとパッションと題されたそれぞれのディスクに、ジプシーキングスの魅力がぎゅうぎゅう詰め込まれているんですね。ジプシーキングス漬けの生活を送れそうな分量といったらいいすぎでしょうか。いいすぎですね。

このアルバムでのおすすめは、各ディスクのラストを飾る『マイウェイ』と『ホテル・カリフォルニア』でありましょう。すごいですよ。あまりに演奏されすぎるものだからどこか馴れてしまったこの二曲も、ジプシーキングスの手になれば強烈なアパッショナータでもって立ち上がってくるようです。両方スペイン語で、聞いて理解できないという恨みはありますが、けれど言語を超えた力を持っています。リズムの力、歌声の力、それらがあわさって強靱なうねりになっているんですね。

これら二曲の他で私が好きなのといえば、『ジョビ・ジョバ』(このPVがDVD化されることがあったら絶対買います)、『バンボレオ』、『ニコラスのルンバ』、『カミーノ』などいろいろありますが、けれどどこを切り取っても魅力があふれるのがジプシーキングスのよさであります。実際、これがいいと思う歌は次から次に思い浮かんできて、収拾がつかないほどですから。

2004年11月15日月曜日

ゴジラ

 ゴジラにいろいろあるけれど、広く人に勧められるほどの出来といえば、第一作のゴジラしかないと思うのです。戦争の記憶が色濃い時期に作られたゆえか、理不尽な破戒の力に対する恐怖や憤りが画面全体にみなぎって、骨太の筋も迫真の演技も光っています。テーマの正しさにしても間違いなく一級。これが後の怪獣プロレスと揶揄される人気者ゴジラムービーに続いていくのかと思えば、なんだかその足取りが寂しくなります。

いやそれでもモスラやヘドラなど、それぞれに問題提起をしている怪獣映画もあったのです。ただ、第一作ゴジラがその始祖にして最も深みに到達することに成功しているというのは、論を俟たないでしょう。他があくまでも怪獣映画であるのに対し、第一作のゴジラは怪獣映画のカテゴリーに留まらない広がりを持つのですから。

私がはじめて見た映画は『モスラ対ゴジラ』 — 小美人がザ・ピーナッツだったやつ — で、だからというわけでもないのですが、怪獣映画は初期のものに限ると思っています。後のものになればなるほど、ゴジラが知られすぎた顔見知りみたいになってしまってて見てられないんです。本来ゴジラが持っていた破壊と恐怖の具現なんてのは、もうどこからも消え去ってしまっていて、やあ久しぶり元気してたみたいな、どこか緊張感を欠くようなはめになってしまいました。

それは見ている側の問題でもあります。ですが、作り手側も物語世界のことにしても、既知の恐怖としてすでに用意されているゴジラをそのまままな板に乗せるから、結局おなじみゴジラさんになってしまう。あらお元気でした、みたいに見てしまう。意欲的なものもあって、それはそれなりに期待しては見たんですが、ゴジラがゴジラとしてできあがってからのゴジラは、もう偉大なる先例の焼き直しみたいにしか見れず、がっかりしました。

ゴジラの恐怖が後になればなるほど感じられなくなるのは、やっぱり人の姿がよそよそしく、小奇麗になるからなんじゃないかと思うんですね。第一作ゴジラの避難する人たちの姿は、すごく真に迫っています。モスラ対ゴジラなんかでも、大八車引いて逃げるんですよ。こういう、生の人間が迫る破壊になすすべもなく逃げ、そしてただ恐怖が過ぎ去ることを祈るという、そういうリアリティは高度経済成長から平成にかけて、どんどん失われていったのではないかと思ったんですね。あるいは、そういうリアリズムを追求することが求められなくなっていったのかも知れません。結局よそ行きのいい顔してるようでは、ゴジラのゴジラたる部分は伝わらないのかも知れません。

2004年11月14日日曜日

ツレちゃんのゆううつ

  『ツレちゃんのゆううつ』、好きでした。ヤングジャンプに連載されていた漫画で、けれど青年誌らしい血気盛んさとかからは無縁の穏やかな時間が流れる小品でした。ちょっと女性的な感性があって、けれど男性的な視点もあって、その中性的な感じが面白く、心地よく読めました。

