先日、ペン習字通信講座の手本に『ペン習字三体』を買ったといっていましたが、その時に一緒に買ったのが『速成ペン習字』でした。届いてみればとても薄い一冊で、中を見れば、仮名の練習、漢字の練習が数ページずつ、そして短いフレーズ、手紙などの文章に進むという、速成というにふさわしいカリキュラムです。仮名、漢字の練習編では、注意すべき点が下欄に示してあって、例えば書き順、例えばバランス、手習いを教師についてするのではなく、手本だけを頼りに学ぶ独習者には、こうした細かい気遣いが大変にありがたいです。さて、私がこの手本を眺めて、特に手紙を読んでいた時に、痛く思うところがありました。それはある種私の文字を習うモチベーションを低下させかねないもので、いったいなにかといいますと、読めないという問題です。
読めない、文字通り読めないのです。いうまでもないことですが、書かれている字は美しいし、整っています。なのに読めないというのは、文字の判別ができないためです。手紙の手本は行書にて書かれていました。大半はすらすらと読めます。ですが、まれに読めない文字が混じります。文脈から、また字をなぞってみることでわかるものもあるのですが、どうしてもわからないものが五字残り、これはまいったぞと思ったのでした。行書は習っていないものには読めない。この先、私が行書草書を書けるようになったとしても、おそらく使う場面はあるまいと思われたのでした。
読めない理由は、単純にその字に見慣れがないからです。毛筆を読む機会がないのはもちろんとして、そもそも手書きを見るという機会も、昔に比べて格段に減ってしまっているでしょう。私が学校を卒業して事務作業に従事するようになったのは2000年頃のことですが、その頃には事務文書を手書きしている人はいませんでした。フォーマルな文書において手書きはほぼ姿を消して久しいです。今の職場でも、書類を手書きしている人は見ません。
かつては手書きの独壇場であったと思われる手紙も、最近はほとんど書く機会がなくなりました。大抵が電子メールですんでしまいます。手書きの出る幕なんてまるでなくて、それこそ趣味でやっていますというような人間以外に、行書でのやり取りが可能であるとは思われない。もう、手書きという技術は、半ば失われようとしているのかも知れないとまで思いました。
思えば、最近の若い人は字が汚いなどと悪くいわれたりしますけれど、それも当たり前でしょう。字を書く機会が少ないというのもあるけれど、それ以前に、美しい手書きを見る機会がないじゃないですか。本を開けば活字でしょう。活字というのは、印刷用にデザインされた文字であって、手で書くに適した字ではありません。学校で配られるプリントも、おそらくはワープロ印字によるものでしょう。このように、子供の頃から美しい手書きに触れず育った子らが、綺麗な字を書けるというほうがおかしいのであって、そして活字によって育った彼らが、行書を読めるはずがない。行書で書かれた手紙を受け取っても、判別できない字があるために、手紙としての用がなせないのです。それこそ、私がそうであったように。そしてそれは、非常にまずいことなのではないかと思ったのです。
私が以前図書館で受付をしていた時のこと、貸し出し表に非常に美しい文字で名前を書く学生がありまして、けれど美しいだけなら他にもいます。なにが私をそこまで驚かせたかというと、草書で書かれていたのです。鉛筆書きによる草書、漢字四文字がバランスよく名前欄に収まって、それはそれは美しかった。あまりに美しいものだから声をかけたら、長く習字をやっていて、いくつも賞をとっているとのこと。なるほどなあ、その経歴が納得できる文字でした。
けれど、彼女の文字は、よほどの時間と努力を費やして成ったに違いない彼女の字は、この先、その威力を最大に発揮することはまずないのだろうなと思います。日頃には楷書、けれどおおむね印字による、そうした現実を思い浮かべれば、今という時代は効率的ではあるけれど、実は貧しいのかも知れないとそういう考えが浮かんできて、そして私がいつも非効率なものに引かれてしまうのは、非効率であるがために豊かであるという世界があると、信じたいからなのだと思います。
だから私は、微力ながらも、ペン習字に精を出したいと思います。けど、行書での文通とかできないのは寂しいなあ。楷書は、それはそれは美しい字なんだけれど、たまには行書とかでも書きたいではありませんか。でもこのことを考えるのは、まだ先のことですね。今は、書けるようになることを考えたいと思います。
- 高田香雪『速成ペン習字』東京:日本習字普及協会,1987年。
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