なんでか知らないけど、『ウッドストック』のDVDを見てます。たまに見たくなるのです、なぜかわからないけれど。『ウッドストック』というのは、1969年、アメリカはニューヨーク郊外にて開催された音楽フェスティバルの名前です。三日間、全米から集まった四十万という想像を絶する聴衆をわかせた、一種伝説的なコンサート。その模様はドキュメンタリー映画としてまとめられて、今ではDVDにもなっている。というか、なんか毎年のように再リリースを繰り返しているみたいですね。現時点で九種類ほどあるようですが、面白いのが再リリースのたびに値段が下がっていってるところ。私が購入した2005年7月時点では千円ちょっとだったのが、もう千円割ってますからね。でもって、収録時間は224分。驚愕のコストパフォーマンスですよ。けど、時間が長けりゃいいってもんじゃない。問題は内容であるわけですが、こちらも申し分のないもので、つまり私がなにかの弾みで『ウッドストック』を見たいなあと思うというのも、この内容の充実があるからなのだというのでしょう。
私がこの映画を見たくなるきっかけというのは、Richie Havens半分、Sly & The Family Stone半分って感じであるのですが、もちろん見始めればこれだけで終わるものではなく、最後の最後までぶっ通しで見てしまうこともしばしば。映画は音楽がメインであるものの、同時にこの音楽フェスティバルを取り巻く状況の記録もメインであり、音楽が社会と連動している、世相やカルチャーと切り離して音楽だけを語ることはできないということが改めて意識されるできとなっていると思うのです。
全盛期アメリカ、物質面での充実が揺るぎない自信を支える根拠となっていた時代。けれど、若者たちは物質ばかりがあふれる社会にどこか物足りなさをも感じ、新たな価値観を模索していた。東洋に可能性を見出そうとしたり、LSD、マリファナ等の薬物で現実逃避的なトリップを楽しんだり、そんな風な世相が、この映画からだけでも見えるような気がします。愛や相互理解を信じ、自由や希望を求める若者の健全な姿が映し出されるその裏面に、その場限りの刹那的な熱狂や陶酔を求めさせる不安が漠然としてある、 — まあこんなこといえるのはその後のアメリカの姿を知っているからなんでしょうけれど、でも実際あの享楽的で美しい若者たちを見ていると、ともに危うさも感じるんですよね。
けれど、それでも彼らはまだ健全なのかな、と思うのは、少なからずそこに希望や理想があるからなんだと思って、いやね、音楽に逃避するのではなく、音楽をカウンターカルチャーとしてどんっと打ち出せるのは、ちょっとうらやましいかもななんて思ったりするものですから。今はそういう時代ではなくて、特に日本ではそんな感じがするんですが、音楽はあくまで音楽であって、政治だとか主張だとか、そういうのは関係ないみたいな態度が今はもう普通になってる。そういう考えもあっていいと思いますし、私自身あんまり政治や主張まみれのアジじみた音楽というのもどうだかなあ、みたいに思う方の人間なんですが、けれどそれにしても音楽はあくまでも音楽というような言い方がされると、音楽というのはもう終わりかなとも思うんです。音楽にあらかじめ枠をはめてしまっていると感じる、可能性を殺してしまっているような気がする。けれど、『ウッドストック』なんかを見てると、そういう枠なんてまったく最初からなくって、むしろかわりに幻想があるといってもいいかもは知れないんですが、でも小さくまとまってしまうんだったら、幻想でちょっといっちゃってるほうがいいんじゃないかな、なんて思います。
そんなこといってる私はというと、そもそも主張らしい主張もない薄弱なたちであるものですから、自分の音楽の方向性すら見付けられずにふらふらとさまようばかりで、だからこそ『ウッドストック』の若者たち、なかんずく音楽家たちにうらやましさを感じるのかと思います。音楽の時代は過ぎちゃったからな、なんてシニカルこというばかりで、なんらその状況に対抗できない不甲斐なさを叱咤したくて『ウッドストック』見る、といったら言い過ぎかも知れないけど、けれど私はやっぱり音楽の可能性を信じたいんだと思います。
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