もう、ツレちゃんが終わってから十年経つんですね。著者による自薦集が文庫になってるのを見て、ちょっと感慨が沸いたのでした。

この漫画の見どころといえば、もうツレちゃんでしょう。可愛いんですよ。基本的にとっても素直で、けどいつもツレちゃんを困らせるちょびっと怠惰で甘えん坊のお母さんに怒ってすねてみたりする、そうした表情仕種がすごく可愛い。けなげなツレちゃんと、ずぼらさに色気が漂うお母さんのバランスが、すごく絶妙で理想的で、ああいいなあと思う。そういう漫画でした。

思い返せば、九十年代当初はまだ癒し癒しといわれなかった時代で、それゆえツレちゃんには新鮮味がありました。それに、後の癒しブームに乗っかって出て来るのが、どこまでいってもブームの後追いでしかなかったのに比べて、ツレちゃんはすごく魅力的なんですね。ほら、なんていったらいいのかな、結局はやりにすがった亜流なんてやつはブームの終わりとともに一緒に消えていくんです。けどツレちゃんにはそんな時流にまどうところがなく、ちゃんとツレちゃんの世界をつくりあげていた。だからこそ、ちゃんと覚えている人は覚えています。懐かしく思い出す人がいます。これは、やっぱりツレちゃんとお母さんの世界が魅力的で、一過性のものではなかったという証拠なのだと思います。

  • 三島たけし『ツレちゃんのゆううつ』第1巻 (ヤングジャンプコミックスワイド版) 東京:集英社,1990年。
  • 三島たけし『ツレちゃんのゆううつ』第2巻 (ヤングジャンプコミックスワイド版) 東京:集英社,1990年。
  • 三島たけし『ツレちゃんのゆううつ』第3巻 (ヤングジャンプコミックスワイド版) 東京:集英社,1990年。
  • 三島たけし『ツレちゃんのゆううつ』第4巻 (ヤングジャンプコミックスワイド版) 東京:集英社,1991年。
  • 三島たけし『ツレちゃんのゆううつ』第5巻 (ヤングジャンプコミックスワイド版) 東京:集英社,1991年。
  • 三島たけし『ツレちゃんのゆううつ』第6巻 (ヤングジャンプコミックスワイド版) 東京:集英社,1992年。
  • 三島たけし『ツレちゃんのゆううつ』第7巻 (ヤングジャンプコミックスワイド版) 東京:集英社,1992年。
  • 三島たけし『ツレちゃんのゆううつ』第8巻 (ヤングジャンプコミックスワイド版) 東京:集英社,1992年。
  • 三島たけし『ツレちゃんのゆううつ』第9巻 (ヤングジャンプコミックスワイド版) 東京:集英社,1992年。
  • 三島たけし『ツレちゃんのゆううつ』第10巻 (ヤングジャンプコミックスワイド版) 東京:集英社,1993年。
  • 三島たけし『ツレちゃんのゆううつ』第11巻 (ヤングジャンプコミックスワイド版) 東京:集英社,1993年。
  • 三島たけし『ツレちゃんのゆううつ』第12巻 (ヤングジャンプコミックスワイド版) 東京:集英社,1993年。
  • 三島たけし『ツレちゃんのゆううつ』第13巻 (ヤングジャンプコミックスワイド版) 東京:集英社,1994年。

2004年11月13日土曜日

下弦の月

   書店で愛蔵版がでてるのを見て、懐かしくなりまでした。私はこの漫画が好きで、どういう風に話が展開していくのか、毎月毎月楽しみに読んでいたのです。小学生四人組の、いじらしくも前向きな姿やほのかに揺れる恋心がすごく美しくて、もう大切な大切な、宝物みたいな話だと思っています。

