私は、こととねの本家でも本やら映画やらに関することを書いています。本当はそれぞれの役割の違いをきっちり打ち出していくべきなんだろうと思うのですが、なかなか難しい相談です。というのも、実は件のカテゴリーとの差異化を図ろうとして失敗しているんです。本当はBlogでは、もっと気楽で読みやすいものを書こうと思っていたんです。あんまりしかめっ面したものばかりというのもつまらないですからね。
けれど、あんまり違ったものにはなりませんでした。向こうには八百字というしばりがあり、こっちはないからだらだら無駄話も書けるという、たったそれだけの違いになってしまっているんですね。
さて、本家八百字エッセイとお試しBlogにはもう一つ違いがあります。それは評点の存在です。
本家では字数に限りがあるため、結構ぼろくそに書いてるみたいに見えることがあって、本当は結構好きなんだけど、その好きということを盛り込めないことがありました。これって結構ジレンマなのです。いいたいことを全部いうには八百字は少なすぎるんですね。なので、盛り込めなかった分は評点に頼もうと思ったのでした。
最初に評点をつけたのは、『バトル・ロワイヤル』でした。よくできてるなとは思ったんですよ。けど文章を書いて見ると、結構酷評してるみたいになってしまったんです。特にラスト近辺の、装置の解除方法がなんの脈略もなく提示されるという唐突の問題解決。あれはないだろうと思った、云々。けれど本当は映画としてはよくできていると思っていたので、それをちゃんと表したかったのです。そして評点を設置したとはすでにお話したとおりです。
『バトル・ロワイヤル』には4をつけるつもりでした。けれどこういう評点をつけるとなれば基準がなければいけない。ちゃんと決めておかないと後で困ることにもなりますからね。だから、評価をする際の目安というものを決めようということになりました。
けれども、映画に求められることは多岐にわたるので大変です。筋や構成がしっかりしていることも当然ながら、映像や音楽の美しさも大切な要素です。ですがこうした点を踏まえて、なお最上の映画に必要なものはなにかと問うたのです。そしてその答えは、いかに映像が語っているか。言葉ではなく、筋立てや設定でもなく、映画の映画たる要素 — 映像が雄弁であるかどうかが、映画の善し悪しを分けると考えたのです。
その評価基準を設ける際、『汚れた血』がよいモデルとなってくれました。この映画は完璧です。ストーリーが、演出が、役者が、舞台が、設定が、音楽が、そして映像が。ドニ・ラヴァンの疾走するシーン、鳴り響く音楽を超えて、なにより映像が鮮烈でした。美しいかといえばそうではない、むしろ野蛮とさえ感じられるあの映像が、観るものを捉えもろともに飛翔するのです。ああ、そんな言葉ではとても足りない。ですが、あの映像は私の持つ言葉すべてを超えてしまっているので、どういおうとしても足りるものではない。なら私も彼同様に走って見せるしかないのでしょうが、私の足はあまりに弱く、現実の地平を蹴って超越の地点に達することはかないません。結局は、あのシーンはあのシーンでもって語るほかないのです。
『汚れた血』は完璧でした。だから評点は5。プラスもマイナスもつかない、揺るぎない5。これを基準とすれば、『バトル・ロワイヤル』に4をつけることはためらわれ、3 — 標準作という評価に留まりました。
もちろん『汚れた血』のほかにも5をつけた映画はあります。ですがもしより微細に点を分けるなら、それらどの映画も『汚れた血』には達しません。肉薄するかと思われて、ですがそれでも『汚れた血』には一歩届かないのです。
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