2007年7月1日日曜日

メガネ×パルフェ!

 サトウナンキがそうなんだと思うんですが、きづきあきらの漫画からはどうにもこうにも分析好きの匂いがしていて、そういうのを分析好きの人間が読むとはまっちゃったりするのかなあ、なんていうのが第一印象。実をいいますと私も結構な分析好きで、面白そうなものを見付けたりすると、これってどういうものなんだろうと分析しはじめるようなところがあります。漫画にしても、映画にしても、ゲームにしても、そして人間にしても、そのものが私に与える印象に始まり、私との関わり、位置づけ、その意図もろもろ、とにかく分析せずにはおられないところがあります。対象が興味深ければ興味深いほど分析欲も強まって、そんなような私ですから、きずきサトウの漫画はこんなにも働き掛けてくるのでしょう。『メガネ×パルフェ!』などは実にそんな感じで、私などはもうあらがえない。ほんと、予備知識なしに読んで、かあー、こいつはいいわと恐ろしく気に入ってしまった漫画です。

『メガネ×パルフェ!』、タイトルだけではちっとも内容が予想できません。内容はというと、通称白衣メガネ部においておこなわれる恋愛実験とその顛末を描いたもの。恋愛実験っていうのは、一種の心理学実験ですね。ちょっと心理学に詳しい方なら御存じでしょう、俗に吊り橋効果などといわれるの。一緒に吊り橋を渡っていると、吊り橋が与える動揺、常よりも高まる心臓の拍動であるとかが、隣にいる彼のために生じているものと心が勘違いして、恋愛ゲージがプラスに傾く、そうした心理的な動きを説明するものでありますが、白衣メガネ部においてはそれを人為的にやっちまおうっていうんです。しかし、これは危険ですよ。ってのはですね、生易しくないんですよ。人間の心理っていうのは想像以上にいい加減で、こういう実験実際にやってみれば一目瞭然なんですが、あっけなく負けます。実験だとわかってやっていても屈服させられます。本当、それくらいの威力があるもんなんですよ。

って、なんで知ってるかというと、私も昔やってみたことがあるから。以前にもちょろっといったことがありますが、私は一時占い師をやっていて、ありがたいことに結構評判よかったのですが、実はその評判を支えていたのは、霊感や第六感といったオカルト的なものではなく、心理学の知識でした。私は大学入って心理学の講座をとって、その面白さに目覚めて、自分でもいろいろ読んでみたりしていたのですが、そうしたらそこにはさっきの吊り橋効果みたいなのがわんさと載っているわけですよ。で、それを自分にも適用してみたことがあって、そうしたらすごいの、効き目が。ものすごい勢いで対象にときめくようになって、こいつは危険だなあと思いました。

これが占い師時代に役立ちました。恋愛成就を願ってくる人に、じゃあこんな風にやってみるといいよなんて、過去の経験から効きそうなものを紹介して、その結果、成立したカップルはひとつやふたつじゃなかったですよ。こと私のクライアントは女性が多かったから、男篭絡するのはたやすいのかもなあなんて思った時期があったくらい。さながら私は昔話の魔女気分でした。

生かじりの私のアドバイスレベルのでもこんなですから、『メガネ×パルフェ!』で究太朗がやったような綿密なのほどこされれば、その威力はいかほどなるか。種々さまざまなもくろみが強烈に作用して、これをはねのけられる人間ってどれだけいるのかなあ、私なら絶対無理でしょう。それくらいに人間の心理は状況に左右されます。けれど、こうしたからくりを知ったことで、生じた心の動きを切り開いて、その発展を止めてしまう人もいるんだということを改めて思ったのもこの漫画でした。

実験とわかっていながらも引かれあう心があれば、自然の、偶然の結果、引かれる心もあって、この漫画ではこうした二種類の恋心が対照されているのですが、この二種類の恋心、一体どっちが本当なんだろうっていうような話。どっちが本当なんだろう、っていうのはですね、自分の情動含めて分析対象にするような人間にとっては、どっちもたいして違わないんです。恋愛の初期において、はたして自分があの人に対して抱いているこの思いはなんなのだろう、恋なのだろうかどうなのか、そういうのを自問自答する段階があると思うのですが、この時、分析的な人間は、それまで二人の間に起こったいろいろをことごとくピックアップして、それぞれが自分の心にどのように働きかけたかを知ろうとするんですね。で、これやると大抵恋心は駄目になります。で、こうして恋心を駄目にしてきたのが究太朗なんだろうなあと思います。

でも、そういうなんでも分析して捉えられるというような考え方は違うんだよと思うんです。結局はそういう考えは、人間ひいては心というものを侮った、傲慢な考えなんだと、すべてを自分の思い通りにしようだなんておこがましいことなんだと、そんな風に思っています。だからこそ、私はよりこの漫画に引かれるものがあったのでしょう。残念ながらこの漫画は、いよいよこれからというところ、ミドルゲームを前にして閉じられます。おそらくは私の一番読みたかった、恋にとらわれ、恋にうろたえる情景がこのミドルゲームにおいて展開されるのだろうなと思うものだから、ちょっと残念。けれど勝者が誰かというのはもうわかっちゃってるようなものなので、いや敗者か。いずれにせよ、この漫画における勝者とは、ヒロインみさおであるんだと思うのですよ。そしてここまでわかれば、後は詰めだけ。自分の胸の中で、その詰めまでの動きを思ってみるのもまたひとつの楽しみだろうと思います。

とはいうけど、読めるものなら読みたかったななんて思うんですけどね。

  • きづきあきら,サトウナンキ『メガネ×パルフェ!』(ガンガンコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2007年。

2007年6月30日土曜日

五日性滅亡シンドローム

 実のところ申しますと、最初この漫画買うつもりはなかったのです。『五日性滅亡シンドローム』。後五日で世界が滅びるという、そういう常軌を逸したシチュエーション。けれどその滅亡というのがどうにも現実味がなくてですね、実際漫画中でもあやふやな噂レベルのものとして描写されているんですが、だったらなんでそんな程度の噂であれだけ右往左往する……? とにかくなんかつかみどころのない、正直なところいいますと、微妙よね。単行本出るとは思ってなかった。出てもきっぱり買う気はなかった。というのになんで買ってしまったのかというと、それはギミックといっていいのかな、漫画自体がというよりも、漫画を取り巻くもろもろも含めて、なんかおさえておいてもいいかなあと思うようなところがあって、半ば衝動的にレジに運んでしまったのでした。

一体なにが私に働き掛けたのかといいますと、口絵だったんですね。まんがタイムKRコミックスでは、冒頭にカラーページが書き下ろされるのが通例となっているのですが、『五日性滅亡シンドローム』はここに漫画をでなく、イラストレーションをおいたのですよ。イラストレーションには状況そして台詞が添えられていて、作者も後書きにていっているのですが、ライトノベルっぽい感じですよね。で、なんでこれで買うつもりになったのかというと、不思議ですよね、なんというかそういうライトノベル的世界観ってのに興味持ったというか、あるいは — 。