映画になったのだそうですね。ですが、おそらく私は見ないでしょう。

キャストを見ると、小学生四人組が中学生二人組に変えられていて、年齢が上がったのはわかります。あまりに大人びた感情の動きを実写で表現するには、やはり中学生であるほうが自然という判断だったのでしょう。けれど四人が二人になったのはやっぱり寂しい。映像であの込み入ったストーリーを追う関係上、人を減らして見通しのよさを得る以外になかったのだとは思いますが、この物語は白石蛍と香山沙絵のさざめく恋心も大切な軸であったと考える私にとっては、やっぱり寂しく思えるのです。子供たちが蛍を思いやり、その思いやりに蛍が応えたいと願う気持ちが描かれることと対照されることで、美月サイドの裏切りと逃避の物語が際立つように思えるのです。

けれども、美月サイドの視点から物語を追ってみたいという気持ちもあるんですね。裏切って傷つけてしまった人が昏睡状態であるという状況下で繰り広げられる心理劇、そこへ飛び込んでくる不思議な小学生たち! ヒューッ、なんかわくわくさせるじゃないですか。漫画が詳細にサスペンスを追いそこに仄かな恋愛劇を描いたのなら、どろどろの愛憎劇に吹き込んでくるミステリアスな子供たちというのもいけると思うのです。

映画は美月サイドを主人公にしているみたいなので、もしかしたら私の見たいと思っているものに近いのかも知れません。だから見れば結構いいと思いそうな気もするんですね(でも私は多分見ない)。

ところで、原作に見るアダムのギターは、多分オベーションがモデル(カスタムレジェンドあたりですね)。他にも、20th Anniversary Macintosh Spartacusが出て来るところもいかす!

そういった方面をご存じの方にも充分訴える、名作ですよ。

  • 矢沢あい『下弦の月』第1巻 (りぼんマスコットコミックス) 東京:集英社,1998年。
  • 矢沢あい『下弦の月』第2巻 (りぼんマスコットコミックス) 東京:集英社,1999年。
  • 矢沢あい『下弦の月』第3巻 (りぼんマスコットコミックス) 東京:集英社,1999年。
  • 矢沢あい『下弦の月 — Last quarter』上 (愛蔵版コミックス) 東京:集英社,2004年。
  • 矢沢あい『下弦の月 — Last quarter』下 (愛蔵版コミックス) 東京:集英社,2004年。

2004年11月12日金曜日

彼岸過迄

 貴方はを学問のない、理屈の解らない、取るに足らない女だと思つて、腹の中で馬鹿にし切つているんです

「須永の話」の最後で千代子から告げられるこの科白に、私はずぶりと胸を一突きされたのでした。過去に同じことをいわれたことがあったからです。私をいつも馬鹿にしていると突然責められて、私は狼狽しました。逃げ場を失ったように感じ、実際追いつめられていたのです。その時の私の応対もはっきり覚えています。まるで須永の応えにおんなじでした。だから、初めてこの本を読んだときには、なんとおそろしい話だろうと身震いしたのでした。

(画像はちくま文庫版『夏目漱石全集』)

須永には学問をする人間特有の不遜があって、それを千代子は感じ取ったんだろうなと思うのです。つぶさに物事を見てよく理解し、一家言を持ってしかし自分をわきまえていると思う。ときには自分を卑下して見せさえもする。こうした態度の傲慢は、学問をかじった人間どころか、ちょっと小賢くなっただけの人間にも往々に見られるものです。私はそうした人たちを軽蔑していて、多分須永も私のこの意見に同意してくれると思うのですが、けれどその肝心の私が軽蔑されて仕方ないような人間であった。こうした現実を突きつけるのが、最初にご紹介しました千代子の言葉であるわけです。

結局は自分が見えていないということなんでしょうね。もうちょっとくどくいえば、自分の思っているところと自分が諒解しているところにずれがあるのです。漱石はこの問題を『それから』で扱って、胸と頭の乖離であると解きほぐしています。そうなんですね。私たちは頭と心にずれを持っているんです。頭でせせこましく考えることで、本当の思うところを塗りつぶしてしまっているんです。私にはその傾向が特に強くて、あたかも自己の欲求に気づかないので、自己の欲求を満たすことはできないとされる神経症の様相を呈し、自分を矮小化したり肥大化させて揺れ動きながら千代子を傷つけること、須永に同じであったというのですね。

