今日、ドラえもんの1巻を懐かしく思い出しながらの帰り道、のび太が昭和の時代の子であったからこそあの話は成立したのかも知れないなと思われて、いや、だってね、のび太にはなんのかんのいっても子孫がいるのですよ。歴史を書き換えるべくドラえもんを送り込んだセワシです。本意だか不本意だかはわからないけれど、それなりに進学して、それなりに職業を持って、それなりに結婚をして、子供も持って、いうならば人並み。人並みが仕合せであるとは限らないけれど、人並みの人生を歩んだのび太は、たとえ晩年が借金まみれであったとしても、多少はましだったんではないかと思ったのですね。なにせ、今では人並みを求めても得られずあえいでいる人がいるっていいます。そう、のび太がもしも平成の子であったら、不登校からひきこもりに、あるいは進学したとしても就職に失敗し、起業も叶わず、フリーターないしはニートと呼ばれるような立場に追い込まれていたかも知れないな。そんなこと思ったんですね。
定職を持たず、収入も乏しければ、結婚という選択も閉ざされ — 、というようなことにでもなれば、彼のもとにドラえもんを派遣したセワシが生まれる可能性も断たれるのです。セワシはのび太に対し、れき史の流れがかわっても、けっきょくぼくは生まれてくるよ
なんて呑気なことをいっていますが、のび太が結婚できなければ、そして子供を持つことができなければ、そこでアウトです。それでもセワシは生まれてくるのだとしても、そのセワシはのび太とは縁もゆかりもない他人であるのだから、あまりに駄目だった先祖を助けるために、エージェントを送り込もうなんて思わない。だとしたら平成ののび太は、漫画『ドラえもん』を眺めながら、来もしない友人を妄想のうちに待ち続けるしかないのかも知れないなあ。そう考えると切なくて切なくて。
『ドラえもん』は、のび太のもとにドラえもんがいることを当然の前提としていますが、その前提が成立する条件というのが、今となっては非常にシビアになっているということに愕然としたのでした。昭和のころは、もちろん誰もが結婚できたわけではなかったけれど、でもある程度の年齢になれば結婚するものだという常識が存在していて、よほどのできない坊主でも、われ鍋にとじ蓋、なんとか相手を探してくっつけようという社会的システムが働いていたんだろうなあなんて思いまして、ああ、つくづく私は平成ののび太でよかったと思います。だって、そんなの余計なお世話じゃんか。なんていって人並みであることを退けようとするのが私で、だからこんな私は、来もしない友人を妄想のうちに待ち続けなければならないのでしょう。
しかし、久しぶりに読んだ『ドラえもん』第1巻は、もうべらぼうに面白くて、やっぱり『ドラえもん』は初期から中期にかけて、そうさなあ、20巻台中盤くらいまでが最高だと思います。今はもうアニメも見てないし(歌が変わったんだってね、びっくりしましたよ)、興味もなければ注意も払っちゃいない有り様だけど、でもそれは私の中に『ドラえもん』の黄金期が確固としてあり続けているからだと思います。私には、その過去の『ドラえもん』で充分なのですよ。見たくなれば、自分の本棚を探せばいい。それ以上の『ドラえもん』はもういらないなあと、初期中期のシニカルでそれでいて理想主義的な様を愛する私は断言してしまいます。
- 藤子不二雄『ドラえもん』第1巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1974年。
引用
- 藤子不二雄『ドラえもん』第1巻 (東京:小学館,1974年)18頁。
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