故人の消息を聞くというのは寂しくもあり、悲しくもあり。ですが、忙中閑ありともいうがごとく、寂しさ悲しさの中にも嬉しいと感じる思いもあるものなのですね。以前、何度かこのBlog上でもお話した私の好きな漫画家についてを人づてに知ることができて、今私はそうした、嬉しさをわずかに含んだ悲しさに沈んでいます。私の気性、情緒不安もあるのだと思うのですが、突然涙が出てたまりませんでした。お会いしたこともない方で、ですがディテールが積み重なることで、悲しさはここまで深まるのだと思って、けれどいつまでも悲しがるというのも逆に失礼なのではないかと考え、さいなまれます。
私はそうして涙を流して、その人はすべての命が帰るべき場所に先立っていかれたのだという感じがしてきて、そう思えば人の死はただ悲しむばかりのことではないのかも知れないという気もするのです。いや、それでもやはり死は痛ましく、つらいものにほかならず……、ですが、私もいつかそこへゆきます。私の大切な人たちもみんな、帰るべき場所に帰っていく。その時がしかるべき時であるのかどうかは浅はかな私にはわかりませんが、誰もが逃げることのできないことならば、それはもう受け入れざるを得ない。私たちが生きるということは、来るべき瞬間を受け入れるための準備をするということなのではないかと思ったりします。
今日記事を書くに当たり、そうした気持ちを表すことのできるなにかはないかと考えました。ですが、ふさわしいと思えるものを見つけることはできず、そのかわりというのでもないのですが、『チャーリー・ブラウンなぜなんだい?』を取り上げることにしました。この短い物語は、ともだちがおもい病気にかかったときというサブタイトルからもうかがい知ることができるかと思いますが、病気になった友達にどういう態度で接したらよいか考えさせられるような深みを持っていて、いやしかし、私にはこのタイトルがなにより重く響きます。ライナスが親友のチャーリー・ブラウンに問い掛ける、なぜなんだい、という言葉。いったいどうして、その人がそのような理不尽を抱え込まされなければならないんだという問い掛け。私たちは生きているうちに、いったいどれくらいこのような疑問を持つことでしょう。なぜ、この人が。なぜ、このような目に。なぜ?
理不尽は、人が生み出すものもあれば、人の知を超えたものもあり、そのような目に遭う友人を前にしたとき、私はなぜ以外の言葉を口に上すことができるかどうか。圧倒的現実に打ちひしがれるだけかも知れませんが、それでも励まし力づける言葉を発することができれば、その人の助けになれればどんなにかよいだろうと、そんな思いを巡らせます。
- シュルツ,チャールズ M.『チャーリー・ブラウンなぜなんだい? — ともだちがおもい病気になったとき』細谷亮太訳,東京:岩崎書店,1991年。
- Schulz, Charles M. Why, Charlie Brown, Why ?: A Story About What Happens When a Friend Is Very Ill. New York : Ballantine Books, 2002.
- Schulz, Charles M. Why, Charlie Brown, Why ?. West Sussex : Ravette Publishing, 2005.
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