  • 夏目漱石『漱石全集』第7巻 東京:岩波書店,1994年。
  • 夏目漱石『彼岸過迄』(岩波文庫) 東京:岩波書店,1990年。
  • 夏目漱石『夏目漱石全集』第6巻 (ちくま文庫) 東京:筑摩書店,1988年。
  • 夏目漱石『彼岸過迄』(新潮文庫) 東京:新潮社,1952年。

引用

2004年11月11日木曜日

グラン・ブルー

 私はこの映画でジャン・レノを知って、だからこの人がどんな役をやったとしても、どこかにエンゾを見ようとしてしまうんですね。しかし本来脇役であるはずのエンゾの魅力的なことったら、主役のジャン・マルク・バール演ずるジャックを押しのけてしまっているようではないですか。いや、ジャックももちろん魅力では負けていません。ですが、確かに魅力的ではあるのですが、私には、人懐こさや悲しいまでのひた向きさが一堂に会したみたいなエンゾが主役以上に魅力的に映ったのです。

多分、こういう人ってたくさんいますよね。

さて、エンゾ好きという点では多数派に属する(のかな?)私ですが、実はこの映画でもう一点好きなところがありまして、そちらに関してはおそらく少数派です。

どんなシーン? といいますと、潜水の大会にやってきた日本人集団が、なんだか身内だけで変な盛り上がりを見せて、結局選手がプレッシャーで駄目になっちゃうというところ。私、このシーンがすごく好きです。

なんで日本人がこんなけったいな描かれ方してるのに好きなのか、それはこのシーンに日本人像がうまくでている、日本の中にいるとそれほど異質には思わない身内だけで固まる閉鎖性、変に馴れ合っている気持ち悪さが表現されていると思うからなんですね。私、この身内で凝り固まるの、大嫌いなんですよ。ほら集団が個人を包摂している感覚、そこには個人の意識よりも集団の論理が優先されていて、みんな息苦しさを感じながらけれどあえてその集団制を維持しようと努めている奇妙さ。大っ嫌いです。なので、初めてこの映画を見たのは小学生だったか中学に入っていたか、それくらいの頃だったと思いますが、よくやってくれた! と心中喝采しました。自分の中にあった日常の違和感が、見事にかたちになった瞬間だったのです。

対してジャックとエンゾはどこまでも個人で、自分の信念やプライドが大きすぎるために、他者よりもロマンを優先してしまうのですね。家族も恋人も顧みることなく、一途に自分の目標に邁進する。これ、周りの人間にすればたまらん話ですよ。けれど私は、こうした生き方に非常に共鳴してしまってしびれたのです。ああ、こんな風に生きられたらなんて素晴らしいだろうかと思ったのです。

だから、チャンスがあればエンゾやジャックみたいにしようと思ってる私です。周りには迷惑をかけるか知らないけれど、留まることで澱んでしまうのなら、私は一生流れる水でありたい。理想にまっすぐ目を向けて逸らさない意志を持ちたいと願うのです。

2004年11月10日水曜日

Nights In White Satin

 遅れてきたロックファンである私は、数年前に発見した『Nights In White Satin』に夢中になって、もう実際驚いたというかあぜんとしたというか、オーケストラと共演するロックの美しさ、深遠さにすっかりまいってしまったのでした。

1967年にリリースされて大ヒットしたアルバム『Days of Future Passed』のラストナンバーを飾ったのがこの曲でした。アルバムの邦題は『サテンの夜』だったそうで、それだけこの曲のイメージが強かったこと、人気のあったことがうかがえます。