小松左京の『日本沈没』の映画リメイクされました。残念ながら私はどちらの映画も見たことはないのですが、以前、ちょっと興味深いレビューを読みまして、それはどんなかといいますと、旧作においては日本国民をいかにして救うことができるかという社会規模での視点があった、そのように主人公は動いていたのに、新作はというとヒロインしか眼中になかったというのですね。日本の国土が失われるという事態に直面して、そうなると日本という国は壊滅だろう、するとそこに住んで暮らしていた私たちはどうなる、脱出がなったとしても、国を失った我々の明日はどうなる、本来『日本沈没』という小説はそういうものをテーマとしていると思っていたんですが、新作映画においてはそういったものは遥か後景に押しやられて、主人公とヒロインの恋愛がクローズアップされるばかり、国家消滅の危機に際してもっとも重要であるのは、国や国民といった約束事ではなく、自分自身の内面にほかならなかったのだ、といった話。

『五日性滅亡シンドローム』は、あるいはライトノベル的とはっていってもいいのかな、その自分自身の内面というのが最大の興味対象であるのだと思います。後五日で世界が滅びる、しかしそういわれてもあまりに希薄なリアリティ。それは当然で、そうした噂に対応しているのは、あくまでも生徒たちに限局されて、まあ多少は周辺のことも描かれるのですが、それは結局は主人公たちが状況を捉えるためのエクスキューズみたいなもの、社会というものを捉えようとする視点がないのにリアリティが生まれるはずもありません。でも、それは最初から求められていないんです。世界が滅びるという噂があって、それを少なくない人が信じています。それだけで充分なのですよ。これだけの約束をベースにして、主人公周辺のもろもろを描ければそれでいい。むしろ、社会状況はどうだこうだいうようなリアリティは邪魔なんだといわんばかりです。

そして、このただでさえ希薄なリアリティはセカンド・シーズンに入ってなお希薄になって、セカンド・シーズンにおける滅亡の根拠なんかも語られるんですが、そうしたの見るかぎり、リアリティのなんのっていうのは端から拒否していることが明らかで、さらにいえば物語ることさえを必要としていません。だからこれはSFでもなければファンタジーでもない。世界は語られるまでもなくあらかじめ失われており、じゃあここにあるのはなにかといえば、主人公周辺の内面のささやかな反響、揺れ動きだけ。故にこれらはセカイ系と呼ばれるのかも、とかなんとか思うところもあったから、ひとつの例として手もとに置こうかなと思ったのでした。

なんかネガティブな文章になったけど、決して嫌いな漫画じゃないですよ。嫌いな漫画だったら、買う買わない以前に黙殺です。けど、おすすめの漫画ではないです。少なくとも、私と同じくらいの年代の人にはすすめられない漫画、っていうのは、私たちの年代っていうのは、まだどこか物語というものを求めているところがあるからで、きっとこの漫画では満足しないと思います。私にしても、これが四コマでなかったら黙殺したろうと思います。

2007年6月29日金曜日

家族ゲーム

日がな半日ゲーム部暮らし』が出てたってんなら、そりゃもちろん『家族ゲーム』も出てまして、ということは、当然買っちゃってるわけです。父一人、母一人、娘二人の遊佐家のほのぼの生活を描いたホームコメディ漫画。ただちょっと違っているのは、家族全員がゲーム大好きだったのです。それも尋常でない好きさで、私らの世代からしたら、こんな家あり得ないって感じなのですが、けれど今の小学生中学生だったら、両親ともにコアなゲーマーというのはあるのかも。でもそれにしても常軌逸してるのは実際で、その突き抜けっぷりが楽しい漫画であったのでした。

でした? うん、過去形でいっちゃっていいと思う。いや、2巻でつまんなくなっちゃったってことではないですよ。相変わらず面白い、けど、面白さの軸が変わったかなって感じで、第1巻時点では前面に出ていたゲームネタが、2巻では後景に退きまして、特筆するまでもない当然の前提となってしまったっていってもいいかなあ、それで今の漫画の中心はといいますと、ずばり人間関係。小学生、中学生に大学生を加えて、ほのかなものからちょっと踏み込んだものまで、恋の花がちらほらと咲かんとしています。こそばゆくなるような芽生えっぽいのがあったかと思うと、届かない思いのちょっと切ないようなのもあって、かと思えば禁断系も出てきて……、ええと、私、禁断系がちょっといいなと思ってます。

禁断っちゃあ、この漫画にて発生している恋愛のベクトル、そのほとんどがアブノーマルよりといったらいえるかもって感じなんですが、ええと表紙めくったら人物相関図があるのでそれを参照しますと、片思いが四つ生じているんですが、そのどれもがちょっとやばい。いや、ひとつを除きさえすれば、それほどクリティカルなものではないんですが、それこそ私の尺度においてはオールオッケーなんですが、けど一般的尺度においてはまずい。 — まずいんですが、そのまずいはずのものがいいってのはどうしたもんでしょう。それも、禁断の度合いが強まれば強まるほどに私は入れ込むようで、そうだ、もっともっとやれ! 特にクリティカルなやつ、追う側の切なさ儚さいじらしさもぐっとくれば、追われる側の葛藤も実にご馳走。ああ、私はもう駄目だ。いや冗談抜きで、こんなにも駄目になっちまったんですよ、おっかさん。まあ、もういいんだけどさ。

なんかこんな書き方すると、恋愛系の漫画みたいですが、ちゃんとそれ以外のネタも展開してますのであしからず。最初にいってたように、ゲーム絡みのネタなどはあまり押し出されなくなったのですが、けれどそれでも一本一本の四コマにかかるネタの流れは丁寧で、見出しまで読みどころ笑いどころになっているのはさすがだなあと思わせるうまさです。「ブリキにタヌキに洗濯機」と下の句読んで、上の句「驚き桃の木山椒の木」を思い起こさせるハイテクニックがあったかと思えば、「40円の価値もない」の醸し出す切なさ、苦さ。面白い見出し、うまい見出しはたくさんあるけれど、私の一番のお気に入りは「12人もいる!!」かなあ。響きで『11人いる!』を彷彿させ、そしてもちろんそれだけじゃないといううまさ。思わずにやりとさせられる、そういう小ネタ含めた展開の妙が鈴城芹の味だと思います。

蛇足

ええと、真言っていってたけど、なんだか由寿が赤丸急上昇中。

  • 鈴城芹『家族ゲーム』(電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。
  • 鈴城芹『家族ゲーム』第2巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2007年。
  • 以下続刊

2007年6月28日木曜日

日がな半日ゲーム部暮らし

 ゲーム好きならきっと共感せずにはいられない『日がな半日ゲーム部暮らし』、熱烈希望していた第2巻が発売されました! わーい、嬉しいな。と、こんなにも喜ぶのは、やっぱりそれだけ好きだからに他なりません。私自身もゲームが好きで、そして漫画に出てくる女の子たちも可愛いし、 — けどそれだけが理由じゃありません。一番の理由は、この漫画に出てくるゲーム好きの彼女らの考えるところ思うところ、そのひとつひとつが、うんうんそうだよそうだよ、とうなずけるくらいに近しく感じられるから。ほんと、他人事じゃないどころの話じゃないんです。ほんと、この子らは私か!? と思ってしまうくらいに思うところが似ていて、というのはやっぱりゲーム好きだから? あるいは作者と私に通ずるところがあるのかも知れないなんて思っています。

