
この漫画で扱われる主題がセックスであることから、今まで避けて避けて避けて通ってきたのですが、ちょっと書いてみようかなあと思うところがあって引っ張り出してきました。
ちょっと前に援助交際とかいって体のいい売買春が横行していましたが(そして今もなくなっちゃいないのでしょうが)、ちょうどそんな時分にこの漫画は連載されていました。普通の女高生やなんかが援助交際をするということは、良識ある大人たちにはあまりにショックだったと見えて、さまざまな分析やなんかがおこなわれましたが、この漫画を知るにはそういった当時の背景なんかも知っておいたほうがいいのかなあと。というのは、そうした時代の空気を抜きにすると、男にとって都合のよい女の子の出てくるエロ漫画でしかないかなあと思うからで、いや、けれどそうした評価はあながち間違っていないのではないかと思います。
そもそも、援助交際なんてものからが、買い手にとって極めて都合のよいシステムでありました。低リスクで低廉に、年端もいかない女の子をおもちゃにできるわけでして、あれは社会全体でおこなう性的搾取でしかないなあと、私なんかは思うわけです。
けれど、お小遣い欲しさに一部の女の子はウリをおこなって、ほんと、思うつぼというか鴨がねぎというか、あたかもおじさんたちを手玉に取っているかのように思わせてだまして、やっぱりうまいシステムであったなあと私なんかは思うわけです。
さて、そんな援助交際というシステムを分析しようとした時代があったわけですが、そうしたものの多くは、結局援助交際を後押しするものでしかなかったのかもなあと、今振り返って思います。少女たちは自分の価値の希薄さにどうだこうだとか、空虚さを埋めたいという気持ちがどうだこうだとか、思潮の問題にしてしまった。いや、そうじゃないだろうと。問題はそこじゃないだろうと、私は思うわけでして、でもまあ結局は個人の問題ですからどうでもいいといえばどうでもいいのです。
『センチメントの季節』は、まさにそうした時代の空気を体現しています。空白を抱えた少女たちが、その隙間を埋めようとするかのようにセックスをする。いや、セックスしちゃいかん、けしからんとはいいません。ですが、結局そうした行為に走ることを、空しさだとか寂しさだとか、そういうせいにしちゃいかんのじゃないのかなあと思います。
私は、セックスするしないにせよ、なんにせよ、個人の決断はその個人が責を負うものだと考えるのですが、ですがこれをそうした空しさとか寂しさとか、ちょうどこの漫画のタイトルがいうような感傷的な理由に求めるのは、ただの逃げであると思うのです。それも、ファンタジーに逃げるのは一番あかんのじゃないかなあと。この漫画に立ちこめる性を取り巻く幻想は、確かによくできていてそうなんだと思わせるに充分でありますが、けれどそれはそうした幻想を共有しているからそう思えるだけであって、ちょっと身を引き離してみれば、体のいい理由を自分の外 — 例えばそれは時代だったり社会だったり — に求めたいだけなんだと気付きます。
だから、やっぱりこの漫画は、男にとって都合のよいファンタジーでしかないなというのです。
けれど、多分作者はこうした幻想とそれを支えようとする仕組みに無自覚ではなかったと思います。体がおいてきぼりにされたような、感傷ばかりが目立つ漫画ですが、最終巻における心だけにも体だけにもなれない
というあたりまえの結論は、ある種実感の希薄である現在 — 肥大した心を支えられない身体感覚の弱さに誰もが気付いているといいたいからこその駄目押しではなかったのかなと思えます。
ともあれ、この漫画や、この漫画を取り巻く状況といったものは、ちょうど、ほら千葉の浦安辺りで、主催者も参加者も一緒になって守っているファンタジーがありますが、そんな具合に、それが幻想に過ぎないとわかっていながらも守られていたファンタジーなのかも知れません。そうしたファンタジーの向こう側にあったものというのは、結局たいしたことのない、あたりまえのものに過ぎないというのが相場でありますが、これにしてもみんなで買い被っていただけなんじゃないかと思ったりしています。
それでは、本題。
私は字を習ったり音楽をやったり、またこうして文章を書いたりしていますが、そういうときに一番大切だと思うものは実感だったりします。その字や音、いいたいことに対して、実感が伴っていないとよいものはできないばかりか、もうそれ以前の問題で、まったく筆も進まなければ、身動きさえもできない。そういえば私は、子供のころ、読書感想文が嫌いでした。作文の書かされるという感じが嫌で嫌でたまりませんでした。実感もないのになにも書けるはずはないのです。
『センチメントの季節』に話を戻せば、そうした実感が一番強く出ていたのは、おそらくは最初の二巻までだったんではないかと思うんですね。ひとりの人間の内部に広がる性に関する幻想は有限で、さしてバラエティに富んだものではないのです。けれど同じことは描けない。この漫画を見ていて、そうしたジレンマを感じることがあったのは事実です。
ですが、そうしたかぎりのあるファンタジーを縦横に駆使して、エロを描き続けている人というのは確かにいるわけでして、そういう人って偉大だなあと、私はいつも思います。これって揶揄や皮肉じゃなくて、素直な感想ですよ。
- 榎本ナリコ『センチメントの季節』秋の章 (小学館文庫) 東京:小学館,2005年。
- 榎本ナリコ『センチメントの季節』春の章 (小学館文庫) 東京:小学館,2005年。
- 榎本ナリコ『センチメントの季節』夏の章 (小学館文庫) 東京:小学館,2005年。
- 榎本ナリコ『センチメントの季節』冬の章 (小学館文庫) 東京:小学館,2005年。
- 榎本ナリコ『センチメントの季節』第1巻 (Big spirits comics special) 東京:小学館,1998年。
- 榎本ナリコ『センチメントの季節』第2巻 (Big spirits comics special) 東京:小学館,1998年。
- 榎本ナリコ『センチメントの季節』第3巻 (Big spirits comics special) 東京:小学館,1999年。
- 榎本ナリコ『センチメントの季節』第4巻 (Big spirits comics special) 東京:小学館,1999年。
- 榎本ナリコ『センチメントの季節』第5巻 (Big spirits comics special) 東京:小学館,2000年。
- 榎本ナリコ『センチメントの季節』第6巻 (Big spirits comics special) 東京:小学館,2000年。
- 榎本ナリコ『センチメントの季節』第7巻 (Big spirits comics special) 東京:小学館,2001年。
- 榎本ナリコ『センチメントの季節』第8巻 (Big spirits comics special) 東京:小学館,2002年。
引用
- 榎本ナリコ『センチメントの季節』第8巻 (東京:小学館,2002年),196頁。

