2006年1月23日月曜日

もっけ

  私の楽しみにしている漫画『もっけ』の新刊が発売されていたので買ってきました。帰りの電車で待ちきれないとばかりに読みはじめて、あれよあれよと読了。後で落ち着いた頃に、また再び読むことでしょう。

私はこの漫画を非常に買っていて、地味で今の主流をなすような漫画ではないと思ってはいるのですが、けれど昔、私らの祖先が見て感じていたものが描かれているのかも知れないと思うと、それだけで嬉しくなるんですね。私には見えず、感じることさえできないものを見て、触れ合える姉妹が主人公なのですが、そうした彼女らをうらやんでみるのが私という人間です。嫌というほど、そうしたものたちが見えることのリスクも描かれているというのに、それでもうらやんでしまう私は、いま目にするものの向こうにも、なにか知らない世界が広がっているということを信じたくてしょうがないのでしょう。

この漫画に描かれている風景というのは、かつて日本のどこででも信じられていたような素朴な宗教観であって、宗教というのもちょっと違うかも知れません。アニミズムというやつなんですが、我々の祖先は身の回りにあるあらゆるものことに霊や魂を見て、敬い、そして怖れてきたんですね。確かにアニミズムは宗教の一形態ではありますが、系統だったものというよりも、民間に伝承されるもっと原初的な信仰のかたちであります。

思い返せば、私も子供の頃はこうした宗教観をしっかり受け継いでいて、夜、トイレに立った帰り、窓の向こうにごうごうと揺れる木の影に怖れを抱いたもので、また熱に浮かされながら、寝床の脇に精霊の影を見たことも一度や二度ではなく、そしてこのあらゆるものに魂を思うがゆえに未だにものを捨てることはためらわれます。私にとってはこうしたアニミズム的信仰は弱まりながらも生きていて、けれどこうした感覚を共有しているという人はきっとたくさんあるに違いないと信じています。

けど、今私たちがこうした感覚をだんだん失っているのは間違いないのだと思うのです。私にしてもそうで、季節の行事が忘れ去られていくのは、それら縁起であったり厄除けであったり、あるいは神事そのものであったりを必要としない感性が、古い感覚を覆い隠してしまっているからなのでしょう。私は正月の初詣や節分こそはしますが、盆の送り火迎え火などは焚いたことがなく、このようにだんだんと季節の行事は失われていきます。

怖れを失っているんでしょうね。小学生の頃、どんど焼きを神社でやったことがあったように思います。けれど、その後はとんと知らず、祭ももう長く関わりを断って、私は無味乾燥の地に立っているなと。けど、これは私一人のことではなく、全国的な傾向であることもわかっています。

そんな傾向にあらがうようにして、私が霊や魂に心を向かわせるのは、きっと寂しさを感じているからなのだと思うんです。かつては私たちを取り巻いていた数多の神様やあやかしが科学的見地から否定されて、どんどん消え去っていて、気がつけば人間がこの世にただ一種の叡知を持った霊長であるかのように振る舞って……、けれどそれは私たち人間はどうしようもなく孤独であるということなんだと思うんです。かつて私たちの隣にあった彼らはもういないんですね。そう思うと、寂しさにたまらなくなります。

私がこの漫画を好きだというのは、そうした寂しさを埋めることのできる暖かさがあるからなのだと思います。けれどその暖かさにはオソレも常に伴うもので、本当に暖かいだけなのか、肝を冷やされるような思いもさせられるには違いなくて、けれどそこには人間という種がこの世界の頂点にあるという傲りはなく、きっとだから私は隣に彼らの影を感じていた頃のほうがずっと自然でよかったのだと思っています。少なくとも、孤独な王様ではなかったのですから。

けれど、もう後戻りはできないということもわかっています。私がことさらに寂しく思うのはそこなのです。

  • 熊倉隆敏『もっけ』第1巻 (アフタヌーンKC) 東京:講談社,2002年。
  • 熊倉隆敏『もっけ』第2巻 (アフタヌーンKC) 東京:講談社,2003年。
  • 熊倉隆敏『もっけ』第3巻 (アフタヌーンKC) 東京:講談社,2004年。
  • 熊倉隆敏『もっけ』第4巻 (アフタヌーンKC) 東京:講談社,2005年。
  • 熊倉隆敏『もっけ』第5巻 (アフタヌーンKC) 東京:講談社,2006年。
  • 以下続刊

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