2004年12月6日月曜日

ポネット

 お母さんが死んでしまった — けれど、ポネットは死を理解するには小さすぎて、現実を受け入れることができずにいるのです。そうしたポネットを思うと、私は切なさに胸の奥がぎゅうと締めつけられるような感じがして、けどこれはきっと私だけじゃないと思います。思い出すだけで涙が出てくるくらいに愛おしい映画で、けれど悲しさや切なさを押し付けくるようなそぶりはまったくなくて、むしろ優しさや暖かさかがしんしんと降るような幸いな世界。寒い冬の日に日だまりを見付けた、ほっと安堵し喜びが胸に満ちてくる。ただ傍らであの子を見守るばかりの私たちからが、あたかも心がきれいに洗い流されたかのように感じられる映画なんですね。

この映画は人の死を扱っていて、ゆえにしめやかで敬虔な雰囲気が支配的です。ただその中で、ポネット一人はその状況に理解を示すことができずにいるわけです。この好対照によって、死の空気は、むしろさらりと描かれているだけだというのに、よりはっきりと際立って、そしてポネットも、まるで色鉛筆で縁取りされたみたいにくっきりとしてくるんです。そのはっきりと表されたポネットの思いの輪郭が、私の心にしっかり跡を残して、まるで他人事でいられない。ポネットの死に対する疑惑を、私自身、ポネット同様に抱くかのように感じられてしょうがないんです。

実際、人の死というのはいつも薮から棒で、突然突きつけられても容易には飲み込めないものなんですね。私もこの春に祖母を亡くしたんですが、養老院でも通夜の席でも、葬儀、焼き場に至っても、果たして生きているという状態から死に移行するということはどういうことなのか、頭にはずっと疑問がこびりついていました。

ええ、私はもう大人ですから、死という事象は理解しているんですよ。けれど理解と腑に落ちるということは違うんです。そして死んだということで、その人の生きていたことはどういうことであったのか、わからなくなるんです。結局私は、仏前にちんまりと座って、心の中祖母に問い掛け続けて、不孝な孫であったことも詫びて、せめてこれからは憂いもなく成仏してくれればよいと、本当に願ったんですね。そうして私は、人は死者とも対話できるのだと、なんとはなしにわかったように思ったのでした。

『ポネット』を見たのは、祖母がまだ元気であった頃で、人の死をリアルには感じず、まるで自分には関係ないように思っていたころで、けれど今になって振り返れば、ポネットの物語は、ほかでもない死者との対話にいたるまでの、心のうちにるる流れてゆく思いのドラマであったのだと思うんですね。ポネットは、亡くなった母親を求めることで、母と対話をしていた。そしてその無言の対話を鏡として、人の心のかたちをうかがったのだと、そういう風に私は思うんですね。

そして、人はそうした思いを、あたかも自分のことのように受け止めることで、死者との対話を追体験する。それがこの映画を見終えて感じられる、清浄さの根拠になっている正体であると思うのです。

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