2010年2月18日木曜日

野に咲く薔薇のように

  なんで手にとったのだったっけ。今となっては思い出せない『野に咲く薔薇のように』という漫画の単行本。まっしろな表紙、中央には女の子ふたり、と思ったらひとりは男の子でした。帯には幼女になったのばらと、のばらに女装した一馬。ひとつ屋根の下で同居する。刺激的なことが書かれていまして、面白いのかな、どうなんだろう、わからないままにとりあえず買ってみたのですが、これが読んでから驚くことになりまして、なんと音楽ものであります。それも、作者、結構詳しそう。読むほどに、ああこれは絶対作者音楽やってた、それもしっかりやってたろうってわかって、なんだかそちらばかりが気になってしまったりしたのでした。

最初は趣味でDTMされたりしてるのかな、なんて思ったんですね。主人公一馬は音楽制作を学ぶ専門学校生。ゆえに自宅には機材がごろごろしていて、またDAWなんかもあって、どう見ても想像して描いたようなものじゃない。ものすごくしっかりと描かれている。そんなところに感心しながら読んだりしてたのですが、極めつけだと思ったのは楽譜ですよ、楽譜。コルトー版。びっくりしました。昔、図書館で楽譜の出し入れしてた時、ピアニストに人気があったのがまずパデレフスキ版、そしてコルトー版だったんですね。ああ、懐しのコルトー版。結構ちゃんとしたところで学ばないと、版とかにまで意識が及ばなかったりするでしょう。それが、しっかりとコルトー版をコルトー版として把握して評価しているっていうところね、作者の音楽来歴を知りたくなるほどでした。

と、以上は本題から少し離れた話です。漫画の本題、ストーリーはといいますと、ちょっと不思議な物語。一馬が合コンで出会った女の子、のばら、不思議な娘、不愉快な娘、そののばらがどうしたわけか小さな子供に戻ってしまった。これでは帰るに帰れない。なので一馬のうちに転がり込むことになりました。それでもって、見た目が似ている一馬はのばらのふりして大学にいかされるは、のばらの人間関係に放り込まれてしまうはと、思いっきり振り回されてしまうというのですが、それで一体こののばらとかいう女はなにがしたいんだ!

そう問われれば、その本人、のばら自身でさえわからずにいるのではないか。そうとしか思えない。そんな、自分の望み、やりたいことが見えなくなってしまった、あえて見ないように目をつむってしまった人たちをめぐる物語であるのですね。

のばら、なにを考えてるかわからない娘。どこか捨て鉢で、危うさを感じさせる。そんな姿の向こうに、音楽への愛着を隠している。そんな娘。

一馬はすごく素直でいいやつ。好きなこと、やりたいことはといわれたら、音楽だと素直にいえる。そんな少年なんだけど、実はその過去に挫折や諦めを隠していたりする。

自分の本当に望んでいること、それが叶わないとなって、自分の気持ちに蓋をしてしまう。そのうちに自分の気持ちがわからなくなってしまう。私の本当の望みってなんだろう。私はなにをしたいのだろうと、空白を抱えたようになってさまよっている。そうした人が、自分にとっての自分らしさを取り戻していく。それがこの漫画のテーマであったのだ、そのように思います。目に見えるものがすべてではない。目に見えるもの、その先にある本当ってなんだろう。一馬は、わがまま放題ともいえるのばらを通して、人のエッセンス — 目に見えない大切なものとはなんであるかを知っていく。そしてのばらは、一馬との生活を通して、自分の望み、やりたかったこと、好きなことに素直に向きあって、自分のもっとも自分らしいところを取り戻していく。その様子は人というもののいじらしさを描いて、やわらかに、けれどしっかりと、人の気持ちの変化してクリアに澄み渡っていく過程をあらわしていた。そう思います。

この漫画においては、音楽は極めて重要な小道具として活用されていたわけだけれど、それは憧れと挫折の対象として描かれ、自分らしさを回復させるためのものとして機能して。そして、音楽とは、音と音が関係することで意味をなすものであるという、その根本をもって漫画のテーマを支えて見事でした。つぶさに見れば、わかることがある。なぜそこにその響きが必要とされたのか、あるいはなぜあの時あの人はああした振舞いをしたのだろう。見えてくる。自分に、他人に向き合って、そしてわかったと思ったその先にあらわれたこと。そのひとつの解ともいえるラストは、高い空の下、日の光を浴びながら風に吹かれるような気持ちのよさにあふれるものでありました。

引用

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