似ているところ、通ずるところ、いったいそれはどんなところなんだろうと考えてみたんです。そうしたら、多分、多分ですよ、この漫画の登場人物の持つ憂鬱質、これが私の傾向にすごく同じなんだと思えてですね、普段は変に楽観的で、意志薄弱に目先の楽しさにとらわれて、面白そうにやっているというのに、ちょっと立ち止まって考えてみたりしたらですよ、気鬱な部分がだーって出てくるんですよ。だってね、たかがゲームで自分の死ぬときのこととか、死んだ後のこととか、考えますか? 死ぬまでにどれだけ遊べるかなあとか、好きなゲームが死んだ後に出るのは悔しいなあ、なんで人は死を避けられないんだろうとか。いや、もしかしたら普通の人も考えるのかも知れない。少なくとも、このBlogを読んでくれているような方なら考えそうな気がする。

……私は考えちゃうんですよ。ゲームに限らないけど、漫画とかでも一緒なんだけど、死んだら続きが読めないなとか、死んだ後にも面白い漫画は出るんだろうなとか。ゲームは今はがっつり取り組むだけの時間がとれないから、もうあきらめちゃってるっぽい。買うだけ買って遊べてないゲーム、クリアしてないのなら山ほど、プレイしてないのも結構、封を切ってないのさえたくさんあって、そういうの見ると、すごく絶望的な気分になっちゃう。たぶん、この私の憂鬱な気持ちは、ゲーム部新部長であるみひろも感じたりしてるんだろうなと思う。彼女の言動の端々には、私のものと同様のメランコリーがあって、だからか、すごく引かれてしまうんです。

でも、みひろに比べると私の方がよりひどいとは思う。てのは、みひろのいうのは、死んだ後は出ないで欲しい…くらいなもんだけど、私となると私の死ぬのにあわせて世界も一緒に滅びたらいいのに…ってなもので、ここまでくるとわがままなんてもんじゃない。もう、めちゃくちゃ。けど、こんな思い詰めたようなこというのは、やっぱりそれだけこの世界を愛しちゃってるからなんだと思うんです。ゲームにせよ漫画にせよを仲立ちに、私もみひろも、そしてもしかしたらこの漫画の作者である祥人も、この世界をいとおしくいとおしく、ただひたすらいとおしく感じているんだろうなと思うのです。

えらい大げさな話になったな。なので、ここから小ネタ。

新入生あっきー、なんか妙に余裕のない娘ではらはらするんだけど、その余裕のなさ含めて、えらい可愛いと思ってしまって、なんていうんだろう、やっぱ他人事じゃないですよ。すごい、自分っぽい。人にどう思われるだろうって考えすぎてあたふたして、けどサービスにせよなんにせよ、とことんまでやっちまわないと気が済まなくて、けどそうした態度は人を引かせるのに充分だということも承知しているから、その狭間で右往左往していて、うわ、ほんとに私みたい! いや、ほんと、なにごとにおいても限度があるってことはよくよくわかってるんですが、とまんないんですってば。こと好きなこととなると、ね、ありますよねそういうこと? ほら、好きな漫画のこと話しはじめて、脇道それつつめちゃくちゃ長文書いちゃうみたいな? わかってるんです。わかってるんですけど書かずにはおられない……。ああ、私はあっきーに自分自身の影を見てしまいます。

みひろにせよあっきーにせよ、好きなものを前にすると、どうにも自制が効かなくなるタイプの娘たちが、基本的にはのんびりとマイペースに、けどときおりにテンパって見せたりして、けどそんな彼女たちのそばには、よくそのキャラクターをわかってくれている友達がいるから安心できて、みひろにはかーはら、あっきーにはユウがいて、なんかこういう関係があるのはうらやましい。友情が、あんまり暑苦しくなく、落ち着いてそこにそっとしている感じ。多分、この先もこの子らはなにかと仲良くやってくのかなって感じがあって、そしてその感じに自分も立ち会えているような気になるから、なおさら好きになるのかも知れません。

以上、書きたいことはまだまだあるけど、いくらなんでも常軌を逸しはじめているので、ここらでとめます。ただあと一点だけ。

あっきーの褒め方の話、あれは私の書く文章を読み解くうえで、重要な示唆を含んでいます。まったく同じじゃないけど、私の文章にもやっぱそういう感じのパターンがあって、 — いったいどういうことか知りたい方は『日がな半日ゲーム部暮らし』を読んでみてください。ゲームとか好きじゃないとはまりきれないかも知れないし、ゲーム好きでも気質が違えばあわないかも知れませんけど、意外にゲーム以外の趣味の人にも共通するところはありそうで、そういうところは面白いんじゃないかと思います。

引用

2007年6月27日水曜日

ひろなex.

 本日発売の「まんがタイムKRコミックス」はすかの『ひろなex.』。『まんがタイムきららMAX』に連載中のこの漫画、始まったときにはどう反応したものかちょっと迷った、そんな印象が記憶に残っています。主人公は中村広菜、中学生。ある日見たテレビ番組に触発されて中村探検隊を結成! けど探検するどころか、なんとなくずれた日常を送って、なんとなく楽しげに、なんとなくほのぼのとやっている。このなんとなくという感じが『ひろなex.』という漫画のらしさだと思うんですが、力の抜けた穏やかで自堕落な日常の面白さというか、ちょっと間の抜けてピントのずれた行動言動のおかしさ、楽しさ、可愛さを、なんとなく楽しむみたいな漫画だと思っています。

登場人物、メインは中村探検隊の面々。ひろなの幼なじみにしてしっかり者、いわばつっこみ役の樋川美緒、この人が隊員1号。2号は下級生でひろなに負けず劣らずのおとぼけ娘、いつもにこにことマイペースの山本風優夏。そして3号がひろなの兄貴に恋しちゃってるちょっとクールで、けど実は寂しがりや? 沢木めぐみ。この四人が好き勝手にやってるんですが、基本的にみんなマイペースだから、特にひろなと風優夏の二人がひどいから、それこそ大阪だらけの『あずまんが大王』みたいになってます。実際こうしたタイプの漫画をなんでもかんでも『あずまんが大王』の系みたいにいうのはどうかなあと思っている私ですが、それでもこの漫画からは『あずまんが大王』に感じた穏やかな面白さに似たものが感じられると思います。

けど、ちょっと違うといえば、より微妙なところをつくマニアっぽさかなあ、というか、このところきらら系列誌では、ちょっと時代がかってマニアックなネタをどこかに含めるというのがブームというか、まあ読者が喜んじゃうからでしょうけれど、この漫画にもそういうのがやっぱりちょこちょこっとありましてね、ひろながなんとなく遊び出してしまったゲーム、ハードが3DOだったり、あと試験勉強中の逃避で遊んでたのがバーチャルボーイだったり、よくもこうマニアックなものを出してくるよなと思ってたら、後にはアタリ・ジャガーやらリンクスやら、その存在くらいは知ってるけれど、詳細となるとまったくもって知りません級の懐かしものが登場。けど、このあたりは本筋ではなくてあくまでもおまけ、知らなくったって楽しめます。

