久しぶりに『ライフ・イズ・ビューティフル』を見たのでした。1997年の映画、もう十年以上前ですね。けっこう古い映画です。なんで、今これを見たのかといいますと、このあいだ買ったBlu-ray Discプレーヤー、BDP-320の層の切り替えがどんな感じか、確認したかったんですね。ネットの情報で、層の切り替えでフリーズするみたいなのがあって、ほんとかよ、あんたのとこだけじゃないの、そう思って確認してみたんですね。ええ、このディスク、層の切り替えの箇所がわかりやすいんですよ。
層の切り替えのタイミングは、人間を載せた貨車が収容所に到着するところ。はじめて見たときに、え? と思ったくらいに待ちがはいって、それで多分ここで層を切り替えてるんだとわかった。層の切り替えってもっとさりげないものだと思っていた。だから、すごく印象に残っていて、それでBDP-320で層の云々と聞いた時、『ライフ・イズ・ビューティフル』の出番だなと思ったのですね。
見て、やっぱり面白い映画だなと思いました。映画を見るつもりでなかったのに、すっかり見入ってしまいました。画面が大きくなれば印象も変わります。ヒロイン、意外と老けてるなとか、いや、そりゃ最後の収容所の時点の年齢でキャスティングされてるでしょうから、しかたないとは思うんですが、これDVDのアップスキャンでなくって、つまりBlu-ray Discだったりしたら、もっと克明に表現されてしまうんだろうな。残酷。なんて思ったけれど、そういったもろもろも忘れさせてしまうほどに映画は面白く、そして面白さの連続に差し挟まれる不安な出来事。第二次大戦に突入しようというイタリアが舞台。結婚し、子供も生まれ、仕合せであったはずの主人公グイドは家族ごと収容所に送られてしまう。そう、時はすでに戦時下、ナチスの掲げる政策にもとづき、ユダヤ人であるグイドは、殲滅させられる対象とされたというのですね。
収容所での生活は過酷で、けれどグイドは息子を守るべく、これはゲームなんだといいます。基本的にコメディタッチの映画です。だから、現実の過酷をそのままに描いたりはしない。グイドは、息子を、妻を励ますために、無茶の連続だし、いくらなんでもそりゃ無理だろ、なんてことも多い。でも、そう思うたびに、現実に起こったことの苛烈さを一層に感じることになるのですね。男も女も、子供も老人も、たくさん死んだ。助かった人もあったけれど、それは運がよかったんだ。現実に彼、 — グイドのように過酷さに立ち向かおうとした人はあったとしても、圧倒的な現実の力の前に屈服させられただろう。いや、ついには現実感を喪失して、これが夢なのかどうなのか、わからなくなった人も多かったといいます。映画には、そうした過酷さは直接に描かれなかったのだけれど、しかしそれを思わせる瞬間というのは確かにあって、むしろドキュメンタリーのようにしなかったことが、逆説的に現実の無情さを際立たせたと思います。
さて、問題のシーン、層の切り替えですが、やっぱりそこそこ時間かかりまして、まあそんなもんなんだろうなって思いました。今度、PS3買うようなことあったら、そん時にもう一度試してみよう。
けど、この映画見るの辛いのよ。もう、いたましくて見てられない。人の仕合せってなんだろうと思う。今、私は、それはそれなりに問題も抱えているけれど、それでも仕合せなんだと思う。でもさ、それがいつ覆るかわからないじゃん。これは、そういう映画でもあるんだと思うんですよ。そして、仕合せだったけど覆ってしまったような人、あるいは覆ってしまった後に生まれて育ってきた人、つまり仕合せらしい仕合せを得られずにいる人ですね、もうなんてことだろうと思う。人生は無情だ。そう感じずにはおられない。だからこそ、私はこの映画の結末のささやかな仕合せ、それに一抹の安息を得て、けれどそれはグイドの戦いの全面的な勝利ではなかったわけで、そうした苦さには、現実から拭うことのできない過酷さ、そういうものを思ってしまうんですね。
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