今日の記事は私の友人のために書きます。私が彼と出会ったのはネット上に構築された仮想世界で、興味や発想がとても似ていたものですから意気投合し、さまざまな情報を交換しあったものでした。出会った時期は2006年初頭、具体的にいえば2月中旬です。その彼があるときいいました:自分のサイトがGoogleの検索結果から出てこなくなった。そのころ、ネット上で少し話題になった事件に、GoogleがBMWのサイトをインデックスから削除したというものがあり、そうした事例もあるらしいこと、その事例はBMWが検索エンジンSPAM行為をおこなっていたためになされた、いわば制裁であることを説明しました。でも、彼はそういうことはやっていません。彼のサイトを見ても、普通の日常雑記といった風で、とりわけSPAMやなんかに加担しているような訳でもないのです。そこで私はもうひとつの情報を出して、それはGoogleのインデックスを任意に削除する方法というのがあるらしいという話です。
私がそうした事例を知ったのは、手話コーラスについて調べ、考えてみたというサイトに掲載された情報このサイトへの悪質な妨害行為においてでした。この情報は私にとっては大変にショックなもので、なんらかの手段によって特定の検索エンジンのクエリ結果から特定のサイト(ページ)を消すことができるというのですから、Web上に散らばりひしめく情報群から目的の情報を得るためにそうした検索エンジンを日々使用している私にとってはたまらない話です。グーグル八分という言葉を知ったのは、それからほどなくしてのことであったと記憶しています。
グーグル八分(はちぶ)とは村八分という言葉から作られた言葉で、Googleの検索結果から外してしまうということを指します。私は当初、この現象はGoogleのSPAMサイト排除の仕組みを悪用しておこなう、ハックの一種であると思っていたのですが、その後そうではないらしいということが明らかにされて、またここで驚きました。というのは、Googleが削除申請を受けてインデックスからページを削除するという事実が確認されたからで、つまりこうしたことはGoogleが把握しにくいコンピュータシステム上の問題ではなく、Googleが事象を把握しおこなっている検閲であるというのです。あの時の私の失望ぶりは今も鮮明ですよ。一瞬にして価値が色あせるという体験でした。
グーグル八分は、現在では割合と知られるようになってきていますが、それでも知られていないといっていいくらいに認知されていない問題であると思っています。まず話しても、興味を引きにくい。ふーん、みたいな感じで聞き流される。けれど、私は実際に削除されたというページにたどり着いてその事象についての情報を得て、さらに私の友人がそうした制裁を受けていると知って、これは他人事ではないなと思ったのです。なにしろ、私もWebサイトのオーナーですから、検索結果に自分のサイトが表示されることの重要性は認識しています。ちょっと想像してみてください。検索結果として表示される可能性があらかじめ剥奪されている、かつては表示されていたページがある日を境に表示されなくなったなど、そうしたことが起こればきっとショックでしょう。私みたいに、アクセス数になどさしてあくせくしていない人間でも、やはり誰かと繋がる可能性を奪われるというのはショックなのです。
グーグル八分に関する本が出ているのを知ったのは昨日のことです。駅前の書店で見かけて、あ、そういえば本が出るとかいってたっけっか。ちょっと中身を見て、前半の事象に関してはそこそこ知っていたものの、これは応援したいなと思ったものですから買いました。買っただけじゃありません。読みました。読むスピードの遅い私には珍しいことです。昨日買って今日読み終わっている。どれほどの意気込み、期待があったかということを察していただければ幸いです。
この事実が書籍という媒体で世に出たのは、大きなことであると思います。グーグル八分の問題は、ネット上でこそわずかに見ることができるとはいえ、まだまだ認知されているとはいえません。かてて加えて、ネット上の情報は個人がなんらの審査も経ずに出すことができるために、うさんくささがつきまといます。それに、こういっちゃあ悪いですが、グーグル八分に関する最大の情報集積所であり本書の母体でもある悪徳商法?マニアックスというサイト自体がなんかうさんくさい。そもそも自らトップページに日本で最大の、アングラサイトです
なんて書いてるんだもの。このうさんくささは、自らを正義の存在にしないための制限であるのですが(と私は思ってるんですが)、そのあたりの事情を知らない人にこのサイトをいきなり紹介すると、このサイト自体に問題があるんちゃうん、みたいな反応が得られたりして、またグーグル八分について説明しても、そらGoogleもこんなのとかかわりあいたくないやろ、みたいにいわれたりもします(というか、実際にいわれました)。
こんな状況だからこそ、本になったことが大きいのです。
本になるということ、そして流通に乗るということは、それだけでひとつの権威となりえるからです。読者は普段あまり意識しませんが、本になる、あるいはメディアに乗るということは、なんらかの組織がこの情報は世に出すに値すると判断したのだということを感じています。特にそれはそのメディアが成熟している場合に顕著です。いや、実際の話、本なんて結構簡単に出して流通にのせたりできるんですが(売れるかどうかは別)、けれどそれでもWeb上に公開されているものと比べると、本のほうが情報がしっかりしているように感じる。偏見ですよ。情報の善し悪しは、結局そのものに触れて、検証する以外に判定する方法はないんですから。ですが、本というメディアが持つ力が加わったことは馬鹿にできないと思っています。
これでグーグル八分の問題を俎上に載せる用意が整ったと感じています。つまり、議論はここにようやくはじまったということです。少年誌風にいえば、僕たちの戦いは始まったばかりだ! といった感じでしょうか(縁起悪いな)。グーグル八分が知られることで、なぜか過大に評価されていると感じるGoogleの価値に少しでも疑いのまなざしが注がれ、なんらかの浄化作用が生まれるならそれはよいことだと考えます。またあるいは、Googleの検索結果に対し削除を要求できることを知った人がばんばん削除を申請して、グーグル八分が今以上に衆目にさらされるようになってもいいと私は考えています。そうなれば、問題はもう他人事ではない。情報を求める自分自身の尺度が一企業の恣意性によって揺らぐことの危険性を、実感として得られるだろうと思うからです。
最後に、私の見解を示しておきます。以前書いた文章の引用ですが、この問題に対する私の意見を端的に表現していると思います:
僕は、権利を声高に叫ぶことは好みません。権利とは、本来われわれが持ちえている普遍的なものであると信じたいからです。ですが、権利が侵害されることがあったならば、権利を守るために立ち上がることを厭いません。
図書館の自由が侵されるとき、われわれは団結して、あくまで自由を守る。
これは、僕の好きな言葉のひとつです。図書館は、資料収集、資料提供の自由を有し、あらゆる検閲に反対します。この図書館の自由を、われわれの自由と読み替えることは不可能でしょうか?
僕は、お仕着せの判断や基準なんて望みも求めもしません。自分の発信する情報を規制するものは、自身の良心だけです。得る情報を規制するものは、自身の判断だけです。
- 吉本敏洋『グーグル八分とは何か』東京:九天社,2007年。
0 件のコメント:
コメントを投稿