キャラクターの可愛さや絵の持つ雰囲気が支配的な漫画なので、明示的な落ちやなにかがないと我慢できないタイプの人は避けるべきでしょう。けれど、投げっぱなしで回収されないネタが織り成す緩急そしてゆるい落ちは、はまればかなり面白く、読み出すととまらない感じ。手近にあればなんとなく読んでしまうといった、そんなやんわりとした魅力のある漫画です。

漫画の雰囲気を知りたいなら、まんがタイムきららWebにて連載されている『だめ×スパイラル』が参考になると思います。漫画としての味わいはちょっと違うけれど、ベースとなる雰囲気は通ずるものがありますよ。

蛇足

考えたこともなかった……。み、美緒かなあ。

  • すか『ひろなex.』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年6月26日火曜日

ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド

  内容も知らず買ってみて、これはあたりだったと大いに喜んだ『ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド』。本日、第3巻が出ているのを見付けたので、当然のごとく買ったのですが、いやそしたら参りました。面白いんですよ。第1巻第2巻の時点でもかなりきてると思いましたが、第3巻はそれ以上かも知れません。本当、第2巻までは状況説明及びプロローグだったのか? と思えるくらいに、ドラマが動いてる。いうならば、これまでに語られたいろいろ、設定までを含めたもろもろに肉がつきはじめたといった様子。しかしこの第3巻時点ではまだ端緒を開いたに過ぎんのでしょう。いまだ踏み込まれずほのめかされるばかりの核心に、この先の盛り上がりのほどを予感して、けれど焦って先を知りたくはない。この今のスリルを味わっていたいと思わせる充実が魅惑的です。

しかし、本当に思った以上でした。主要登場人物はヴァンパイアにワーウルフといったこの世ならぬものたちであり、実際劇中においても尋常ならざる超越したものとして描かれているというのに、それがこんなにも揺れ動きやすい心に戸惑いを見せるなんて思いもしませんでした。正直、見誤ってたと思います。主人公はヴァンパイアの王ミナに忠誠を誓うアキラ少年。いまだ未熟で発展途上にある彼が揺れ動くのならわからんでもないところが、永遠を生きる不死のものたちも同じく揺れ、よすがを求めさまようかと思えば、執着の果てに心を散らしていく。その描写が妙に生々しくて、ああこれら性状はヴァンパイアという不死者ゆえの空しさ、悲しさに起因するものとして描かれてはいるけれど、その根底にある遊離感、虚無感は、今現在を生きる我々にしても変わりないという思いを私はどうしてもぬぐい去ることができず、だからミナ姫殿下をはじめとする永遠でありながら刹那でもある彼らに共感を感じずにはおられないのです。

こうした共感は、超越者の中の超越者であるミナ姫殿下のキャラクターの打ち出し方がゆえかもしれません。ミナはヴァンパイアの王であるゆえに、ヴァンパイアたちの中にあっては毅然として孤高であり続けなければならない宿命を背負っており、しかしならば彼女の揺れる心はどこに漂着するというのか — 。ここに、アキラであり由紀の存在が映えてきます。有限である人間ごときにヴァンパイアが思いをかけることなどあるのかという根底の疑問を、彼らがヴァンパイアでないということをもって鮮やかにクリアして、この異質なものたちの間に対等あるいは特別な関係もなりたつのだと納得させてしまった。そしてこの関係が前提にあるからこそ、物語の主軸に陰謀を巡るきな臭い攻防戦を展開しながら、その側面に学園における友情や恋愛といったセンチメンタルなドラマを描くことができるのでしょう。これら地続きにして対照的なエピソードは、互いに互いを補強して、クライマックスを支えさらに押し上げる力ともなれば、ひとつの山を越えて訪れる決着にとうとうとした安らかさを与えるよりどころともなって、この漫画をかたちづくるための要素として不可欠にして不可分のものとなっています。そしてあるいは、ちょっと切なくてやり切れない、けれど決して軽く流されたりはしない、死や別れをともなうエピソードに多少の救いめいたもの — 私たちが痛ましさをもって受け止めるためのよすがともなってくれるのだと思います。

蛇足

単行本巻末に収録される「ダンス with the ヴァンパイアメイド」は、わりかしシリアス強めでときに殺伐とした展開も見せる本編のすさまじさを埋め合わせるかのようにほのぼのとして、これ読むとなんだかほっとしますよ。まったく本編に関係しない話でもないからなおさら。こうしたちょっとした遊びが後味を整えてくれるところ、私はすごく気に入っています。、百歩譲ってもあれはダブルリーチどまりだと思いますよ、私は!

蛇足2

腐女子は多神教。実にこれ、神表現だと思います。

引用

2007年6月25日月曜日

Morning sun, taken with GR DIGITAL

Latticed window毎月恒例のGR BLOGトラックバック企画が今月も巡ってきました。六月度のお題は。窓といいますと、ストレートに建物等の壁に開いた窓を撮ってもいいし、またなにかを窓に見立るのもひとつの手かも知れない、などと思いながら、結局私はいつものごとく、窓というと即物的に窓しか思いつかないんですね。下手な考え休むに似たりといいますが、私の場合まさにそれ、考えて工夫してみても仕方ないんだから、もうなにがなんでもストレートにやっつけるのが一番なんだと思います。というわけで、今月も懲りずにトラックバック企画『窓』に参加いたします。

私が窓を撮るとなれば、外側から撮るというよりも、うちから撮ることの方が多いようで、これまで撮られた窓絡みの写真は外をうかがうものでありました。一番多いのが車窓。電車の窓から撮られた写真、バスからというのもまれにありますが、とりわけ窓を意識せずにいる私にとって、もっともかかわり深い窓とは車窓であるような気がします。そういえば、写真をはじめたいと思ったのも、電車の窓から見える風景がなんだか美しいなと思ったからでした。

でも、選んだ写真は車窓ではなく、でもちょっと電車絡み。駅の連絡橋、東に面する窓から差し込む朝日がやけにまぶしかったものだから、階段降りざまに撮った。これがその写真。なんてこともない変な写真ですが、結構気に入ってるみたいな一枚です。

Morning sun

2007年6月24日日曜日

バーコードファイター

  絶版書籍、廃盤商品の復刊復刻を実現させたい! といった思いを抱いたことがあるという人は少なくないと思うんですが、そんな時に力になってくれるのが、いわずと知れたたのみこむ、そして復刊ドットコムであります。本が好きという人なら一度や二度くらいはかかわり合いになったことがあるんじゃないかと思うんですが、思い出の本、漫画をもう一度読みたい。絶版になってるレコードをもう一度手にしたいなど、これらサイトを通じて、そうした欲求を満足させた人も多いと思います。そして私もそうしたうちの一人でありまして、復刊なった書籍を手にしたこともあらば、リリースされる日などこないと思われたアニメのDVD化など、その恩恵にあずかること一度や二度ではありません。こうした経験を持つ人は、これらサイトにひとかたならぬ恩を感じたりしているんじゃないかと思います。けど、私は恩を感じながらも、これらサイトにはあまり立ち寄らないようにしています。というのもですね、魅力的なものが多すぎるんですよ。ああ、懐かしい、また読みたいねと思うようなリクエストを見付けたら、思わず投票してしまいますわね。で、実現した暁には買うわけですよ。また、すでに復刊したものも危険で、ええ、買っちゃうんですね。そうなんです。『バーコードファイター』もそんないつものパターンで購入にいたったもののひとつです。

