2005年11月24日木曜日

ご臨終メディア — 質問しないマスコミと一人で考えない日本人

 ヨハネによる福音書は次のようなエピソードを伝えています。罪を犯した女をモーセの律法に従い石で打ち殺すべきであるかと問われたイエス答えて曰く、あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。かくして女は助かったのですが、しかしこうした出来事から二千年ほど経った今の日本では、我もわれもと先を争うようにして石を手にする輩がいっぱいで、しかしなあ、あんたらも一枚かんでた口じゃないのかね、と私はいいたい。ことが起これば、私は関係ありませんといわんばかりに聖人君子面しやがって、やってることといえば数に頼んだリンチじゃないか。

いやな国だよ。私は昔からこの国はマイノリティに冷たいと、そんな風に思っていたのですが、このところはその上冷たい風が吹く。いやな国だよ、いやな国だよ。

私はこうしたこの国の状況を理解するよすがとして、阿部謹也のいう世間を頼りにしています。この本を見つけたときには本当に嬉しかった。私の日本における居心地の悪さの実体がついに言葉になったと思った。といっても、今回は阿部謹也を扱うのではないから、これはこの辺でストップ。

森達也と森巣博対談本が出ているのを書店で見つけて、その瞬間に確保。森達也といえば私にとっては『放送禁止歌』の著者であり、森巣博は『ナショナリズムの克服』のあの人です。これだけ役者が揃って、買わないという選択肢はありませんでした。

この本が扱うのは、日本のメディアのていたらくぶりと、そのメディアとともに低きへ流れていく世相です。メディアは批判をおそれるナイーブさゆえに当たり障りのないことを書いてお茶を濁し、そのメディアの受け手はというと、口当たりのよく明快な答えを欲して、答えらしきものが提示されればそれでよし。自分で考えようとしない、飼いならされた大衆に成り下がっている。

耳が痛い。私は実際その通り、なにしろ素直なものですから、人のいうことはすぐ信じちゃいます。疑うなんてことは露とも思わず、テレビがいってるんだから間違いないんだ、そうなんだ! — こういう人間が、あの女に石を投げろというコマンドが発された瞬間に石を取り、ためらいもなく投げるのでしょう。へどが出ます。

私は、願わくば道を誤らず、そう、昨日いっていたように、善きマイノリティの友でありたいと思います。私は自分の多数派に与しないことを知っていて、ことがあらば追われる側の人間であることを自覚していて、だから私はいかなる場にも属すことなく、塀の上を歩く人間でありたい。そういう私にとって頼みは自分の実感ひとつで、だから森と森巣の対談は、ともすれば考えるのをさぼろうとする私にとって、大いなる励ましであり叱咤でありました。

そういえば、以前ロシアの作家ソローキンがいっていたことを思い出しました。彼は人生に埋もれることがなにより最悪なのだといっていて、それを例えて巨大な肉挽き機の一部になることと表現しました。私はこの肉挽き機を世間であると諒解して、ソローキンがいうように、この肉挽き機を外側から眺めていたいと思います。

肉挽き機を外から眺める方法とは、世間に取り巻かれるのではなく、距離をおいて見ること、 — 思考することをあきらめないことであろうと思います。

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