昨日の夜のニュースで倉橋由美子さんが亡くなられたという報に接し、ちょっとがっくりときてしまいました。六十九、— まだ六十九か、早いなあと思って、前にもちょっといったことがあるかと思いますが、人が死ぬということはひとつの可能性が消えるということです。それで世界が豊かになるか貧しくなるかはわからないとはいえ、けれど私にとって、倉橋さんが亡くなられたということは、世界の一部が欠けてしまったのと同じようなことであるから、だからやはりショックでした。
私は高校に通っていた時分に、手当たり次第、触れたもの目に留まったものをなんでも読むという乱読期を経験したのですが、ところがその反動が出でもしたのか、その後数年は、もうまったくといってもよいほど本を読まなくなりました。それこそ、字ばっかりの本を読まなくなった。当時はあんまり金銭的に余裕がなく、本が買えなかったという事情もあるのでしょうが、それにしても読まなかったですね。再び本を読むようになったのは、学部の三回に上がってから。このときは、とにかく興味を引いたタイトルをとにかく買って手もとに置くというやり方で、特にジャンルを決めるでなく、西洋東洋の区別もなく、哲学文学戯曲エッセイなんでも読むという、— こういう乱読が私の基本的な傾向のようですね。
今日は二胡との伴奏合わせで、でもってなんだか気分が中国風になってしまったので、『春宵情歌』なんぞを思い出して見ました。『春宵情歌』というのはなにかといいますと、『

今日、ひょんなことから『
私はもともとゲームは嫌いなたちではなくて、それこそRPGなら初代『
6月9日はロックの日! というわけで、こないだ買った『サイダースファンクラブ』の紹介だ。
まさに今現在、異国の地タイはバンコクにて行われている、ワールドカップアジア地区最終予選日本北朝鮮戦。前半は今まさに終わろうとしていて、今だ0-0という状況です。
君は主義者かねと薮から棒に聞かれてたまげたことがあります。私に対してのことですから、きっとアカかといわれてるのだと思ったら、それが大間違いでして、右翼かというんですね。なんでですかと聞き返したらば、私の以前に渡しておいた書き置きに正字が含まれていたからというわけで、ああ、そうじゃそうじゃ、確かに私は正字正假名をつかうことが頻繁です。
先達て
ツーさん(妻)とカーさん(夫)の、ラブラブだけどどことなく肩の力が抜けたところが嬉しい漫画で、この表紙のお姉さんがツーさん。いったいなにをしてるのかというと、じゃんけんでなにを出そうかと決めあぐねてるところで、裏表紙には同じくこれをやっているカーさんの後ろ姿が描かれております。



市川ジュンの漫画はとてもセンシティブだもんだから、私はどうしても心引かれてやまないのです。心の機微に触れる細やかさと最後の一歩を踏み込む大胆さ、鋭さを合わせ持っていて、その上しなやかであるところが気に入っています。このしなやかであるというのは大変なことで、市川ジュンは女性の自立であるとか権利であるとかの固く重いテーマを扱って、しかしそれが萌える芽吹きの息づきを常に忘れないものだから、すごく心にしみてきます。類いまれな才能と表現力だと思うのですが、あんまりメジャーなところに躍り出てこられないのがひたすら残念です。
『ラプソディ・イン・ブルー』がクラシックの世界にジャズのエッセンスを持ち込んだようなものであるとすれば、マッコイ・タイナーの『プレリュードとソナタ』はまったくその逆。クラシックの曲をジャズの語法で演奏していて、そのモチーフとなったのはショパンの『前奏曲』とベートーヴェンの『ソナタ』。どちらもれっきとしたクラシックの名曲で、まさにスタンダード中のスタンダードといえます。けれど、スタンダードナンバーを取り上げて、自分の色で演奏するというのはジャズのジャズ足る所以ではないですか。しかして、ショパンもベートーヴェンも、クラシックではちょっとないような新味が加わって、馴染みの曲がまったく思い掛けない装い。私にはショパンがすごく魅力的です。
日本にもよいジャズプレイヤーはたくさんいるのですが、中でも私が好きな人といえば、サクソフォンプレイヤーの渡辺貞夫氏。艶のあるトーン、演奏は実に軽やかであるというのに、その土台はどっしりとして揺るぎがありません。聴いていて不安に感じることなんてまったくないから、リラックスしてゆったり聴いていられるのです。