『バーコードファイター』は、懐かしの玩具バーコードバトラーにタイアップするかたちでコロコロコミック誌上で連載された漫画であります(ミニ四駆漫画とかありましたよね、あんな感じです)。けど、なんで私がこの漫画に興味を示すというんでしょう。そもそも私はバーコードバトラー世代ではないし、それにコロコロコミックを購読していたわけでもない。それ以前の問題としてこの漫画が連載されていた頃って私はすでに高校生、コロコロやボンボンといった小学生対象の漫画雑誌を読むというのは、さすがにありませんでした。なのに、なぜ買ったというんでしょう。

一部有名な話なんですが『バーコードファイター』にはちょっとした逸話があるんです。それはなにかといいますと、ヒロインが男というものなんですが、そう、ブッキング版表紙にばーんっとクローズアップされた黒髪赤ボディスーツの女の子が実は男の子。この事実でもって『バーコードファイター』はバーコードバトラー世代以外にも訴える漫画となっているのです。いや、これ半分本当、というか半分以上本当だと思うんだけど、どうでしょう……。

漫画の基本は、バーコードによりパラメータが決まるというバーコードバトラーの設定を踏襲した、ロボットアクションものです。仮想的にロボットに乗り込んで対戦するという、現実のおもちゃを媒介として、子供たちの想像の中でのごっこを大きく膨らませて見せた漫画です。そういえば『プラモ狂四郎』なんかもそんな感じでしたけど、こと少年向けの漫画においてはこうした形式がよくよく使われるようですね。

以上のような関係で、当初には現実の玩具バーコードバトラーにまつわるTipsも多く掲載されていて、どういうバーコードが強いのか、見分け方などがヒロインさくらによって解説されたりしまして、なんでなんでしょうね、こういう解説があるとふんふんと素直に読んでしまったりして、バーコードバトラーもないのに? そもそもバーコードバトラー目当てで買ったわけでもないのに? いや、しゃあないんですよ。攻略情報があると、攻略対象がなくても読んでしまうのは、すべての少年だった人のさがであるんです(本当?)。でも、こういった攻略情報は徐々に背後に押しやられていって、かわりに現れてくるのは世界人類を洗脳し支配下に置こうという敵であったりしまして、こういうのもまた少年向け漫画の王道ですかね。ファミコンものの漫画でも、ファミコンで世界を征服するんだ(どうやって?)っていう組織が出てきたりする。こういう、大風呂敷といえば大風呂敷、雄大というか誇大というか、そういう展開を臆面もなくやれるのは少年漫画のいいところなんじゃないかと思います。いやね、読んでみると結構面白いですよ。リアリティとかなんだとか、こざかしいごちゃごちゃを捨て去ってしまえば、漫画の持つ荒唐無稽の面白さがダイレクトに伝わってくるようで、正直こういう読み方を私が今またするとは、自分自身意外でありました。

以上。これからは余談ですので、読む必要はございません。

で、お目当ての女装少年であるわけですが、有栖川さくら、いくらお目当てといっても、ヒロインが男というだけで漫画を買うほど私も酔狂ではありません。じゃあなんで買ったのかというと、それはこの作者にあります。小野敏洋という人は別の名前でも活動されていて、その名は上連雀三平、ある方面で非常な高名を博している漫画家です。ある方面というのはエロ漫画なんですけどね、なんというか独特のジャンルを形成している人で、まあなんというか、女装少年とかがオンパレードな作風なんです。で、恐ろしいことに私その一冊を持っているのです。

昔、図書館勤めしていた時に、新刊の発売日を案内する冊子なんかを貰えたんですが、そいつを頭っから最後まで読むのを月一の楽しみにしていたんですが、そうしたら成年向けってタイトルが振るっているのが多くてですね、同時多発テロが問題になった時期に『同時多発エロ』なんてのがあったりして(Amazonで調べたら2冊も出てきた! 1冊目2冊目)、最低だ、その上不謹慎、よくもまあこんなタイトルを思いついたもんだみたいなのがとにかくずらずらと並んでいるのが圧巻。それで友人と一緒に、その月に出るものの中で一番馬鹿なタイトルを選出して遊んでいたんです。その時に出会ったのが先ほどの上連雀作品、もちろん馬鹿タイトル of the Month、内容がわかんないよって、いったいどんななんだって、タイトルだけでこちらの理解の範疇を超えていますからね、もうダントツでありましたよ。

悪いことにですね、当時利用していた書店に、この漫画が置いてあったんですよ。で、買っちゃったわけですよ、それで私は内容のあまりの飛びっぷりにノックダウンされて、それで件の友人にこれを見せて、欲しかったあげるよといったら、その人もノックダウンされたようで、いらないです — 、以上のような経緯で私のうちに上連雀作品があったというわけでした。

話に聞きますと、『バーコードファイター』の有栖川さくらがこれら作品にも出ているんだそうですね。なので、引っ張り出してきて確認してみました。わお、先生やってるんだ。ええ、確かに関わっていました。この一点を確認できただけでも満足です。

蛇足

久しぶりに見た上連雀作品、恐ろしいことに、以前ほどに異常さを感じなくなっていて、というかむしろ感動作? 知らないうちに私の受容の幅は広がっている模様です。確かに、『バーコードファイター』読んで、ヒロインが男ということを知ったうえで最後まで読んで、それでもやっぱりヒロインは可愛いわけで、実際現実問題として、こうした人が身近にあったとしても普通に受容するだろうなと思ってたりするから、まあ確かに私は受け入れ幅が広がっているんでしょう。いい傾向? だと思います。

2007年6月23日土曜日

『フルハウス』サード・シーズン

 買うだけは買ったんだけど見るにいたらなかった『フルハウス』のサード・シーズン。もちろん見れば面白いことはわかってるんです。けど、見始めるとこれ一色になってしまうのがわかってるからか、あるいはこの発売された時期、たまたま忙しかったのかも、見ないでいたらフォース・シーズンが出てしまった。けど、もうじきフィフスがうちに届くはず。だからというわけでもないんですけど、ようやっとサード・シーズンを見始めて、いや、やっぱり面白いわ。思い起こせば、私が『フルハウス』を見始めたのはセカンド・シーズンで、決定的にはまったのはサード・シーズンだったように思います。あのハワイロケの回。あの回からビデオに録りはじめたんでしたっけね。いや、懐かしい話です。どうでもいい話でもあるんですが、まあ私にとっては重要な話であったのでした。

