シンプルなパターンの繰り返し
、そこに面白さがあるというのなら、『マルビプリンセス園華サマ』については一体どう思っているんだい。そういう疑問をお持ちの方もいらっしゃるかも知れないので、ここではっきりと答えておきたいと思います。好きですよ。単行本だって買ってます。特に初期のころの、もうほんと単純に、見た目雰囲気からセレブ扱いされてる園華様ですが、実は貧乏で……、みたいなネタの連発が好きだったんですね。まったくワンパターンといえばワンパターンだけど、くるぞくるぞと待ちかまえているところに、予想通りくるという面白さはありますから。いわゆる定番ギャグ、定番ジョークなどはえてして皆そうしたものですし、民話なんかにもそうした構造は見え隠れしています。
どうも人間には繰り返しに面白さを感じてしまうという回路が備わっているみたいなんです。ほら、子供とか気に入ったこと何度でもするし、何度でもいいますでしょう。そうした傾向は当然大人になっても消えずに残りまして、ということは、とりわけそうした性質を色濃く残した人間が四コマにはまりやすいってことでもあるのかな。いやね、四コマ漫画っていうのは、そうした繰り返しの定番落ちに高い親和性を持っているジャンルだと思いまして、実際、現在連載されている漫画を見回しても、定番落ちを持っているものは少なくないわけです。でも中でもその定番落ちというものに注力しているものがあって、例えばといわれれば、『マルビプリンセス園華サマ』なんかはその最たるものであろうかと思うのです。
なんといっても、タイトルがすべてを物語っているわけです。『マルビプリンセス園華サマ』。ちょっと懐かしい響きだけど、マルビ(表記は丸内にカタカナでビ)すなわち貧乏に対照的なプリンセスという言葉を持ってきてタイトルにしている。漫画で語られる構造が、すべて語られているといっても過言ではないわけです。実際、初期は設定に忠実に、このギャップネタを中心に展開されていました。単純なんだけれど、というか、単純であったがためにというべきか、面白かった。セレブっていうのが流行真っ直中って感じのころでしたから、なおさらだったかも知れません。
繰り返しネタははまれば確かに面白いんですが、いつか飽きられてしまうという危険もあります。それに、人間は同じことの繰り返しを求めつつも、同じことの繰り返しには耐えられない。停滞した状況を見ると、進行させたくなる。さらには解決して安定させたいと思う。そして『園華サマ』と『花の湯』に感じられる違い、それは安定と進行のバランスというところにも現れているんではないかなと思います。どちらも話を重ねるにしたがって、マンネリの打破を打ち出そうとしたものか、安定から進行にかじを切ったように見えるのですが、その進行の度合いは『園華サマ』の方がずっと強いと感じられて、例えば正太様、そして美学生。両者ともに意識しあっている。明示的な三角関係が生じていて、ただ園華様だけがそれほどでもない……。
今はまだ前進的ではないけれど、恋愛がからんでしまったから、いつか進行を余儀なくされるんだろうな。そうした感触は、同じく恋愛の予感を感じさせている『花の湯』よりも『園華様』の方が強く感じられるのですね。恋愛的状況が成立して、そしてその踏み込み方が大きかった。そんな風に感じるものだから、これはきっと動く、いずれ決着しないことにはおさまらない、そういう気分であるのかと思います。
とはいえ、まだもうしばらく、今の状況が続くのだと思います。見た目と実際のギャップを主ネタに、貧乏同志の美学生とお気楽正太様のネタを絡めながら、今しばらくはこの状況を楽しめそうだと思っています。そして動いた暁には、エレガのお姉さんにもしあわせがくるといいなあって、ちょっとそんなこと思っています。
それはそうと、なぜか正太様お付の秘書さんが、微妙にキャラクター変わりつつあるというか。実は私は、もし恋愛状況が発展するなら秘書さん本命ではないかと思っていたものですから、思いっきりの空振りでした。
- 美月李予『マルビプリンセス園華サマ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
