『お江戸とてシャン』、『まんがホーム』にて連載されていた四コマ漫画であります。四コマだからA5判だと思っていたら、B6判でちょっと驚き。手にとって、本の厚さにまた驚き。奥付を見れば丸3年の連載でありました。タイトルにあるように、お江戸を舞台とした漫画。大店のお嬢さんおヒナと、火消しの纏持ち虎吉の恋物語であります。養生のため、お江戸を離れていたおヒナ、7年ぶりに帰ってみれば、そこはメガロポリス江戸でありますよ。行き交う人々、活気喧騒、火事と喧嘩が名物だなんていわれる、そんな都市でおヒナが出会うもの、こと、人。それらがいかにも楽しげで、読めば気持ちをうきうきとわきたたせてくれる、そんな漫画であります。
しかし、連載で読んでいたときから面白い、それもべらぼうに面白いと思っていたのでありますが、読み返してみればなおさらに面白い。江戸の風物、江戸っ子の気質とかね、もう最高ですよ。ほら、江戸っ子はみな見栄っ張りっていうようなの。第10話「江戸の粋」なんてのね、何度読んでも笑ってしまって、クールな虎吉、馬鹿な意地の張り合いには目もくれないんだ、さすがあ! と思ったのも束の間、おいおい、ちょいとお待ちよ。ヤセガマンじゃねえ 本当に寒くねえんだ
。そのあまりの変わり身のはやさには度肝抜かれてしまいました。しかしあの言い切りようはちょっと格好いいよ。確かに馬鹿なんだけどさ、ヤセガマンだろうとなんだろうと、だらしない真似なんてできないんだっていう、虎吉、ひいては江戸っ子の気風というのがわかろうというエピソードです。
江戸っ子は見栄を張る。名を、名誉を重んじるんだっていう話はその後もたびたび現れて、軽いものではお灸、文身のエピソードです。熱くねえよ、痛くねえよ。とにかく口ではそういうんだけど、実際熱がる素振り、痛がる様子なんて微塵も見せないんだけれども、本当は熱いし痛い。けれど、見栄を張る。それが彼らの粋だっていうんですね。虎吉の持つ纏、こいつだってそうですよ。纏持ちが火消しの花形であるのは、組の名誉を一身に負うているからに他ならないわけで、いわば虎吉がは組の顔であるともいえる。なにがあろうと、たとえ命を落とすようなことになろうとも、纏を捨てて逃げるわけにはいかないんだ。組の名誉、纏は俺の命よりも重いんだよって、虎吉のそうした言葉には、それまで冗談のように繰り返されてきたヤセガマンのエピソード、それらも手伝い、真実味もって迫ってくるのであります。
だからですよ、だからあの最後のシーン、あのクライマックスが生きてくるんです。粋でいなせな虎吉、なによりも恥を嫌ったこの男が、外聞もなにもかもかなぐり捨てて、おヒナのもとに駆け出した。思えば、すべてがこの場面のために用意されていたかのようじゃありませんか。猫又のオハギ、この時代には彼女ら物の怪も、人とともにあったんだって押さえられていたために、お雪の奇跡も唐突とはならなかった。長い時間をかけて丁寧に描かれてきたおヒナと虎吉の関係は、虎吉の決断を自然と受け入れさせた。そして、お雪とのいきさつあればこそ、好いた女のために生きようとする虎吉の気持ちも見えてくる。ええ、あの時、あの瞬間に、虎吉のおヒナ大事と思う気持ちが華となって見事咲いてみせたのですね。
火事場という大舞台を捨て、燃え盛る火の中に駆け出していく虎吉、その艶やかなことったらありませんでした。そしておヒナと交わす言葉に見える、彼らの今をこそ生きんとする意思。いずれ散る命の花なら、今を盛りと見事咲ききってみせようという、その心意気のあっぱれには胸を打たれます。虎吉おヒナのいきついた先、ありきたりと今を過ごしてしまうなんてどれほどに愚かしいことであるかと思わされた。今まさにあなたとあって、お前がいるという、この瞬間瞬間の重み、今という時は当たり前なんかではないのだという気付き、意識が、言葉を超えて雪崩れ込んでくるかのように押し寄せて、涙を絞って絞ってやみませんでした。泣けて泣けてしようがない。悲しいからじゃない。命の命として生ききらんとする様が、もうたまらなく切なく、見事に輝くものだから、読んでいる私の胸の裡にも熱く火の灯るようであったというのです。
- 森島明子『お江戸とてシャン』(まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2010年。
引用
- 森島明子『お江戸とてシャン』(東京:芳文社,2010年),61頁。
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