サード・シーズンは1枚目を見て、今2枚目を見ている途中。人によって意見は違うとは思いますが、私にとっては一番『フルハウス』らしい時期と感じます。D.J.は中学に上がって、妹(ステファニー)とは違うんだと背伸びして、ステファニーは子供らしい無邪気さにこましゃくれた物言いを装備して、強烈に可愛かった。ミシェルは赤ん坊から子供になろうという時期、いろいろしゃべるそれが可愛いは、面白いは。けどこのドラマの面白さは、子供たちだけではないね。子供も大人も、それぞれがそれぞれの個性をもって楽しませてくれる。毎回毎回、なんらかのテーマをもって話は展開されるけれど、その内容も子供の子供らしい話があったかと思えば、大人の結構シリアスなものもあって、それらがバランスよく配合されているから、大人が見ても見ごたえがある。子供だましじゃないというのが大きいんだと思うのですね。子供も大人も、問題に直面し悩んでいる時の大変さは一緒。そして悩みに取り組み解決しようというその態度が真摯だから、見ているこちらもほだされる、共感するんだと思います。

サード・シーズン、ジョーイのコメディアンの話がなんだか他人事じゃない感じで、見てて面白かったし、結構じんとさせられて、若い頃の夢を思い出して、今自分はなにをやってるんだろうと悩んで、落ち込んで、けど夢は捨てられないって話なんですが、この回をはじめて見た時、もう十年以上も前なんじゃないかと思いますが、その時私は一体どういう思いで見たんだろう、ってもうちっとも思い出せないんですが、けどこうして若い頃、年いってから、そしておそらくはこれから先も、その時々の私が、その時々の思いで見るのだろうと思うと、改めて『フルハウス』の幅の広さがわかるように思います。今はまだ、将来の私が思うことはわからないけれど、きっと胸にこたえる言葉、シーンがある、そんな風に思えるドラマです。

ところで、続きを見てたら、ステフが地震を怖れる話があるんですが、これ、1989年のサンフランシスコ地震ですよね。PTSDってやつだと思う。はじめてみた時はピンとこなかったけれど、こんな風に当時の状況みたいのがわかれば、より深く理解できることもあるかも。あるいは、私も神戸の地震を経験したから、ある程度のリアルさを持って感じられる部分もあったのかも知れません。

2007年6月22日金曜日

危険がウォーキング

突然なんの脈絡もなく思い出してしまった、星里もちるの『危険がウォーキング』。これ、高校生の頃、部活の先輩から借りて読んだのですが、特異体質の女の子がヒロイン、ちょっと微妙な感じかもは知れないんですが、面白かったなあっていうのを覚えています。この当時にはまだ萌えなんて概念はなかったんですが、ヒロインたちが可愛くてですね、正ヒロインの爆発体質の女の子も快活な感じで可愛いんですが、サブヒロインの対人苦手の眼鏡娘がべらぼうに可愛かったんです。人前に顔を出すのがいやだからだったかな、不自然に曇った眼鏡、放送室に立てこもったんじゃなかったかなあ。そこに男の子が、ウサギだったかの着ぐるみきて突入して、あのシーンは本当屈指だったと思う。登場人物の名前、誰一人として思い出せないくらいに過去に押し流された漫画だというのに、あの放送室立てこもりの話、そして卒業式! いい漫画でした。機会があったらまた読みたいけど、知らないうちに出てた復刊、これもう買えないんじゃないかなあ。古本でもいいから探そうかなあ、なんて思います。

で、なんで思い出したか。波長なのですよ、波長。この本借りて、読んで、面白いなあと思って、ありがとうございました、返却したらですね、自分の好きなキャラクターは誰かわかるかいなんて問われましてね、自分っていうのはこの漫画貸してくれた先輩ですよ、で、私は即答ですよ。眼鏡の人見知りの女の子でしょう(もちろん当時は名前で答えましたさ)。そしたらドンピシャ。一瞬ひるんだのがわかりました。お前よくわかったなあ、なんでわかった、なんて聞かれたものですから、私はここで、波長が同じなんですよ、と答えたんです。

そしたら、え、俺波長が同じか、そんなこと思ったことないがなあ、なんてゆわはって、先輩はその女の子と同じ波長と思っちゃったもんですから、今更なんとも訂正できなくて、そうそうなんて適当に話し合わせちゃったんですが、今さらながら白状しますと、あの時波長が同じといったのは、その眼鏡の娘とではなくて私とです、先輩。そう、私もあの眼鏡の娘が一等好きだったんです。これが今なら萌えだとでもいうのでしょうか。けれどあの感じは、萌えの一言でくくれる感じじゃなかった。とにかくなんか他人事じゃない感じで、それにすごく可愛いと感じたものでした。懐かしい。また読みたいなあ。

もし今読んだらどう思うんだろう、なんて思います。幻滅するなんてことはまずないとして、けどちょっと昔風と思ったりするのでしょうか。そしておそらくはあの頃とはまた違った感想をもって、また違った面白さや共感を得て、 — けれどあの最終回で同じように感動するんだろう — 、と思います。壮大な爆発落ち。そしてその後のあのシーン。流れる歌は中島みゆきの『時代』でした。あの時、私はなんだか本当に自分の友人を卒業式に送るような気分になったのです。

  • 星里もちる『危険がウォーキング』第1巻 (少年キャプテンコミックス) 東京:徳間書店,1987年。
  • 星里もちる『危険がウォーキング』第2巻 (少年キャプテンコミックス) 東京:徳間書店,1988年。
  • 星里もちる『危険がウォーキング』第3巻 (少年キャプテンコミックス) 東京:徳間書店,1988年。
  • 星里もちる『危険がウォーキング』第4巻 (少年キャプテンコミックス) 東京:徳間書店,1989年。

2007年6月21日木曜日

Hôtel Normandy

 先日、ちょっといってましたように、母が旅立ちまして、目的地はフランス。ああ、こんなにうらやましい話はないよっていうんです。いいなあ、フランス。だって私は、第一外国語はフランス語と公言しているような人間で、つまりはかなりの親仏派。イギリスも好きだしイタリアも好きだけど、こと言語に関してはフランスが一番性に合っている — 、まあ慣れてるってだけかも知れませんが、学習における意気込み、関わってきた時間の量、そして使用頻度、どれをとってもフランス語が筆頭であることは間違いありません。けど、なにが悲しいといっても、私はフランスにいったことないんですよね。フランスどころかフランス語圏さえない。だから、なおさらうらやましくってならんのです。あああ、いいなあフランス。

母のフランス旅行、立ち寄る先はパリと、そしてノルマンディです。ノルマンディというと、史上最大の作戦で有名な土地でありますが、まあ一口にいうにはあまりに広い土地です。フランスの北部、蕎麦粉のクレープであるガレットと林檎の酒、シードルやカルヴァドスが名物で、ケルトの文化が色濃く残る地 — 、と思っていたら、おいおいそりゃブルターニュだよ。全然違うって。正直ショックでした。フランス語を習っていた時には、ただ言葉を学ぶだけでなく、土地や風物、文化もあわせて学ぶものですが、そんときに得た知識というのは、悲しいほどに揮発してしまっているのですね。恐ろしいことです。今やノルマンディというと、第二次大戦で英米仏連合軍が上陸した土地であるとか海に囲まれて堂々とたつ修道院モン・サン=ミシェルくらいしか思い出せなくて、そしてもうひとつ、パトリシア・カースの『ホテル・ノルマンディ』。この歌は、私がフランス語を本腰いれて学びはじめた時期に耳にした曲。あまりに魅力的であったので、CDを買ってしまった。それくらいに印象深く、好きな歌だったんです。

