2008年7月22日火曜日

文章の話

私はもとより文章のうまいほうではないのですが、それでもこのところはひどすぎます。読み返してみて、自分自身つながりがよくわからない、飛躍しすぎたり、あるいは同じことばかり書いてみたり、ああ、もう、駄目だなあと反省するばかりです。しかしなにが悪いといっても、反省しているつもりのくせに、それが生かされていないことでしょう。だってね、もし本当に反省したっていうのなら、少しずつでもましになっていないといけません。ところが、ちっともよくなる兆しもないというんですから、反省なんて口先だけのふりなんでしょう。だから、ここにこうして文章にすることで、本当に反省することにしました。反省をかたちにして残すことで、自分へのいましめにしようと思ったのですね。

自分で自分の文章のひどさが度を過ごしていることに、自分ながらショックを受けて、なんでこんなことになったんだろうと思い返してみたところ、こんなことが思い出されました。文は人なり。以前、まだ学生の頃、読んだ本にあった言葉です。里見弴の『文章の話』に記されていたこのフレーズは、里見弴自身が誰でもが、安ッぽく口にしている言葉と註釈するくらい、当たり前の、それこそわかりきったことでありますが、しかしそれを本当にわかって実践するのは難しい、そんな風に思うのです。

里見弴は続く節「細瑾」で、細瑾すなわち細かな過ちについて触れて、こんなことをいっています。

 それから、これは、「文章の欠点」と呼ぶのも、おこがましいくらい、ただの不注意ですが、誤字、脱字、送り仮名の多すぎ・少なすぎ、敬語のもって行きどころの誤りなど、いずれも「頭脳の構造」を危ぶみたくなるものが、これまた相当の数でした。

(強調は里見弴による。原文では傍点)

私が自分の文章のひどさを目の当たりにしたとき、自分の頭脳の構造を危ぶみたくなったのです。こいつはいったいなにをどう考えているんだろう。わけのわからない文章を書くのは、私自身、わけがわからないでいるということの証明です。ちぐはぐな文章は、考えがちぐはぐであるということに他ならず、ならば独りよがりな様は私の身勝手さ、読む人のことを考えていない傲慢さのあらわれなのでしょう。まさしく文は人なりです。私は自分の文章を読んで、その文章のまずさをではなく、まずい文章を書く私自身を恥じます。

里見弴は『文章の話』で、本当にいろいろなことを書いています。ここにそれをひとつひとつ書き写すことはしませんが、中でも実際的でわかりやすく、役立ちそうなものを書き出しておこうと思います。それは、「内容と表現」という章の、「仮に「内容」と呼ぶもの」という節にあったもので、内容の充実した、すなわち「自」の現れた文章を書くために必要なものとはなにかを説いたものです。

  1. 書きたいことが、胸いっぱいたまって来るまで、筆をとらないこと
  2. 小細工をせず、思ったままを、素直に書くこと
  3. 屁理窟を並べず、感覚的に書くこと

このみっつがいい文章を書くのに都合のいい条件だといっています。私もそう思います。

けれど、私はそれができていませんでした。私は、特にこのBlogに書くにあたっては、まず素直であることを大切にしています。思ったことを、思ったとおりに書く。それも、持って回って書くのではなく、まっすぐ、わかりやすく書く。それを自分への課題にしているのです。けど、これが課題なら落第です。だって、わかりやすくないですから。そのわかりにくさは、さっきも書いていましたとおり、私の「頭脳の構造」の問題です。自分で自分の思っていることを、ちゃんと捉えられていないから、あやふやな、それこそとらえどころのない文章ができあがるのです。つまり、思ったことを、思ったとおりに書けていないといっています。ここでもやっぱり落第です。私の文章は、最初の読者である私の課題さえ満たせない、駄目な文章でした。

最後に、わかりやすさについてちょっと書いておきたいと思います。

私の受講しているPILOTのペン習字通信講座から、毎月『わかくさ通信』が届けられます。その平成20年6月号の「歳時記」に、「わかりやすさとわかりにくさ」と題する石渡佳子先生の文章が載っていました。そこに紹介されていた一節、作物つくりもの何人なんびとにもやさしく理解できてこそ、本物ほんもの作物つくりものであるは、本当にそのとおりだと思わせるものでありました。同じく「わかりやすさとわかりにくさ」には、中国の詩人杜甫が、隣家のお年寄りに自作の詩を聞いてもらい、わからないといわれるたびに、難しい言葉をやさしく改めていったという逸話も紹介されていて、それはつまりどういうことかといいますと、世の中が進んで文化も進むと、わかりにくいものが増えていってしまいがちですが、それでもわかりにくさを減らす努力を惜しんではいけないとおっしゃっているのです。新しくてわかりにくいではなくて、新しくそれでもわかりやすくないといけない。そうおっしゃることの大切さ、本当にそのとおりであると思います。

表向きわかりにくく作ってあるけれど、考えて、あ、そうか、とわかって楽しいといったものも確かにあるのですが、でも、解いて楽しめるように工夫されたわかりにくさと、工夫が足りないからわかりにくいというものは、全然違いますよね。私の文章のわかりにくさは、工夫の足りないタイプのわかりにくさでした。わかりやすくする努力を惜しんでいた、読む人をないがしろにする、そんな態度が見え見えでした。私の横柄で怠けがちな人柄がよく現れていたと思います。だから私は反省しないではおられなかったのです。

以上、こうして反省してみせて、ですがこれがかたちだけのものとなるようでしたら、その時には、この人は心底できていない人であると思ってください。ああ、この人は自分でいったことさえ守れない、惰弱な人だと思ってください。けれど私はさすがにそう思われたくはありません。そう思われないためにも、今日のこの反省を生かし結果につなげられるような、日々の努力を怠らぬものでありたいと思います。

  • 里見弴『文章の話』(岩波文庫) 東京:岩波書店,1993年。
  • 里見弴『文章の話』(日本少國民文庫) 東京:新潮社,1937年。

引用

  • 里見弴『文章の話』(東京:岩波書店,1993年),219頁。
  • 同前。
  • 同前,170頁。
  • 同前,171頁。
  • 石渡佳子「わかりやすさとわかりにくさ」,『わかくさ通信』通巻532号(2008年6月号),2008年,1頁。

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