『デイドリームネイション』の2巻が出たというので、買ってきました。しかし、すっかり内容を忘れてしまっていましたよ。舞台は高校の漫画研究部。ヒロインはふたり、眼鏡の小岩井、すくすくとした肢体に釘付け荻野。そしてこの漫研には神さまがついていて、沼の神さま? かえるの神さま? この人はやたら美形で、日がな一日漫画を読んで過している。あとは、久遠寺先輩か。とにかく、わけのわからない人。ある意味、kashmirらしさを担保している人。うんうん、だんだん思い出してきました。そして2巻は、彼女彼らがまんが祭り、漫画のイベント、即売会に参加すべく、コピー誌づくりに明け暮れる、そんなシーンから始まります。
けど、なんといったらいいんでしょう。この漫画には妙に郷愁めいたものを感じないではおられない、そんなところがあって、けれど私にはこの漫画に描かれるような、非日常と日常がないまぜに混じり合うような過去はなかったし、あそこまで常軌を逸した知り合いというのもいなかった。なのに、そう思ってしまうのはなんでなんだろう。そもそも、漫研でもなかったというのに。なにか通ずるところがある、そう思われてならないのは、青春の惑いといったものが、とりわけ小岩井あたりから感じられるからなのではないか。そんなことを思っているのです。
青春の惑い、なんだそれはといわれれば、小岩井とラノベ絵師葉子さんの会話などがかなりそんな感じをかもしだしているのですが、小岩井の、自分の未来に対しての希望を持ちつつ、同時に失望している。失敗する可能性を勘定に入れてしゃべっている、けれど実はほのかに期待をしている、そうした揺らぐ様がたまらなくくすぐったくて、そして懐かしいのです。
ええ、私も惑っていたのだと思います。いや、今も惑っているといった方がいい。自分にはどういう可能性があるのだろう、そうしたことを思いながら、捨てきれずにいる思いを引き摺りながら、いつかくる未来なんてないと失望している。けど、もっとものをわかっていなかった昔は、高校生だとかのころは、もっと無謀に将来を夢見ていた。けど同時に無理だなんて思っていたんだよなあ。そうした思いの中で揺れながら、どこにも落ち着くことなく今まで流れてきてしまったのが私なら、もしかしたら小岩井なんかもこれからそうした道を歩むのかも知れない。そうしたことが語られるところに、胸の詰まるような思いがしたのでした。
この漫画に限らないのですが、kashmirという人は根は真面目なのかも知れません。叙情や感傷がいたるところに顔を出す。時に、気恥ずかしくなりそうなほどに、真っ直ぐな気持ちが表現されることがある。けれど、実際に気恥ずかしいからなのか、そうした面に非現実や荒唐無稽に肉薄しようとするかのような表現を上塗りして、流してしまう。それは、いい話を台無しにするという手なのかも知れないけれど、あるいは真正面からいい話をできない、したくないという故なのかも知れないとも思って、けれど、それでも、そうした叙情、感傷、なんでもいいんだけど、伝わってくるんですもの。伝わってくるもの、『デイドリームネイション』2巻においては、心の揺れ動き、希望と失望の間に惑いながらも、ちょこっとずつ現実にその期待を着地させられないか、そんな気になる若人の話であったのかな。そして、もちろん後半に語られた一連のこと、あの心情も切々としてよかったのです。ああ、叙情の人だな、kashmirは。そんなことを思います。
と、ここまで書いて、過去の文章に立ち返ってみれば、なんてこった、『○本の住人』、『百合星人ナオコサン』でも叙情という語を使ってました。まいったな。けど、そのどれもに共通するかのような情緒があり、そしてそれぞれに固有と感じられるようなものもあり。一番強く感じられるもの、それは失われるものに対する強い憧れでありましょうか。もしかすれば、固有であると思えるものも、ベースとなるそうした情緒の変奏であるのかも知れないなどと思っています。
- kashmir『デイドリームネイション』第1巻 (MFコミックス アライブシリーズ) 東京:メディアファクトリー,2007年。
- kashmir『デイドリームネイション』第2巻 (MFコミックス アライブシリーズ) 東京:メディアファクトリー,2009年。
- 以下続刊
0 件のコメント:
コメントを投稿