はじめて耳にしたのは、NHKのラジオフランス語講座。杉山利恵子先生の入門編で紹介されたのを聞いたのですが、あの頃、ラジオやテレビからもたらされるフランスのいろいろはすごくきらきらとしていたっけなあ。言葉にしても、風物にしても、発見の連続というか、知識欲を掻き立てる、そういう魅力にあふれていまして、だから出会う音楽にしても耳に新しく、新鮮であったのでした。

パトリシア・カースの歌う『ホテル・ノルマンディ』は、フランスの歌といえば(狭い意味での)シャンソンとしか思っていなかった私にすごく強い印象を残して、それは陰鬱な響き、シリアスな歌声、圧倒的な存在感。歌の持つハードでソリッドな空気のためだったのだろうと思います。少なくともこの曲は、私にとってのフランスの印象を塗り替えました。フランスといえば、エスプリとかコケットとか、そういうのを思いがちだった私に、より広いフランス曲の地平を見せてくれた。もちろんこの歌一曲だけがそれだけの役割を担ったとはいえないのですが、けれどそれほどに印象に残っている歌であるのは確かなのです。

2007年6月20日水曜日

眠れる惑星

  ある朝目を覚ますと、世界は眠りに落ちていた。眠れる惑星に一人残された少年永井淳平は、この異常な世界をいかに生き抜いていくのか。というのが『眠れる惑星』の骨子だと思っていたのですが、どうも見どころは他にこそあったんではないかというのが3巻を読んでの感想です。というのはね、思ったよりもシリアスな雰囲気で進行していきそうな気配を見せていまして、2巻あたりだと、セックスをすることで眠っている女性を目覚めさせる能力をもつがゆえに、女性たちからちやほやされる淳平の純情恋愛もの、一人の女性に愛を貫くことができるのか? みたいな話が主体と読めたのですが、3巻ではむしろ異常事態下における人間の行動がクローズアップされています。そう、尾美の戦略とその破綻がいよいよ表に出て、対立しこじれる人間模様があらわになってきましたよ。

私は第3巻を読みながら、ずっとリスクマネジメントみたいなことを考えていたのですが、それも特に起こってしまったことに対する対処に関していろいろと思っていたのですが、どういうことかといいますと、社に損害を与えかねないトラブルが発生した時、それにどう対処するのがよいのかというようなことを想像してくださるとわかりやすいんじゃないかと思います。隠蔽して秘密裏に対処するのがよいか、積極的に情報を開示するのがよいか。大きく分ければ二種類のやり方があると思うのですが、果たしてどちらが良い結果を生むでしょう。 — 大抵の人は後者と答えるのではないかと思います。数年前から、リコール隠しや賞味期限切れ食品の再利用等、情報を秘匿するような手法をとったためにより事態を悪化させたケースを私たちはたくさん見てきました。対してトラブルに関する情報を広く公開し、お詫びと周知に努める態度を見せるなど、従来ならば不利益を生じさせかねないとして忌避されてきたこうしたやり方を徹底することで、逆にイメージ戦略として成功したようなケースもありましたっけ。

こうした事例を見てきて、そしていざ『眠れる惑星』を読んだならば、尾美の失敗がわかるのではないかと思うのです。尾美が当初成功を見たのは、周囲に自分の理解者を置いていたから。すなわち、情報を秘匿しがちな態度を見せても、その上で信頼を得られるような状態にあったから。しかし、さまざまな考えを持つ個人を目覚めさせたのが彼女の失敗だったのだなと思います。あるいはより適切に言い換えるならば、自ら変えた状況に対し適切な戦略を選択しそこねたのが失敗だったと思います。尾美は自分自身を評して傲慢と批判しますが、そういう判断をすることがすでに傲慢なのだと思います。おそらく彼女においては、傲慢であったことではなく、怠惰であったこと、臆病であったことの方がより深刻であるはずです。彼女の自身を守るための手段であるはずの沈黙は、いたずらに周囲の不安を煽り、疑心暗鬼を生じさせることで自身を傷つけてしまう。おそらく彼女はこれから先も失敗し続けることでしょう。そしてその失敗が事態の核心に踏み込ませる一歩になるのではないかと予想しています。

『眠れる惑星』はSFやファンタジーというにはあまりにライトであるのですが、けれどそれでも群集の心理の動揺を押し出してくるあたりに、作者のSF者の素養が感じられるようで、読んでいて結構スリリングです。まただんだんと破滅的な匂いもしてきて、かりそめの平和の破られる日は近い — 。対立や軋轢は今後も強まるだろうし、尾美の失敗もまだ終わったわけではないしで、次巻以降シリアスの度合いが強まるだろうことは必至です。私は、そうした展開の行方が楽しみというか恐ろしいというか、けれど本当のところいうと楽しみで、わーいハーレムだ、エロエロだー、と読むのもいいけど、それだけじゃちょっともったいない漫画と思っています。

  • 陽気婢『眠れる惑星』第1巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2006年。
  • 陽気婢『眠れる惑星』第2巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2006年。
  • 陽気婢『眠れる惑星』第3巻 (サンデーGXコミックス) 東京:小学館,2007年。
  • 以下続刊

引用

  • 陽気婢『眠れる惑星』第3巻 (東京:小学館,2007年),13頁。

2007年6月19日火曜日

Real Clothes

 書店にいったら『眠れる惑星』の3巻が出てましてね、それで今日はこれで書くことになるんだろうなと思ったんですが、てのはね、私の記事をきっかけにして読んでくださった人がいらっしゃるもので、いやもうありがたい話、だから新刊案内は紹介したものの義務かなと思ったんです。けど、そういえば19日は集英社クイーンズコミックスの発売日だったっけと思い出して、そうなんですよ。『Real Clothes』の新刊が出る日なんです。もちろん両方買って、たまらず『Real Clothes』から読んでしまいました。ということで、今日は『Real Clothes』であります。

『Real Clothes』、これはいいですよ。面白い。1巻の時点でも面白いと思いましたが、2巻はそれ以上に面白くて、いやもうそれは予想していた以上。以前私がけれん味みたいにいっていた絢爛豪華カリスマ群にしても、2巻に入ったらもう動く動く。いや、まったくもって予想外。あり得ない孤高の人間、いうことなすことごもっとも、けど嫌みだよねー、みたいなんじゃないんです。なんといっても、田渕優作。やり手バイヤー。つんつんヘアにあごひげ、眼鏡の精悍な男で、最初、うっわー鼻持ちならねーっ、て思ってたら、これがめちゃくちゃチャーミングなんですよ。仕事に対して全力投球、けれどその必死ささえも華麗に、魅力的と見せるのは、間違いなく槙村さとるの技で力なんでしょうね。それに女性たちもかっこいい。神保美姫がかっこいいのはもう当然。婦人服の統括部長。かりかりに研ぎ澄まされたキャラクター。必要なことを必要なときになし、いうべきことを告げる。けれど、ただの完成品とは描かれないんです。これまでに乗り越えてきたものがあったということを感じさせて、そしてそれがこの漫画の鍵になっている。この二人、そして個性を違えつつも自分のなすべきことを理解している同僚たち、みな引き締まってる。無駄なく、表現のためにすべてが機能している。神保美樹の名台詞、「引きしまっている」ということが「カッコイイ」こと、これをこの漫画自体が体現しています。

