2009年7月16日木曜日

大不況には本を読む

 『大不況には本を読む』、ようやく読み終えました。新書なのでもっとさっさと読めてもいいんですけど、合間に雑誌やら漫画やらいろいろはさみながらなので、こんなにも時間をかけてしまって、ええと、買ったのが6月25日。三週もかけてしまいました。さて、『大不況には本を読む』。なんかえらいぶったタイトルだなあと思って、それこそ出版業界最後の悲鳴だろうか、なんてうがったこと考えたりして、当初は黙殺するつもりでいたのです。ところが、著者名見て軽々と反転。おおっと、橋本治じゃないか。買おう。買いました。ええ、私は橋本治が好きなんです。

しかし、実に橋本治らしい本であります。大不況には本を読めとばかりのタイトルなのに、この度の大不況を文学者橋本としてどう見るか、それにほとんど紙数がついやされています。この大不況、アメリカでのサブプライム問題に端を発する不況、そいつを準備したのはどういう状況だったのかが振り返られ、先進国と後進国という枠組みや、工業製品を作って売るという、本来なら後進国に機能が移譲されるようなことを、先進国の仲間入りをしたあとも愚直に続ける日本という国の特異性などが語られたりして、その評価が妥当かどうかは私にはわかりません。けれど、この江戸時代の町民の生活様式から現在にまでいたるまでの日本の状況が、橋本治の視点からざっと概観される、そのまとめに関しては納得のいくものであった、そのように感じて、それはきっと私自身が似たような考え持ってるからだとも思います。身にあわないものは持たない、程々の暮らしを教育された世代の私は、実際のところ、そういう生活は送っていないのだけれど、けれどどこかでブレーキをかけないといけないんだ。そう思っている。だから、橋本治のいうことはわかるんです。ただ、そのブレーキを、私ひとりではなく、皆でかける、その方法がわからないんですね。

わからない。それはしかたがない。けれど、わからないままにしちゃあいかんよなと思う。ただ、知りたいことの答は用意されてないよ。すべての問に答は用意されている、そんな風に思われていた時代はとっくに過ぎ去っちゃったよ。それが橋本治のいわんとすることなのですね。今、この大不況を経験し、なんとかしないといけない、そう思っている私は、そのしないといけないなにかを知るために、自ら考えないといけない。今はそんな時代に入ったというんですね。考えるための材料は、大不況に至るまでの百五十年。ついに壁にぶつかってクラッシュしてしまった、近代という時代そのものだ、橋本治はそういいます。近代を振り返ろう、そのためには本を読むんだ。ただ、本に書かれていることを読むんじゃない。読むべきことは、本に書かれていないこと、行間だ。それは、本を通し自ら考えることだと橋本治はいいます。ええ、考えることを放棄してきた時代があった。その結果が世界的な経済のクラッシュであるのだったら、今のどうにも足踏みしている状況を、立ち止まり振り返るための機会と捉えて、もういっぺん、自分で考えるをやってみたらいいんじゃないか。社会の、世界のなにかについてまでは手がまわらないかも知れないけれど、少くとも、自分自身の身の処しかたくらいは考えてもいい、いや、考えないといけないな、そんなように私も思ってきて、ただそれをやってこなかった、ずるずると先延ばしにしてきた。それじゃいかんなと、あらためて思ったのでした。

わからないことをわかるには、自分で考える。考えるに際し、本を通して来し方を振り返るのもいいでしょう。じゃあ、なんの本を読んだらいいの? なんでもいいんだっていいますね。だから、私は、こういう時に決まって読む本を出してこようと思います。

浮上せよと活字は言う』、橋本治の本、これが私が橋本治を知るきっかけでした。

自分の立っている位置がわからなくなったとき、これからどこへ向かうべきか迷ってしまったとき、[中略]私は本に答えを求めます。そしてその時そばにあってくれればよいと思うのは、橋本治のこの本『浮上せよと活字は言う』。私にとってこの本は、航海士にとっての羅針盤であり渡り鳥にとっての地磁気のごとしです。たとえどんなにあやふやな立ち位置からであっても、自分の本来たどろうとしていた道に帰ることができる、これは本当に貴重な一冊です。

ええ、迷ってしまっている今、またこの本を頼りに、見失ってしまった自分を見付けてみようと思います。それは、つまりは、再び自分のきた道を振り返る、考えるということなのかと思います。

引用

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