しかし、こうしてあらためて確認してみると私の生まれる前のことなんですね。

私は数年前から六十年代七十年代のロックを聴くようになって、ジャンルとしてはプログレッシブロックまで含まれるくらいの時代ですね、その土壌の豊かなことにおののくほど驚いたのでした。ロックに導入されるクラシックや民俗音楽的な要素の数々。あくまでも当時最先端であることを目指したロックは、多様な様式を飲み込んで、しっかりと自分のものとして消化したのですね。思えばこういうことは、いつの時代でもあり得たことで、例えば古典派の作曲家はトルコ軍楽の要素をこぞって取り入れましたし、ドビュッシーもガムランの響きを意識していました。1960年代70年代には、ロックにおいてその動きが目立ったのですね。自身のフィールドを拡大して彼らの音楽は絢爛豪華に花開いたのだと、過ぎた昔と思いながらもその当時の潮流の激しさが目に浮かぶようです。

この時代にロックに取り組んでいた知人に、彼らによって大抵のことは試されてしまっていると話したことがありました。そして『Nights In White Satin』が好きだ、あのオーケストラの広がりが非常に素晴らしいというと、あれはデッカのスタジオで録音されたもので云々、いろいろ教えてもらうことができたのでした。

オーケストラが使われ、そして語りが効果的に使われているせいもあるのでしょうが、この曲からは強い物語性を感じで、あたかも映画みたいに感じられます。そして、アルバム全体を見渡してみれば、その印象は間違っていなかったということがわかるんですね。いわば、アルバムという全体が収録曲という部分にまでしっかりと反映しているという証拠なのでしょう。この時代、特にプログレ系のアルバムは、アルバムとしての完成度を追求していたといわれますが、こうしたことをよくよく理解できるアルバムです。

Moody Blues & London Festival Orchestra

2004年11月9日火曜日

Wizardry

 なんだかクラシックゲームが密かな人気のようなので、クラシック中のクラシックといえるゲーム、Wizardryを取り上げるのでした。なにしろ、私が小学生だったころ、初めてドラゴンクエストに触れた時点ですでに古典になっていたほどのゲームでして、なのに今なお愛好者がいるというのですから、その偉大さは私が重ねて説明することもないのかも知れません。

けどいいたい。WizardryはコンピュータRPGの始祖にして完成形であります。私が最も長く、深く遊んだゲームはまぎれもなくWizardryで、RPGというジャンルを思うとき常に思い出すのがWizardryで、あたかもその世界が存在するかのように夢想したのもWizardry — どのようなときでも頭の片隅に大切にしまわれている、かけがえのない思い出みたいなゲームなのです。

人によって一番いいという版が違っているのもWizardryの面白いところで、大抵その人が最初に触れたものを最上というケースが多いようです。というのは、つまり私にとってはファミコン版こそが最上であるといいたいわけです。

ファミコン版。ROMカセットで供給されるため、ディスクアクセスといった時間的ロスは発生せず、バッテリーバックアップによって随時セーブされるタイミングも絶妙。もちろんセーブに時間がかかるということもありませんでした。末弥純によるシックで存在感あるモンスター原画も素晴らしく、そして羽田健太郎のBGMの実によく練り上げられていること。素晴らしかった。ファミコン版Wizこそ最上という人は、おおむね私のいうところに賛同してくださるものと思います。

今Wizを遊ぶというのなら、プレステ版が一番入手しやすく、手ごろなんじゃないかと思います。『リルガミンサーガ』が第一作から第三作までを、『ニューエイジ・オブ・リルガミン』が第四作と第五作を収録していまして、『リルガミンサーガ』からプレイするのがいいでしょう。

プレステ版のいいところは、オリジナルに比較的忠実に移植されているところです。ファミコン版ではデータの移行の問題からキャラクターのレベルがリセットされた第二作ですが、プレステ版はオリジナル版と同様、第一作で育てたレベルや所持アイテムをそのままに送り込むことができます。また謎解きについても、タロットの知識を要求するなどの理由でファミコン版では削られていたのがちゃんと収録されています。なので、Wizardryをプレイするという観点からみれば、ファミコン版よりプレステ版のほうがいいかも知れませんね。

ただ、ファミコン版ユーザとしてはプレステ版には文句があって、ファミコン版同様末弥純のモンスターグラフィックを採用するなら、なんで呪文名やアイテム名もファミコン版同等のものを選べるようにしてくれなかったんだと思うんですよね。

