その存在を知らないまま、偶然に出会った『暁色の潜伏魔女』。連載されていることも知らず、もちろん単行本になることも知らなかった。別の本を探していたら、袴田めらという作者名に気付いて、危ないところでした。もしあの時、あの本を探していなかったら、私はこの漫画を気付かないままに流していたかも知れない。そうしたら、私はきっとあとで悔やんだでしょう。そして今日買った第3巻。これもまた、別の本を買おうとして立ち寄った書店で見付けて、あ、3巻出てたんだ、当然のごとく買ったら最終巻。あー、終わるんだ。なんだかすごく残念に思って、つまりはよっぽど好きだったのでしょう。今更に気付かされることとなりました。
私が袴田めらの漫画を好きなのは、そのたっぷりとした情緒のためだと思います。設定や絵にも魅力はあるし、キャラクターもかわいいし、けれど設定の精緻さで読ませる漫画ではなく、絵の絢爛さも弱い。じゃあキャラクターかといわれると、そんなにキャラクター性を前に押し出してといった風でもない。だから私はこの漫画の魅力は、情緒であると、彼彼女らを内包して揺れ動く世界が伝える情緒にこそ引きつけられるのだと、そのようにいうのです。
しかし、情緒というのは言葉にして伝えるのが難しくて、私はいつもその詳細に触れようという時、立ち止まらないではおられないのです。私は確かにそれを思い、ありありと手に触れるかのように感じているというのに、言葉にしようとすると崩れてしまって残らない。ところが袴田めらという人は、そんなあやふやな心の景色をうまくすくい取って、漫画という形式を通じてよく伝えてくれます。心と心の出会うところに兆すもの、機微、趣 — 、表現なんてなんだっていいのですが、誰かを好きになるということ、友達と思っていること、その素晴らしさ、舞い上がる気持ちや嬉しさを描いたかと思えば、その裏側にある疑いや不安などもまた描いて、その絡み合う様が読んでいる私の心にも届いて、嬉しくさせたり、悲しくさせたり。感情というのは、本当に一面的なものではあり得ないなと思わされます。ハッピーエンドを迎えても、その時に、友情の美しさが喜びを与えてくれていたとしても、それでもどこかに苦さ、寂しさ、苦しさが残っていることがある。笑っている、それは間違いないのだけれども、その笑いの影に切なさの隠されていることに気付かされることがある。そうした感情、思いの多様なさま、深く複雑に入り組んだ様子が私を捉えてはなしません。そのような時に私は、袴田めらはよいと思うのです。しかしそれを人に伝えようという時には、とにかくいいんだよ、としかいえなくなってしまっている。不甲斐ないなあ。ええ、その魅力に対し、全然力が及ばないです。
『暁色の潜伏魔女』は、第1巻の時点では結構重めの展開を見せたものの、その後は結構軽く楽しいのりを維持して、でもそれは最終話にむけての準備期間でもあったのだなあ。全話読み終えて思ったのはそれでした。第1巻の時点で、すべてが予定されていたのかは私にはわかりません。けれど、1巻2巻と話を広げ、積み上げられてきた小さな要素が最後のあの場面に繋がるものと知ったとき、私は一層にこの漫画を好きになったと感じました。そして、この漫画のテーマが執着や独占欲であることをひときわはっきりとさせる展開を経て、この物語は閉じられました。誰かを自分だけのものにしたい、あの人の視線をずっと私に向けさせたい、きっと誰もが持っている欲張った感情、それを転倒させるラストでした。私のあなたではなく、あなたの私であるということ。ああ、いい話でした。
きっと私はこの漫画を折りに読み返すだろう。そのように思いながら、すっかり心を奪われてしまっている自分を思っています。ええ、本当に好きな漫画なのです。
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