- 美月李予『マルビプリンセス園華サマ』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
- 以下続刊
4 件のコメント:
4コママンガって、ネタの使い回しが多いとは思うんですけど、使い回すときに多少ひねると思うんです。
でも、このマンガの作者はほとんどひねらないですよね。読んでいて、前と「同じネタ(似たネタではなく)」が載っているなぁという印象を強く受けます。
なので私、この作者はとても苦手です。
> このマンガの作者はほとんどひねらないですよね。
実をいうと、水島さんがこの作者を苦手としていらっしゃること、知っていました。知ってたらどうしたって感じですが、実はわかるんですよ、水島さんのおっしゃるところっていうのは。
だから、この文章書く時に、そのあたりに触れられたらいいかなと思っていたことがあって、それはネタの繰り返しに耐えられるかどうかをわけるポイントというものでした。本当はこのへんを書くつもりでいたのに、実際書いてみたらまったく触れる余地がなかった。ひどい話です。みんな迷走しがちの私が悪い。
同ネタ反復の傾向の強いものを読もうという時、耐えやすくさせる要素っていうのがあると思っているんです。とりあえず三点くらい思いつきます。
1. ネタの強度
2. 前提の工夫
3. キャラクターや雰囲気への愛着
1のネタの強度というのは、そのネタが単体で、どれほどに繰り返しに耐えうるかというものです。これは特に説明の必要はないと思います。
2の前提の工夫は、水島さんのおっしゃるひねりです。ネタの強度が弱い場合、ひねりが少ないとあっという間に陳腐化して、飽きられてしまいます。
私は思うのですが、この1と2はそれぞれ違った極に位置しているんです。ネタの強度の強い場合、それこそ強烈な強さを持っている場合、ひねりは不要だと思います。何度でもぶつければいいし、その繰り返しがさらに面白さを増すと思っています。逆に、ネタの強度が低い場合は、ひねりを効かせることで、ネタの寿命を延ばし、強度に頼らない面白さを引きだすわけです。
あくまでも私の印象ですが、ネタの強度というとÖYSTER氏が思い出されます。ひねりのうまさというと安堂友子氏です。けど、だからといってÖYSTER氏がひねっていないわけではないし、安堂友子氏がネタの強度で劣るわけでもないというのが困るところですね。
ネタの強度が強い場合は「同じネタ」が続くと感じられることが強みになって、そうでない場合は「同じネタ」だけど「同じにみせない」工夫が必要になるという話です。
以上を踏まえて、水島さんが
> 「同じネタ(似たネタではなく)」が載っているなぁという印象を強く受けます。
とおっしゃる気持ちは実はよくわかるんですね。それは私の文章では、
> 中でもその定番落ちというものに注力している
という表現で表したつもりです。水島さんをうんざりさせる要因については、
> 繰り返しネタははまれば確かに面白いんですが、いつか飽きられてしまうという危険もあります。それに、人間は同じことの繰り返しを求めつつも、同じことの繰り返しには耐えられない。
そのために、
> いずれ決着しないことにはおさまらない
のです。
(前進性を持たせる要素として私はたまたま「恋愛的なるもの」をピックアップしましたが、同ネタ反復スタイルではじまりながら、そうした前進性を導入せざるを得なかったところに、ベースとなるネタの疲弊が意識されていると感じられます。[ここは余談ですね。本来なら削除されるところですが、今回はあえて残しておこうと思います。])
ところで、最初にあげた要素の最後、3のキャラクターや雰囲気への愛着。これが実は馬鹿にできないと思っています。私は『花の湯へようこそ』で書いて、『マルビプリンセス園華サマ』で書いて、その書き振りもろもろを改めて眺め直してみて、単純に私は『花の湯へようこそ』のキャラクターや雰囲気が好きだという、それだけに過ぎないんではないかという感想を持ったのです。ネタの反復の生み出す面白さというのは、理屈をつけてそれっぽくぶっているだけで、本当はキャラクターが好きというだけではないのかという疑問を持っているのですね。