とはいえ、文章を英語オリジナルに変更したり、画像もPC-98のを選んだりできるのは(ファミコン版でも言語選択できたんだからこれくらい当然という気もしますが)ありがたいかぎりで、またこんな風にちゃんと作ってくれるからこそ、アイテム名に文句をいいたくなったりもするんですね(よっぽど同様の文句が多かったのか、『ニューエイジ・オブ・リルガミン』ではファミコン版と同じアイテム名を選べるようになっています)。

ともあれ、今Wizardryを楽しむならプレステ版がベターというのは間違いありませんので、興味のある方はぜひプレイしていただきたいものです。

ファミコン

スーパーファミコン

プレステ

セガ・サターン

PC

2004年11月8日月曜日

旗色悪い古舘

報道ステーションに石原慎太郎がでていて、古舘伊知郎は果敢に食い下がるも敗色濃厚、石原の揺るぎないことまさしく石の如しです。

例えば教育にしても、強制だなんだと問題にするのが問題で、だって近代教育の生まれた根拠を振り返れば一目瞭然です。国民国家を成立させるためには国民を作り出さねばならず、教育に期待されるのはまさにその一点だったのでありますから。ゆえにアメリカを問わず中国を問わずどこの国でも愛国心教育をして、子供のうちから国家への忠誠をたたき込んでいくのであります。石原の前提はそこにあるのですから、君が代日の丸の強制は問題じゃないのかと問うても、ちっとも問題なんかあるものかという答えが返ってくるのは当たり前なのです。

古舘は負けて当然、相手の土俵で戦いすぎです。石原の得意分野で、理論武装もすんでいるところへ飛び込んで、なにしろ石原は正義は我にあり、文化伝統が自分の味方と思ってるような人ですから、持論を曲げるなんてことあろうはずがない。

しかし文化や伝統なんて、時流についていけないことを体よく言い換えただけのものですよ。あるとき、なんかの都合で作り上げられるのが文化や伝統で、常に変化し続ける動きのなかには生まれないのが文化伝統です。文化伝統と呼ばれたとき、すでにそのものは死に体なのです。じゃあ死に体にすがるのはなんでなのか? 古びた時代にノスタルジーを見て、昔はよかったと思う人間がいるからです。ことわざにいいます、喉元過ぎれば熱さを忘れる。文化伝統が大好きなんていってはばからない人は、過ぎた熱さを忘れてしまうような人です。

名探偵活躍する場所

今日、名探偵コナンの終わり数分をちょっと見て、コナンに限らず現在の名探偵ものは、警察の能力を不当に限定することで成り立っているのだと思ったのでした。名探偵が偶然に見付けるなんやかやで崩れてしまうようなせせこましいトリックなど、警察の捜査力や組織力をもってして解決できないわけがないではありませんか。

なんてったって警察は、私らがやると法に触れるような、それこそ憲法に保障されている権利を侵害してしまうくらいの捜査をしても罪に問われないんですから。

警察国家に名探偵の出る幕なんてないのですよ。

道具術

Yahoo! に入れても出てこない、どうしたらいいのかと母親がいうのです。いったいなんのことかと思ったら、新聞の広告に出ていたURIをそのままYahoo! で検索したらしく、つまりコンピュータに親しみのない一般の人の知識はこの程度であるということなのでしょう。

私たち、比較的若い世代はこうしたコンピュータに疎い先の世代を見て、なんでそんなこともわからないのかといぶかしがったり馬鹿にしたり、インターネットを適当にぐるり見渡してみればそうした言説は簡単に、しかも多量に見付けることができるはずです。けれどコンピュータをひとつの道具として見れば、この新しい道具を使おうとする人が使い方をわからないというのは当たり前のことで、なんら馬鹿にされたりする必要などないのです。私たちは、先の世代が普通に使ってきた道具をもはや普通には扱えなくなっている世代に属しているのであり、道具とともに蓄積されてきた技術や知識を備えないことを省みれば、先の世代がコンピュータに疎いこととちっとも違わないのですから。

