2006年9月4日月曜日

雨の降る日はそばにいて

 今日は昔のギターに思いがけず出会って、けれど縁がなかったのか私の手に落ちることはありませんでした。ギターの銘柄はHarptone、調べれば1970年代のアメリカのギターです。70年代といえば日本でもアメリカでも生ギターを手にフォークソングを歌うというのが若者の基本スタイルで、それでふと私は『雨の降る日はそばにいて』を思い出したのでした。太刀掛秀子の作、1977年にりぼんにて連載されていた漫画です。これを私は文庫に収録された版で知って、読んだ、そして涙は滂沱と流れて、しかしただ悲しいばかりじゃなくてなんと健やかな終わりを見せたことでしょう。別れは悲しく、ひたすらに悲しく、けれど別れの悲しさの前には出会いの喜びがあったはず。人生は一期一会、すべては縁のままに回っていくものと存じます。

久しぶりに手にして、見過ごせない台詞があったのでちょっと引用。

何って……

単にメガネを……

ぼくはかけててもかけなくてもかわゆくて好きだけど、はずしたらほかのみんなも美人だとみとめると思って

これ、ヒロインの眼鏡をいきなりとろうとした少年の弁解というか、説明の台詞なんですけど、あんまりだ! 眼鏡をはずしたら美人なんじゃなくて、眼鏡をかけてるほうがずっとかわいいじゃんか。実際、ヒロインみちるに関しては、眼鏡をかけてちょっと硬質だったときの方がチャーミングだったと思います。まあ、眼鏡はずしてもかわいいんですが。

閑話休題。でも実際、この眼鏡をいきなりはずそうとした少年、柴ちゃんはみちるに出会えて報われたのかも知れないなと思うのです。彼にとってもこれほどの出会いはきっとなかった。この漫画はあくまでもみちるの視点から描かれたものですが、しかし柴ちゃんの側にも波乱のドラマが大きく波打ったはずだと思うと、しんみりと悲しさを思いながらも幸いのふるような思いもまたするのですね。

私は、自分自身ギターを持って歌を歌っているのですが、実はずっと相棒を探しています。女声。本当は自分で歌えればいいのですが、自分にはどうしてもそうした声を出すことはかなわず、だから私の代わりに歌ってくれる女性を探しているんですが、これがまあ見つからない。これだ、と思う人には声掛けたりしてるのですが、どうにもうまくはいきませんで、けれどこれこそ縁のもの、一期一会なのでしょう。

人生は一期一会の縁にこそその面白さがあるのかも知れないと、そんな風に思います。縁をつかむのも、手放してしまうのもまたその時々。いつ何時あらわれるかわからない縁に躊躇なく手の届くよう、心構えだけはしっかりとしておくべきなのかも知れません。ほんとです。

蛇足

実際、みちるみたいな娘がそばにいたら、人生は確かに違うと思います。と、そういえば太刀掛秀子がりぼんで活躍していた時代、男子大学生が少女漫画を読むのだといって社会問題化したようなことがありました。あれは、この当時の少女漫画の物語る強さが並大抵でなかったということもあろうかと思いますが、その裏面に、みちるのような娘に憧れるというような男子学生のよこしまな思いもあったのではないかと思います。

かわいくて純粋で、なによりいい子で、ちょっと自信のないようなところなんか、君の素晴らしさは僕が知ってる! 僕が、僕が君の支えになるよっ! みたいな世まい言を叫びたくなってしまうじゃありませんか。そうさ。叫びたいね。そうさ。私もたまには叫びたくなるんですよ。

引用

  • 太刀掛秀子「雨の降る日はそばにいて」,『ミルキーウェイ』所収 (東京:集英社,1998年),152頁。

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