つまり、同ネタ反復への耐えやすさは、3に大きく左右されるってことです。そして、水島さんと私の『マルビプリンセス園華サマ』への評価の違いは、3にこそあるんではないかとも思われて、いわば見た目の華やかさでいわばちやほやされるというネタへの好悪など、あるいはキャラクターですね、そのへんの好き嫌いがあるんじゃないかと思うところもあります。実をいうと、見た目でちやほやネタはそれほど好きではない私も、園華というキャラクター自体は嫌いではないし、美学生との微妙な距離感も嫌いでないという、そのへんが私がこの漫画を買い続ける動因になってるんだろうなと、そういう気がしています。あ、エレガのお姉さん、最初は好きでなかったが、今は結構好きなのでそのへんも大きいと思います。
ちょっと余談になりますが、3のキャラクターや雰囲気への愛着という要素の対極には、キャラクターや雰囲気への嫌悪という要素が現れます。たとえどれほどネタが面白く、またひねりが効いていたとしても、あの主人公が嫌いなんだ、あいつらのあの行動、あの行為、あの言動が我慢ならない、といった場合には、まあ駄目になりますよね。あの世界観あるいは雰囲気が受け入れられないという場合も同様。そして私にもそうした漫画はあります。実は結構あります、黙殺しているだけで。
本文では、上のようなことを書こうとしながら、たどり着くことができずに終わってしまいました。でも、水島さんがコメントをくださったおかげで、思っていたことを、全部じゃないけど(これで全部じゃないんだ!)書くことができました。未整理ながらも、だんだんはっきりしてきたものがあると思います。私にとって得難いチャンスでありました。ありがとうございます。
おおぅ。私が美月作品が苦手なのはブログに書いたことありましたね……。
実は、「ひねらないところがいいんですよ!」的なレスを期待していたのですが、そういう訳ではないようで。
matsuyukiさんが3で仰ってる部分は大当たりだと思います。そもそも絵柄が好みでないので愛着が湧かず、そのためネタの反復に耐えられなくなっているような気がします。
え? あ、ああ!
ひねらないところがいいんですよ!
冗談はさておいて、ひねらないのがいいっていうのは、『園華サマ』のはじまった当初について、
> 単純であったがためにというべきか、面白かった。
といったように、ネタがいけているあいだはストレートにがんがん投げるのが面白いと、やっぱり思うんですね。
でも、以前誰だったかの本で読んだことなのですが(多分、天野祐吉の本)、昔コント55号というコメディアンがいましたが、一度やったネタは二度とやらないを心情にした彼らにしても飽きられてしまったんですね。毎日のように目にする彼らの芸に、いつしか皆なれてしまって、もうコント55号はいいや、って気分が蔓延していた。そんな最中に帰国した男が、いやあ何年かぶりに見るけど、やっぱりコント55号は面白いねえといったとか。それで、ああコント55号とそのネタは変わりなく面白いのに、それを面白いと思わなくなったのは、我々が飽きてしまったからなんだと気付いた、そういう話でした。
どんなに面白くたって飽きるんですね。どんなに斬新であっても、私がコメントに書いたように、ネタの強度がどれほど強くたって飽きるんですね。それは人間とはそういうもんだから仕方がないんです。
だとしたら、そうした状況でなにをかいえるだろうと思ったのが、前のコメントであったんですね。
実はというほどでもありませんが、以前水島さんが美月李予の漫画は苦手と書いていらっしゃったのを読んだときに、ちょっと意外と思ったんでした。というのは、私は水島さんが繰り返しネタに対する耐久性の高い人だと思っていたからで、またそうしたネタを好む傾向にある人だと、勝手に思っていたからなんですね。
けどそうではなかった。じゃあ、比較的漫画の好みも似ている私らをわけたところはなんだったのかと思っていた、そのひとつの結論が今回の記事と、そしてコメントでの返答だったんだと思います。
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