そんなわけで『道具術』という、以前読んだことのある本を思い出したのでした。

この本の扱う道具というのは、私たちが日常に使う道具ではなくて、斧やナイフなどアウトドア指向の強いものです。しかも出来合いの道具をそのまま使うのではなく、自動車のサスペンションに使われる板ばねからナイフを作るなど、自給自足的色合いの濃い、いうならば昨今忘れられ欠けている本来的な道具とのつきあい方を再確認できるような内容です。

道具に関する説明は図解入りでわかりやすく、しかも作り方、使い方を説明するだけではありません。なぜこの道具を使うのか、作ったのかを含めて、生活と密着した道具観が語られています。本来的に道具というのは、人間が外界のなにかに働きかけようとするときに媒介となるものでして、道具から外世界を見るという視点があるといえば言い過ぎかも知れませんが、単なるハウトゥーを脱してライフタイルを含めた人生観を感じさせる一冊になっているんですね。

今、この本を思い返せば、コンピュータを理解できないのは手に返ってくるフィードバック感に乏しいからかも知れません。ある種の人たちはコンピュータに関しても間違いなくそのフィードバックを得ていますが、そうしたものを得られない人にとっては永遠にわからない機械であり続けるんでしょう。

しかし、手で使う道具にしても、そのフィードバックを感じない人がいる(!)のですから、結局は人の力というか感受性の問題というかにつきますね。繊細な感性を失いつつある近代人は、そのことをもっと真摯に反省しなければならないなあと思うのでした。もちろん、自分も含めてですよ。

2004年11月7日日曜日

BAD HOT SHOW

 私は長く音楽に関わってたというのに、いわゆるミュージックビデオというものの存在意義を理解しなかったのです。ミュージックビデオというのはPVとかミュージッククリップとかそういうのではなくて、ライブの録画をパッケージにしたものといえばいいと思います。別にレコードがあれば充分だし、映像なんてあっても見ないよ、使い回しも悪くなるじゃんなんて思っていたのですね。

けど、3弦ベンチャーズ見てみたさにこのDVDを買ったことで、今までの思い込みががらりと変わってしまったのでした。ミュージックビデオがこんなに面白いものだなんて、まったく自分の不明を恥じますよ。

さてさて3弦ベンチャーズというのはなんかと申しますと、BAHOのふたり — 竹中尚人 Char と石田長生がそれぞれ3弦だけ弦の張られたギターを使って、ベンチャーズメドレーをやるというものであります。偶数をChar、奇数を石田長生が担当、合わせるとギター一本分になりますね。正直すごい出し物だと思って、見ないと駄目だと思ったのでした。

けれど、こういうちょっと色物っぽい部分も面白いのですが、それ以外も非常に素晴らしかった。懐かしの名曲を集めたGSメドレーは、懐かしさよりもかっこよさが前面に出ているし、オリジナルの曲も渋かったり楽しかったり胸に染みたりのりのりの大盛り上がりだったり、ああこりゃすごいと感じ入ったのでした。

持ち味の違ったギタリストふたりのステージは、やっぱりギタープレイに興味津々になってしまうのですが、けれど歌もすごくいいんですよね。「誰のためでもない舟」とか「酸素」とか、「アミーゴ」もいい。どれがいい、どれが好きと指し示すこともできますが、そんなことを抜きに、ステージ全体がいい。沸くんですよね。なんかうきうきするんです。こんなの、ほんとにはじめてでしたよ。

DVDでこれだけ面白いんだったら、ライブだとどんなになるんだろうと思いますね。機会があれば見に行きたいと思っていますが、残念、いまだその機会には巡り合えていません。だから、仕方ないから過去のDVDをチェックするみたいになって、結局ミュージックビデオにはまってしまったんですね。

そんなこんなで、『BAD HOT SHOW』は私にとっての一大転機となったのでした。

ところで、二人がこのステージで使っていた楽器、Ovation Elite 1868Tを欲しいなと思ったことがあるというのは内緒です。おんなじ楽器を使ったからといって、あんな風に弾けるなんてありえないのにね。