けれどこれらはあくまでも舞台です。こうした舞台を背負い中央に立つヒロイン。これがまた魅力的と感じます。新たな部署、慣れない環境に放り込まれて一旦戸惑いは見せたものの、上司、同僚の意気込みに刺戟され、ともに走り出そうというヒロイン。まだ迷いがある。問題も山積みだけれど、ヒロインはそれらに真っ向から向き合ってしまった。これまでずっと目をそらしてきたものに、向き直る覚悟をした — 。なんという正統的なドラマを見せてくれることかと思います。すべての仕事をする人間、そして結婚や家庭というものを(男性とはまた違う意味で)考えなくてはならない女性という性に生きるすべてのものに繋がる線が見えるようです。それらの線はきりきりと引き絞られながらよりあわされ、すごく強い導線となって、ヒロインを、そして物語を牽引するのですが、それを読む私自身も引きずられるようにして前に進みたくなってしまう。読むだけで元気になれそうな漫画、問題を意識しながらも目をそらしてきた自分を叱咤したくなる漫画、そしてフレッシュで強靱でしなやかなただただ面白い漫画。

今読むなら、人に薦めるなら、これだと思います。漫画の登場人物が、生きて動いている。物語が息づいて、うずうずと放たれる時を心待ちにしている。いつか来る、物語が放たれるその日を心待ちにせずにはいられない、『Real Clothes』とはそんな漫画であります。

  • 槙村さとる『Real Clothes』第1巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社.2007年。
  • 槙村さとる『Real Clothes』第2巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社.2007年。
  • 以下続刊

引用

  • 槙村さとる『Real Clothes』第2巻 (東京:集英社.2007年),49頁。

2007年6月18日月曜日

ハギワラシスコム SDカード 1GB

 なんか母親がデジカメの撮影可能枚数は何枚だなんて聞いてくるんで、そんなん説明書見んとわからんがな。とりあえず説明書にある目安を見たら、最高画質で約四百枚。まあ普通の用途なら充分すぎるくらいの枚数です。で、もう一度聞かれまして、中国行ったときに何枚撮ったかっていうんですが、ええと、確か六百ちょっと。なんでそんなこと突然聞いてきたのかと思ったら、なんか海外行くそうですよ。フランス、今週木曜からって、えー、知らんかったよ。いいなあフランス。というわけで、急遽SDカードを買うことになったのです。四百じゃ足らんのかといわれたら、まあ足らんでしょうな。中国旅行は四泊五日、それで六百枚。一日あたり百枚ちょっと。けれど、これは撮れる枚数がトータルで七百枚と少ないから、セーブした結果なのです。だから、本気で撮ったら千枚はいくよ! というわけで、もともとの1GBに加え、借り物の512MB、新規購入の1GB。充実の一千枚態勢ですよ!

もしこれがGR DIGITALだったら、七八百枚ってところでしょうね。2GBが欲しくなるところですが、まあ普通に生活しているなかで撮るのなら1GB三百枚でも多すぎるくらいです。けど、ほんのちょっと前まで高価で買いにくかった1GBや2GBが、普通に気楽に買える値段まで落ちていて、正直驚きでした。私はこのSDを家電量販店で買ったのですが、1GBが2180円というんですから。私がGR DIGITALとあわせて買ったSDカードは上海問屋の1GBでしたが、激安で知られた上海問屋SDが当時で四千円程度。ところが今は家電量販店にぷらっといって買ったら二千円。なんじゃそりゃってくらいに値下がりしていて、ネットで買ったら二千円以下ってんだから驚きますよね。正直、次に買うときには2GB(三千円しないってどうでしょう?)もありだなって思うような状況です。

さて、ハギワラシスコムのSDカード、まあCaplio R4で使えないわきゃないだろうって思って試し撮りをしてみたら、なんら問題なく認識して撮影できて、不具合や相性云々の問題もないみたい。安心いたしました。

2007年6月17日日曜日

DoReMiFa

 朝、駅へと向かう車、聴こえてくるラジオ(FM COCOLOだったっけ)。その時流れていたのは、どことなく懐かしい感じの曲。メロウな歌声で、ずいぶん昔に流行ったような曲調。歌詞にしてもマドロスと、最近耳にしないような言葉が使われていて、けれどこれは懐メロなんかじゃないっていうのは、曲全体の雰囲気がしっかりと主張している。懐かしいのに新しい。なんだか不思議な歌だなあと思って、できればまた今度ちゃんと聴きたいと思ったものだから、歌詞の特に特徴的なところを覚えようとしたんですが、曲が終わってからちゃんと曲名が紹介されました。『マドロス横丁』、歌っているのは中山うりです。ああ、中山うりだったのか!

中山うりといったら、iTunes Store恒例のフリーダウンロードで紹介された人ですよ。2006年の9月13日の週。その時の曲は『月とラクダの夢を見た』で、ゆったりたゆたうような曲調に、やっぱりメロウな歌声。雰囲気はちょっとアンニュイ。名前が独特だったということもあるんですけど、しっかり覚えていました。ってのは、やっぱり曲がよかったってことだと思うんです。iTunesで、iPodで、全曲シャッフルして聴いている時、あ、結構好きな感じの曲だと思ったら確認してしまいますよね。そうして、ゆっくり私の記憶に残っていくものは確かにあって、中山うりという人にしてもちょうどそんな具合であったのでした。

さて『マドロス横丁』。これ、なんだかフランスの小唄思い出させるような感じでして、でもこれってきっとアコーディオンのせいだと思うな。私は知らずに聴いていたのですが、中山うりという人はアコーディオン弾く人なんですね。そういや、iTSからダウンロードした『月とラクダの夢を見た』のジャケットでもアコーディオン抱えてましたわ。ちっとも気にしてなかった、って実にいい加減な話。まあ、私なんてそんなもんです。

閑話休題、『マドロス横丁』ってちょっとマヌーシュ・ジャズっぽい響きを持っていて、こういうところに私がちょっと昔風の雰囲気を感じ取った理由があるんだと思います。いや、マヌーシュ・ジャズが古いジャンルといいたいのではなくて、どうしてもこのジャンルを聴くと、ジャンゴ・ラインハルト思い出してしまうものですから。ジャンルがある種の時代を内包している、そんな感じなのです。

だから私はこの歌聴いて、はっとマヌーシュ・ジャズの空気を感じ取ったかと思ったら、写真やら映像やらに見る時代掛かったフランスのカフェの雰囲気を脳裏に思い浮かべてしまったんですね。けれど流れてくる曲、歌われる歌は明らかに新鮮さを持っていて、そしておそらくはこの不思議な感覚の同居感に引かれる人が多いのだと思うのです。フレッシュですごく身近と感じられる感覚があるのだけれども、それでいて異国風で、ちょっと懐かしくて、おしゃれで — 。

このところ、テレビやら街角で耳にするような、売れ線とは雰囲気を異にする曲であると思います。けれどおそらくはそういうところに魅力があるんだと思います。飼いならされてない感じといったらいいか。よくはわかりませんが、けれど聴いているとなんだか嬉しくなってくる、ほっとする。そんな感じなのです。