2007年3月28日水曜日

掃除当番 — 武富健治作品集

 鈴木先生』の武富健治の短編集があるらしいというのを知ったのは『鈴木先生』2巻の帯でだったのですが、あえてこれを探してまで買おうという気にはなれず、縁があればといった程度の緩い感じで記憶にとどめておいたのでした。ですが、先日書店にいったら新刊の棚に発見。見つけた以上、買わないという選択肢はありません。三つ編み、硬そうな少女がこちらを見据える表紙で、この表紙にぐっとくるものがあれば即買いでしょう。けど、このぐっとくるという手応えは、可愛いとか萌えとかそういうのではなくて、なんだろう。その向こうにある精神であるとか、そういう容易には捉えにくいもののように思います。

約十年にわたり書きためられてきたこれら短編を読んで、この武富健治という人は、とことん突き詰めるタイプの人なんだなあと、そういう感想を持ちまして、この印象は『鈴木先生』でも持ったんですが、短編となるとなおさら顕著。人は皆若い頃には大宰にかぶれるものなんだよ、みたいなことを昔はいったそうですが、この人の短編からはそんな匂いがぷんぷんします。『女生徒』? そんな感じがすると思ったら、なんと後書きに著者自らそう書いていた。そんなわけで、私はここに書くことをひとつ失ってしまったのでした。

大宰の持ち味というのは、自虐といってもいいような痛さであったり精神や内面世界の鮮やかな発露にあると私は思っているのですが、この人の漫画には後者、突き詰められた末に凛と引き締まった精神性がよく現れていると、そのように感じます。引き締まったといっても、登場人物がみんな聖人君子だっていいたいわけではなくて、そしてそういう捉えられ方は作者自身望まないものであるでしょう。人間性が露にされる瞬間があるんです。清廉潔白だと思っていた自分が実はそうではなかったと突きつけられた揚げ句に、打った手が裏目に出てしまってなおさらショックみたいな話もあり、あるいは自分自身の心に踏み込んで、自分は本当はどういう人間なのか、本当の自分の望みとはなんだろうか探ろうとするプロセスがつづられて、面白い。スリリングな追体験のできる本というのは稀だと思いますが、この漫画はまさしくその稀なものであると思います。

こうした作風の根本には、周囲や自分自身に感じる違和感を見極めようとあがく、そういう精神活動があると思うのです。違和感の原因はなにか、ひとつひとつ皮をはぐように、虚飾誤魔化しを排除していく。その末につかみ取った真実、 — 自分自身のありようであったり本性であったりを得たという実感が出発点になっていると思われて、だから漫画が揺るぎない。土台がしっかりしている上に、誰のものでもない自分の表現がのっかっている。お定まりやお仕着せという束縛から自由になった作者は、模索という苦闘の果てにこの表現をつかんだのでしょう。だとしたらその苦しんだだろう時間は無駄ではなかったと思うのです。

いかにも売れそうにない漫画です。人によっては、読んでも面白さなんて感じないでしょう(私は以前漱石の『夢十夜』を人に勧めて、時計が二つ目をチーンと打ったとか意味わかんないと突っ返されたことがあります。ショックでした。あんなに面白いのに……)。けどこの漫画が『鈴木先生』の評価されたことによって日の目を見て、私も読むことができて — 、だから双葉社はいい本当に仕事をしたなあと思います。

ここに収録された短編で、私が特に好きだと感じたのは「シャイ子と本の虫」と「まんぼう」、とりわけ「まんぼう」は落ちのくだりが最高でした。地味だけど「カフェで」なんかも最高に面白い。にまにましてしまう感じ。「康子」のような分析は私もかつてしたことがあるし、作者もいっていますがかなり普遍的なテーマが見いだされる作品群であると思います。だから、読んでみれば、誰しもひとつくらいは、これは私にかなり近いと感じられるものが見つかるんじゃないかと思います。

引用

0 件のコメント: