2005年10月31日月曜日

Cruel Sister

 訳を読んでいてあれれというのは意外にたくさんあることで、例えば私の愛するトラッドナンバー『クルエル・シスター』でもそういったことがありました。

『クルエル・シスター』、日本語に直すと「残酷なお姉さん」ってな感じだと思いますが、私はあえてこれを「ひどいや姉さん」と訳しています(全姉連の皆さん、ご覧になってますか?)。歌の内容はというと、騎士の愛を勝ち取らんがために、妹を殺してしまう姉の話なのですが(全姉連の皆さん、姉弟でなくてごめんなさい)、はたしてこの姉の殺意というのは衝動的に沸き起こったものであったのか、あるいは用意周到仕組まれたものだったのか。裁判においては、犯行における計画性の有無が争われそうなケースです。

姉の殺意が衝動的なものであったか、あるいは計画に基づいた殺人であったか。私がこのようなことを考えるようになったのは、『ブルースマンの幻想』というエッセイを読んだことがきっかけでありました。この非常な名文の後段に引かれた『クルエル・シスター』の訳詩が問題であったのです。ちょいと、引用してみましょう。

クルエル・シスター

北海の海辺に一人の女が住んでいた
(雑草で箒を作っていた)
彼女には二人の幼い娘がいた
(ファラララララララ)

妹は太陽のように明るく育ち
姉は墨のように暗い娘になった

一人の騎士が二人の家を訪れた
遠くからきて二人に言い寄った

彼は一人を手袋と指輪で口説いたが
心から愛したのは今一人の方だった

お姉さん 海を行く船を見に
私と一緒に行きましょう

彼女は姉の手を取ると
北海を見下せる岸辺へ連れて行った

風が吹く岸に立ったとき
黒い娘は妹を突き落とした

(強調は筆者による)

黒田史朗氏の訳を見れば、犯行現場となった岸辺に行こうと誘ったのはであり、この解釈に基づくかぎり、犯行は衝動的な殺意によって引き起こされたものと見ることができるだろう。

異議あり!

私の手もとには黒田氏の解釈とは正反対の訳詩があるのです。同じく引用してみましょう。

[略]

妹よ わたしと
(愛し 愛される)
海を行く船を見に行かない」
(Fa la la……)

彼女は妹の手を取り
(愛し 愛される)
海岸まで連れ出した
(Fa la la……)

風の強い海岸に着くと
(愛し 愛される)
姉は妹を海に突き落とした
(Fa la la……)

(強調は筆者による)

若月真人氏、狩野ハイディ氏の訳を見ればわかることですが、海岸に行こうと妹を誘ったのはであり、ここに彼女の計画的な殺害の意図は明らかです。

ところがですね、オリジナルの歌詞を見るとどちらの解釈が正しいのかというのはどうにもわからないんです。日本語では、姉、妹と姉妹の上下を区別しますが、英語ではどちらもSisterで、確かにelderとかyoungerとかいって区別はしますが、では肝心の歌詞ではどうなっているかというと、わからないんです。同様に引用しましょう。

[…]

"Oh sister will you go with me
(Lay the bent to the bonnie broom)
To watch the ships sail on the sea ?"
(Fa la la…)

She took her sister by the hand
(Lay the bent to the bonnie broom)
And led her down to the North Sea strand.
(Fa la la…)

And as they stood on the windy shore
(Lay the bent to the bonnie broom)
The dark girl threw her sister o'er.
(Fa la la…)

(強調は筆者による)

原文からは、船を見に誘ったのが姉であるのか妹であるのかをうかがうことができず、故に疑わしきは罰せずの原則をもってあたるべきではないでしょうか。

ちょっと待った!

ここに『クルエル・シスター』のバリアントを提出します!

The Cruel Sister

There were two sisters sat in a bour,
Binnorie, O Binnorie;
There came a knight to be their wooer,
By the bonny milldams of Binnorie.

He courted the eldest with glove and ring
But he lo'ed the youngest aboon a' thing.

He courted the eldest with broach and knife,
But he lo'ed the youngest abune his life.

The eldest she was vexed sair,
And sore envied her sister fair.

The eldest said to the youngest ane,
Will ye go and see our father's ships come in?

She's ta'en her by the lilly hand
And led her down to the river strand.

The youngest stude upon a stane,
The eldest came and pushed her in.

(強調は筆者による)

歌詞をご覧になればわかるように、妹を川辺に誘いだしたのは紛れもなくなのであります!

バラッドに限らず、解釈をうんぬんしてみるのって、面白いですね。

引用

2005年10月30日日曜日

Yotsuba&!

  先日の、猫の人と会ったときのこと。『よつばと!』の話になって、買いましたとの由。おおー、買いましたか。そういえば私のところにも第三巻が届きましたよ、英語版の。って話になって、そして解釈論に。というのはですね、英語版、訳に引っかかるところがあったのですよ。いや、まるっきり誤訳ってわけじゃないんですが、どうも私との解釈の違いがあらわれていて、私はこれを広い意味での誤訳(誤解釈)であると思ったわけです。それで、旦那はどう思う? ってな話になったというわけです。

問題の箇所というのは、第二十話の「よつばと花火大会?」。英語版では "Yotsuba & the Fireworks Show?"。長女あさぎの台詞です。

日本語版137ページの第3コマ目、大丈夫、お父さんよという台詞を思い起こしてください。この台詞、英語版ではIt's alright. He's our dad.と訳されています。

私、はじめこの英訳が、いったいなにを表そうとしているかちょっとわからなかったんですね。あさぎの台詞を日本語に訳すと、「大丈夫、彼は私たちのお父さんよ」となりますが、いや、え、なんで? みたいな感じでちょっとした混乱を起こしたのでした。

というのもですね、私はここのあさぎの台詞は、「大丈夫、風香はお父さん似よ」と解釈していたからで、つまり現在話題になっている、あさぎがお母さん似、恵那はお父さん似というシチュエーションを引き継いだ台詞と思っていた。対して英語版の台詞を考えると、135ページから136ページ、誰!?から続く文脈で理解されているんですね。私は正直、この解釈をするには、「誰!?」コンテクストは遠すぎると感じました。それよりも直近の「お父さん似」コンテクストで理解した方が、日本語として自然だと思ったのです。

とこういう話をして、日本語の状況依存性の高さを説明するには非常によくできて、面白い例ですね。日本人だったら、「お父さん似」コンテクストで解釈するのが自然ですもんね、っていったら、いや私は「誰!?」コンテクストで理解していましたという返事が返ってきて、あれーっ!? って私がびっくりしてしまいました。

だって、あのあさぎの台詞のあいまいさを補強すべく、137ページ第1コマの風香は目も細く髪ぼさぼさで、ことさらお父さん似に描かれているぢゃないですか!

てなわけで、私はやっぱりあの台詞は「お父さん似」コンテクストに属していると思っているわけですが、皆さんはいかが解釈されましたでしょうか、というお話。いや、別に解釈の優劣だとか、正しさだとかをはっきりさせたいってわけじゃないんですよ。『よつばと!』は、自由にいろいろに読み解ける良作であると思っていますから、いろんな読みがあっていいんです。

ただ、一般にあの台詞はどう理解されたのか興味が出てきてしまったというわけで、だからよければコメントやらトラックバックしてくださったりしたら嬉しいな。

  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 1. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 2. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 3. Texas : Adv Films, 2005.
  • あずまきよひこ『よつばと!』第1巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2003年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第2巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第3巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第4巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2005年。
  • 以下続刊

引用

  • あずまきよひこ『よつばと!』第3巻 (東京:メディアワークス,2004年),137頁。
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsuba&!. Vol. 3 (Texas : Adv Films, 2005), p. 137.
  • あずまきよひこ,前掲,135頁。

2005年10月29日土曜日

女子校育ち

『女子校育ち』というタイトル、掲載誌が『みこすり半劇場』というところから、いったいどんなエロ漫画なんだと思ったり思わなかったり。けれど作者は吉田美紀子で、帯を見れば4コマ史上最大の死亡者数!?という物騒な文句もあって、いったいどういう漫画なんだ。表紙を見れば、可愛らしい女の子(といってもOL)が二人、実に華やかな感じであるのですが、中を見ればずいぶん印象が違っていて、ああ、いうならば、あの表紙は罠だな。ついでにいえば、各話扉も実に華やかな雰囲気で、けどこれも罠だな……。

罠だ罠だといっていますが、そもそも吉田美紀子は複数誌に連載を持つ四コマ作家で、もちろん私もいろいろ読んできて、その芸風は知ってるわけです。だからわかっていて罠に落ちたと、そういうわけです。

シンプルで可愛らしい絵柄で、けれどネタは妙にシュールだったり身も蓋もなかったりして、こういうところが実に私好みであるわけです。絵が可愛いといっても、いわゆる萌え絵とはちょっと違っている。だから、そういった方面を忌避される方にもお勧めなのではないかと思われます。

しかし、吉田美紀子の芸風は知っていたつもりではありましたが、なかでもこれは格別のすさみようです。帯の死亡者うんぬんという文句は伊達じゃありませんね。死体、流血の惨事が適当に出てきて、適当に扱われて、この淡々としかいいようのない雰囲気は大好きです。けど、こうしたのは結局はギャグで誇張であるわけだから笑ってすましてしまえるとしても、まれにギャグや誇張じゃないようなネタもあって、そういうのはなかなかに笑いが凍りつくようで、いや、私はこういう感覚も大好きです。

私は昔、就職試験で女学校の最終にまで残ったことがあったのですが、あの時落ちたのはよかったのかもなあと、そんな風に思わせるようなところもあって、けどよく考えたら私自身が『女子校育ち』みたいな時期を過ごしたことがあるもんだから、実際のところ平気かも知れません。うん、この漫画のネタにしても、そうそうそんな感じっていうのが多かった。実際、とんでもない話、結構聞かされたものなあ。

『女子校育ち』、いい漫画です。

  • 吉田美紀子『女子校育ち』(ぶんか社コミックス) 東京:ぶんか社,2005年。

2005年10月28日金曜日

猫めくり2006

今日、友人と久々に会いまして、その友人というのは毎日猫の写真を撮っている人なのですが、なんとその人の写真というのが、来年度のカレンダーに収録されたというのですよ。いやあ、これはちょっとした快挙であるなと思います。ゆうても、一年は三百六十五日と決まっていて、加えてかなりの応募もあったはずで、それで掲載にまでこぎ着けたわけですから、まさにあっぱれであります。

して、そのカレンダーというのはどんなのかというと、カミンの出している『猫めくり』で、これ、私が知っているくらいですから、猫好きの間では知られた名前であると思います。

で、今日はそのカレンダーを実際に見せてもらったのですが、思っていた以上に大きく、分厚く、だからびっくりしてしまいました。カレンダー本体はリフィルになっていまして、しっかりとした土台に取り付けるというスタイルなのですが、それにしてもでかい。卓上に置くにしても、あるいは壁に下げるにしても、結構な迫力であると感じました。私の、ものがたくさん乗っかってるような狭苦しいワークスペースだと、ちょっと大きすぎると、それぐらいの大きさです。

でも、多分、ちゃんと整理された机とか棚とかに置かれたら、ちょっとした部屋のアクセントみたいになっていいんでしょうね。大きい大きいといいますが、実際に部屋に置いてみての感想ではないので、実際室内に配置されたら感想は変わるんじゃないかと思います。

そういえば、私は今年はカレンダーはコンピュータ内にはありますが、普通の、卓上にせよ壁掛けにせよ、まったく使っていませんでした。実は、ひとつ買っていたりはしたのですが、いつの間にかしまい込んで、見れば三月四月で止まっていて、ああ私にはこういうカレンダーというのは向かないのかなあ。

でも、ちょっとした生活の彩りにカレンダーがあったらと思うことはやっぱりあるので、きっと2006年のカレンダーも、ひとつふたつ買うんじゃないかと思います。猫めくりになるかどうかはわかりませんが、買うんじゃないかと思います。

2005年10月27日木曜日

帝都雪月花 — 昭和余録

 『帝都雪月花』と書いて、『ていとゆきつきはな』と読むのだそうです。作者が書いてました。作者、辻灯子。私はこの人の大いなるファンでありまして、例えばそれは、私が今までここで書いてきたことを振り返っていただくだけで充分証拠となりましょう。だから、今日、『まんがタイムきらら』系の単行本が出るこの日、私が取り上げるのが『帝都雪月花』と見抜いていた人は多いのではないかと思います。

『帝都雪月花』の舞台は、昭和二年の東京。そう、私が好きだという時代ですよ。私は以前いっていました。明治大正という時代の躍動を見るのが好きって。昭和二年は確かに不況で、取り付け騒ぎやらなんやら、時代の混乱は社会科の教科書、グラフでも見たとおりです。ですが、そんな暗い時代でも、どっこい元気に生きていた。『帝都雪月花』には、そうした元気が見え隠れするから私はどうにも好きなんですね。

『帝都雪月花』は四コマとしては異色であるといってよいかと思います。妙に色濃く描かれた時代のディテール。昭和二年という時代を、史料をひもとき、その史料をもって背骨とし、なかったことをあったことのように肉付けしていこうとするかのごとき情熱。静かながらもしっかと一本筋が通っているようで、私が好きだというのはこうした気骨に対しても同じであります。

けれど、あくまでも四コマとしては異色で、四コマというフォーマットの気楽さ、テンポのよさを犠牲にしていて、だからある種通好み、マニア向けの様相を呈しています。けど、私はそれでいいんだと思う。わかりやすさだけ、単純さだけが四コマではないぞ。ちょいと読み解きにつきあおうかねといった風情があってもいいじゃないかと、この漫画を見れば思うはず。少なくとも私はそうした口で、仕掛けを読み解きながら、個性的で気持ちのいい風が吹きつけてくるような人たちのコメディを楽しみたいと思って、ええ、これは非常に良質の漫画であると思っています。ええ、だからもうちょっと楽しんでいたかったかもなんて、そんな風にも思っています。

蛇足

恒例の蛇足ですが、もう野暮なこといいっこなしですよ。

私は、辻灯子の描く、すかっと気持ちのいい女性たちが大好きです。

2005年10月26日水曜日

The Gould Variations : The Best of Glenn Gould's Bach

 昔、海外でグレン・グールドに関するマルチメディアタイトルが出たことがあって、それは"The prospect of recording"(「レコーディングの将来」)にて提唱された「キット」としての音楽を体現するものらしいという話だもんだから、私はもう興味津々で、海外のリリース元にFAXで注文を出したりしたりして大わらわだったのです。けれど、あのソフトはその後いったいどうなったんでしょう。一向に送ってくる気配もなく、そもそも完成したのかどうなのか。まあ引き落としもなかったからいいといえばいいのですが、もしリリースされていたとするとちょっと心残りではありますね。

とまあ、私にはそんな過去があるもんですから、エンハンスド仕様になっているバッハコレクションCDを見つけたときには心躍りました。だって、パッケージに貼られたシールに interactive musical experience!! なんて書いてあるんですよ。キット・コンセプトのことかー!! そう思った私は、ためらいもなく買いました。

買って、帰って、わくわくしながらコンピュータにCDをセットしたところ、私の見込みが違っていたことがわかりました。キット・コンセプトのキの字もありません。まあ、インタラクティブといえばインタラクティブではあるのですが、楽譜を表示させながら音楽を聴けたり、あるいはムービークリップを観賞できたり。けど、グールドのLDボックスを持ってる私にとって、これらムービーは特段重要なものではなく、だからこれはしくじったってやつですね。

でも、iPodを買って状況はちょっと好転したのでした。新しい動画も見られるiPod用の動画を用意する際に、私の手持ちのリソースはといえば、エンハンスドCDに収録されたムービーファイルがあるくらいで、そう、ここでようやくこのCDの価値が発見されたのです。

動いているグールドをいつでもどこでもiPodで観賞可能という素晴らしい状況が出現して、とりあえずクラシックファン向けのデモンストレーションでは大人気。なんせグールドは映像映えする演奏家ですからね!

2005年10月25日火曜日

『フルハウス』セカンド・シーズン

 本日たのみこむからメールがきまして、ふむふむなになに、『フルハウス』のセカンド・シーズンが出るんですか。ふーん。てな感じで実にクールなもんです。だって、当然出るはずのタイトルで、私にしても当然買うに決まっているものですから、いちいち騒いだりするようなことはございません。息をするように自然。太陽が東から昇り、西に沈むくらい自然。そりゃまあ、昇る朝日の美しさに嘆息することもありますよ。けれどそれでも、それはわあわあと騒ぎたてるようなことではないのです。

ただ一人、よいものに触れることができたと、胸の中にしまっておきたいような、そういうものだといえば伝わるでしょうか。いや、多分伝わらんな。まあ、変なこといってるのはわかってますから、放っておいてやってください。

そもそも、私にたのみこむからメールが届くというのは、ひとえにファースト・シーズン日本語版を買ったからなのですが、いやあ、『フルハウス』はいいドラマですよ。今更私がいう必要もないくらい広く知られた事実ですが、『フルハウス』は本当にいいドラマです。

『フルハウス』の面白さというのは、特定のある年代にしか通じないような、そういう偏狭なものとは一線を画しているんです。高校に通っていた時分の私が見て、おじさんになった私が見て、当時壮年で今は老境にさしかかろうとしている父母にしても面白いといって見ている。あらゆる年代に通じる幅の広さは恐るべきものがあります。ギャグ、コメディの切れもよく、そしてちょっとしんみりさせるシーンも、欠くことができない『フルハウス』のエッセンスです。こうしたエッセンスが、そもそも国境も越え、基底となる文化も違えている日本において受け入れられているというのは、どれだけ『フルハウス』の扱うことごとが普遍的なものであるかを語っていると思います。そして、これは素晴らしいことだと思うのです。

セカンド・シーズンのリリースは来年二月といいます。ことさら急ぎはしませんが、その日が来るのが楽しみというのは紛れもない事実です。

2005年10月24日月曜日

ATH-CK5 audio-technica インナーイヤーヘッドホン

 iPodを買いました、ってなわけで、さっそく通勤のお伴に連れてでたのですが、いや悪くないんですよ。悪いのは私のコレクションといったところでしょうか。記念すべき通勤一曲目は『幻想交響曲』の第二楽章で、いやあ、音が小さい。クラシックはですね、特にオーケストラ作品は音量の幅が広いもんだから、電車内で聞くには向かないんです。特にピアノやピアニッシモ中心の曲、楽章が危険で、弱音にあわせてボリュームを大きくしたりなんかすると、曲が変わったときに大ダメージを被ります。私がオケものを聴かなくなったのがなんでか、思い出してしまいましたよ。

けど、せっかくiPodを買ったのに、オケものを締めだすというのももったいない話です。なので、遮音性に優れるというカナル型のイヤホンを導入することに決めました。

一口にカナル型のイヤホンといっても、そこはこの頃はやりのものでありますから、いろいろなものが出ています。一万円前後を中心に、安いものなら二千円ちょっと、高くなれば数万というのもあります。でも、携帯プレーヤーに使うのに数万は払いすぎ、一万円でも高いと思います。てなわけで、二三千円程度を予算と決めて、どれがよいかと調べてみたのでした。

こういうときに、インターネットというのは便利だと思います。いろいろな評を目にできます。音質、傾向、使用感もろもろ。評判がいいのはSHUREのE2CとかEtymotic ResearchのER-6iとかですが、これらはちょっと高い。予算オーバーです。予算に収まり評判もなかなかよさそうという点からみると、PHILIPS SBC-HS740やaudio-technica ATH-CK5あたりでしょうか。というわけで、このふたつから選ぶことにしました。

といっても、もの見て選んだわけじゃないんですけどね。話によると、PHILIPSのイヤホンは海外向けらしく、国内では手に入りにくいとか。いや、本当のところはどうなのかわかりません。ですが、ある意味消耗品といえるイヤーピースを交換するときに入手しにくいというのは困る。こういう場合に日本のメーカーを選ぶメリットがありますね。そんな感じでATH-CK5に決まったのでした。

とりあえず使ってみた感想はといえば、音が少々硬め、思ったほど遮音性は高くないというものでした。音が硬いというのは、iPod付属のイヤホンでも感じたことなのでさして問題とは思わないのですが、ちょっと聴いていて疲れやすいかも知れません。とはいっても、聴いているうちに硬さはとれてくるという話ですから、これからに期待するのがよさそうです。

遮音性に関しては、結構耳栓効果はあるんです。水に潜ったみたいな、そんな感じがします。そこに音楽が聴こえてくる — 、なんかちょっと変な感じです。慣れれば多分聴き方もわかると思いますし、上手な装着の仕方もわかるでしょう。だから実際、これからだと思います。

遮音効果には不満ありといいましたが、そもそもまったく無音になるわけなんかないんだから、無茶いってるんですよ。現状程度でも電車内での聴きやすさは格段に違いますし、音量をむやみに上げる必要もないから音漏れも少ないだろう、耳にも優しかろう、悪くないと思います。

今まで車内では聴き取れなかったような細かな音の動きを追えるというのは大きなことで、だからこれから起こるだろう変化には大いに期待しています。

そういえば、イヤーピースをSonyのEP-EX1にするといいなんていうらしいですね。今度試してみようかな、いや、今は標準で頑張ってみたいと思います。

2005年10月23日日曜日

百年分を一時間で

 今朝、いつもの通りにメールの確認でもしようとiBookの目を覚まさせると、インターネットがまったく使えなくなっていることを発見しました。ADSLモデムの不調だろうと、電源を切って再起動させても状況は改善せず、いろいろ手を尽くしてみても問題はわからない。使っているプロバイダがこけたのかと思いサポートに電話をするもそういう事実は無く、どうやら私の利用している電話回線にノイズが発生しているらしいという疑いが濃厚でした。

ああ、昨夜まではなんの問題もなく働いていたというのに。ネットから切り離されてみて、いかに自分がインターネットというものに依存しているか気付かされました。別段、普段なら、そんなに気にしないメールだというのに、なにか大事なものが届いてるんじゃないかと不安になる。ダイアルアップで確認し、けれどいつも通りの便利は得られないわけで、復帰するまでどうしようとまた不安になる。

山本夏彦翁いわく、なかった昔には戻れない。ええ、もう私はインターネットのない状況には戻れないのだろうと思い知りました。

文春から出ている新書は山本夏彦の入門には実にうってつけで、『百年分を一時間で』は二冊目にあたります。最初のは『誰か「戦前」を知らないか』。私の入門は、この一冊目からでありました。1999年に出た本ですから、いかに最近の読者であるかということがうかがえます。

文春新書に収められている三冊は、あるひとつのテーマを軸に、夏彦翁と工作社の若き社員が和気藹藹、話した言葉のその調子を残しているから読みやすくわかりやすく、だから私はこれが山本夏彦入門にいいというのです。

わかりやすいからといって、中身が薄いだなんてことはまったくなく、確かにコラムほど濃密ではないけれど、それは調理の仕方が違うだけのこと。山本夏彦の面白さ、飄々として、しかし時に厳粛さものぞかせる、万華鏡のような人柄を充分堪能できるでしょう。これが面白いと思ったら、他の著書にも手を出して、翁の名人芸とでもいうべきか、寄せては返す波の音を堪能されるとよろしいでしょう。

さて、なぜ今日『百年分を一時間で』を取り上げたのかといいますと、この本に収録された最後の話「電話」が振るっているからです。文明の利器、電話があらわれて世の中は変わった。会いにいくのにアポイントメントが必要になった。人間関係を変えた。時間と距離をゼロにしたいという人類の切望を電話はかなえて、時間は浮いたはずなのに世の中は慌ただしくなる一方。

電話を例にあげてはいますが、電話はただの口実で、近代文明を批判しているんです。私の文章じゃ夏彦流のすごさは出ないから、ぜひ新書でお読みください。

この「電話」という短文に、インターネットに挑戦するという夏彦翁の言葉があったのですよ。政治経済倫理を根底から揺るがしかねない魔物のようなインターネットのデテールを知り、本質を見たいというのです。私もそうした立ち位置を身に付けるべきだと思い、氏の話を再読しました。インターネットが止まっただけで暮らしが立ち行かないみたいに動揺するのはなぜなのか、今やその根っこの不安を知るには自分の目だけが頼りなのですから、便利の一面にただ飲まれるばかりの無批判であっていいわけがないのです。

2005年10月22日土曜日

iPod (fifth generation)

  10月13日朝に注文したiPodが本日到着しました。先日発表されたビデオも見られるというiPodで、第五世代にあたります。そして、私にとっては記念すべき初iPod。かつての、カセット式のウォークマンをはじめて使ったときの感動はありやなしや。あの、耳元に響く臨場感に恐れを抱いたあの時の感覚を、iPodでも体験できるかどうか。けど、これがわかるのは実際に持ち出してからの話ですね。だから、まずは月曜日。月曜には、iPodの真価が判明するんじゃないかと思います。

とりあえず、iPodを手にしていろいろ機能を使ってみてみて、やっぱりこれはミュージックプレイヤーであると、そういう感想です。ビデオは見られますし、カレンダーもアドレス帳も使えるけれど、これらはおまけ。実際、ビデオを見ることはあんまりないように思いますし、それよりも使いやすいミュージックプレイヤーという感覚が強いのです。至極まっとうなミュージックプレイヤー、これが私のiPod観であります。

さてさて、iPodを手にして、そそくさとパッケージを開けていろいろ操作してみて、ところで今度のiPodは傷がつきやすいという話があるんだそうですね。nanoの傷つきやすさは以前からあちこちで問題にされていて、アメリカでは集団訴訟(!)にまで発展しているとかいう話ですが、新iPodではどうなんでしょう。基本的なデザインは新iPodもnanoもかわらないようですから、だとしたらやっぱり傷がつきやすいのかも。でもアップルいわく、iPod nanoのディスプレイは第4世代iPodと同じ素材でできている。この問題は実際に起きているが小さなものであり、[中略]この問題の影響を受けたのは出荷済みiPod nanoの0.1%未満に過ぎないのだそうです。

私は結構傷やらなんやらは気にするたちなのですが、でも正直保護フィルムを貼ったりするというのは好きじゃないんですよね。なんというか、日常の使用でつく傷はそんなもんだと割り切った方がいいとおもうんですね。よくみればピアノも傷だらけだし、あの病的に大切に扱っているギターにしても傷がないわけではありません。でも道具というのはそういうもんだと思うんです。

けど、傷に対して脆弱となれば話は別です。普通に使う段には問題ないものならまだしも、普段の使用で無視できないような傷ができるとなればやっぱりいやなもんで、で、そこのところどうしようか。

迷いますね、迷いどころですよ。

あ、そうじゃ。ヨドバシ梅田の店頭展示品ですが、別段気にするような傷み方はしてなかったっけ。クリックホイールの押し込み具合がものによって違うのは気付いたのですが。じゃあ、保護フィルムはいらないかな。

引用

2005年10月21日金曜日

不思議な少年

    昔、萩尾望都の漫画にはじめて触れたときに感じた感覚、これはすごいぞという驚きと興奮、次から次へ目の前に展開する物語の沸き立ちに、心奪われるのは当然至極のこと。今、私は山下和美の『不思議な少年』を前に、その時に変わらぬ感動を覚えています。幅広く豊かな表現は確かで、その一コマ一コマ、台詞の一語、描線の隅々にいたるまで力強い躍動がみなぎっている。すごい漫画家だ。山下和美はすごい漫画家だ! 私はそう叫びたくなるほどの衝動に突き動かされて、たとえそこが街の雑踏のただ中であっても! 高揚が、高揚が満ちるのです。

雑誌『モーニング』に最初の『不思議な少年』が掲載されたとき、私はこれが続くとは思っていなかったから、とにかく矢も盾もたまらず雑誌を買ってきて、読んで、打ちひしがれる思いでした。私がこれまで読んできた山下和美の延長にある漫画でありながら、これまで読んできた山下和美とは違って、その表現が極まったと思わないではいられなかったのです。

多分、同じ思いを抱いた人は多かったのだと思います。暗く重く難解な『不思議な少年』は、その後も掲載されて、単行本が出、版を重ね、巻を重ねています。

『不思議な少年』は暗い? 重い? いや、そんなことはありません。この漫画には私たち人間の世界のありようが時に淡々と、時に幻想的に、そして狂乱に似た高揚をもって描かれていて、私はそうした表現に対峙させられて、あたかも山下和美の問い掛けに立ちすくむようです。テーマは常に人間で、人間ほど難しいものはなく、また面白いものもなく、美しくて汚い人間の奥底をさらうみたいに掘り起こす山下和美の筆は遠慮も容赦もあったもんじゃない。なのに、この表現が最後にはしんと心に広がるのだから、山下和美という人は本物であるというのです。

山下和美は大いなるものではあるけれど、偉大というのとはちょっと違って、昔、本で読んだスピンクスのような威風を感じさせます。それも、すごくチャーミングなスピンクスだと思う。私、こんなスピンクスになら命をとられてもかまわないなあ。この人の漫画を読むときには、そんなドキドキを胸にしているのです。

  • 山下和美『不思議な少年』第1巻 (モーニングKC) 東京:講談社,2001年。
  • 山下和美『不思議な少年』第2巻 (モーニングKC) 東京:講談社,2002年。
  • 山下和美『不思議な少年』第3巻 (モーニングKC) 東京:講談社,2004年。
  • 山下和美『不思議な少年』第4巻 (モーニングKC) 東京:講談社,2005年。
  • 以下続刊

2005年10月20日木曜日

Filippa Giordano

 フィリッパ・ジョルダーノ。はやりましたね。最初はクラシック好きあたりにアピールしたのでしょうか。オペラのアリアやなんかをですね大胆にアレンジして、ずいぶんとポップな感じにしてしまって、賛否両論だったかどうかは知りません。なにしろ私ははやりには疎くて、というか、はやっているときには目を向けず、一般向けの新聞雑誌みたいなので騒がれていれば、もう知らぬ存ぜぬを決め込む始末。けどまあ、一応私も人の子、一枚だけアルバムを持っているのですね。

いや、ほら、はやりだからとかいうのじゃなくて、ワゴンセールで安くなってたから。こういうところが私らしいというか、私がこういうのに手を出すのは結局はやりが過ぎてから。いつもだいたいそんなものです。

で、しかも私は悪いことに、買うだけ買って聴かないんですよ。数年寝かせて、実際iTunesに読み込み大作戦をおこなっていなければ、きっと今もまだ眠っていたことでしょう。はやりが過ぎたどころではないですね。私はもう、買ったことすら忘れていました。

さて、そんないい加減な聴き手である私はフィリッパ・ジョルダーノをどのように聴いたかといいますと、割りと悪くないじゃんというか、結構こういう毛色違いは楽しいものだと思います。私は普段音楽をiTunesのパーティシャッフルでもって聴いているのですが、クラシックの中に入っても、ポップスやロックに紛れ込んでも、それなりになじんで、それなりに異質という独特のポジションにつけていることが理解されます。

クラシックスタイルからすれば、あまりにもかけ離れたアレンジが異彩を放って、かといってポップスから見れば、その重厚な歌唱は一種特別な雰囲気を醸しだします。このどちらでもありどちらでもないという、そういう境界線上に位置するバランスが受けたんじゃないかと思います。ごりごりのカテゴライズ主義者には受けが悪いかもは知れませんが、そうではなく、あいまいに推移するグラデーションの上に生活している我々には、こうした多様式の混交はむしろ歓迎であって、非常によくできたフュージョン感が面白みを出しています。

2005年10月19日水曜日

薔薇の名前

 薔薇の名前』はウンベルト・エーコの著した小説で、世界的ベストセラー。日本版も上下分冊で出ていて、私はこの本を買って、読んで、映画はだめだ、浅いみたいに思ったのですが、これはちょっと誤っていたなと、この度映画を見直して反省しました。

映画『薔薇の名前』は、ジャン=ジャック・アノーが丹精込めて作り上げた映像美の世界であり、中世の修道院を現在によみがえらせようというかのごとき情熱は素晴らしく、それだけでも充分評価するに値するものです。DVDは実に私好みで、音声解説もドキュメンタリーもついていてうはうはなんですが、監督自身による音声解説によれば、アノーは修道院大好き少年だったのだそうです。私はこうしたエピソードを聞いて、中世の断片が随所に残されたヨーロッパへの憧れを今まで以上に強めて、ええ、私はあの中世の空気が好きなのです。住みたいとは思えない時代ですが、ですがあの世界の根底には今の私たちの時代の精神になんら変わらぬものが流れています。それも濃密に!

私がこの映画をはじめてみたのは、高校生のころでしたでしょうか。NHK BSだったかで放映されて、けどあの時は途中で寝てしまったのですよ。だから本をめぐる物語であるとか、そういうことは全然わからなかった。もう、本当に序盤で寝てしまったのだと思います。

これを再び見た時にはすでに大学に上がっていて、私がこの映画にばちーんっとやられたのはまさにこのときですよ。濃厚に描かれた中世がうっそうとして、もう鮮烈に鮮烈を極めてびりびりしびれました。そして犯罪をめぐる状況というのが振るっていました。あの、ウィリアムが真犯人と対峙したあのシーンの緊迫感。罪を犯してでも守り抜きたかったものとその理由! 最高です!

けど、あの謎の渦巻く迷宮に関しては、やはり本に譲ります。いや、本で表現できることと、映画で表現できることはもとより違うのであるからして、それを突っ込むのは無粋でしょう。

私が映画に感じる不満は、あの憎むべき異端審問官(彼は傲慢の罪で地獄に送られたことでしょう)の扱いと、そして妙に甘く、ハリウッド風味になってしまったラスト直前のあのシーン。私は原作を読んだときに、うわあ、ハードにしてドライって思ったものでしたが、ですがあれが現実なんだろうと。だから、映画のラストに関しては、ちょっとロマンティックが過ぎるなという感想です。

この映画を見る人は、原作もあわせて読むべきです。映画の理解が大きく違いますし、また映画が本では想像しきれなかった部分をしっかり肉付けしてくれることでしょう。

映画を見、本を読み、また映画も見、音声解説もドキュメンタリーも見て、心を中世にすっ飛ばしてしまうくらいにはまるのがお勧めです。

  • エーコ,ウンベルト『薔薇の名前』上 河島英昭訳 東京:東京創元社,1990年。
  • エーコ,ウンベルト『薔薇の名前』下 河島英昭訳 東京:東京創元社,1990年。

2005年10月18日火曜日

ゴールデン・ポップス

『ゴールデン・ポップス』は隔週刊の雑誌で、付録にCDがついて1,390円。第一号は特別価格490円! って、どこかできいたフレーズですよね。そう、デアゴスティーニですよ。デアゴスティーニのお送りするオールディーズの名曲集。全部集めると、1950-1970年代前半のヒットチャートを飾った名曲のコレクションが完成します。

とはいえ、本当に全部集めきることができるかが問題なんですけどね。というか、そもそも何巻まで予定されてるのでしょう。とりあえず二十二号までは出るみたいなんですが、現時点では全然全貌が見えてこないんですけど。十冊ファイルできるバインダーが三巻分は出るみたいですから、少なくとも三十号くらいは出すのでしょうか。

私がこのシリーズを買いはじめたのは、知らないわけでもないけど詳しくもないという、アメリカン・オールディーズをガイドライン付きで聴いてみたいと思ってみたからなんですね。誰もが知ってるというようなVacationとかSurfin' U.S.A.が第一号には収録されて、こういう親も子も楽しめるというようなラインナップってやっぱり魅力じゃありませんか。昔を思いつつ聴けば、新しい発見もあるかも知れません。温故知新ですよ。やっぱりいろいろ幅広く聴くことが、結果的に音楽の楽しみを深めることになるのだと思うんです。

というわけで、創刊号だけでなく第二号も買ってみました。多分、クリスマス特集もエルヴィス特集も買うかと思います。

2005年10月17日月曜日

iPod nano

  今さらながらiPodの認知度の高さには驚かされます。職場でも遊びにいった先でも、必ず一人は欲しいと思っているという人がいて、けどやっぱり実際のところがわからないから躊躇しているという感じでしょうか? あと、今どういうモデルがあるのかがいまいち把握しにくいというのもあるようで、私なんかは結構網羅している口なんですが、やっぱり普通はわかりにくいですよね。そんな中、iPod nanoの知名度は抜群で、名前も知られているし、これはやっぱりCMの威力なのだと思います。あのCMを見て、欲しいと思ったという人が少なからずいるみたいです。たいしたものだと思います。

昨日お出かけの帰り、梅田のビッグマン前でiPod nanoの販促がおこなわれていまして、柱にぺたぺたと実物大のプレートが貼り付けられていて、ご自由にお持ち帰りくださいとのことです。私も早速もらってきました。

これ、電器店でモックアップや実機に触れたときの印象よりもさらに小さい感じがして、不思議なものですね。電気屋では実際に操作してみたりもしたのですが、それが街中に持ち出されると、まったく違った印象に見えるのだというのを疑似体験したような感じです。

iPod nanoに対する女性と男性の感覚の差というのを思ったのは、やっぱりその外観に対する意識の違いかと思います。男性からは特にカラーについての質問を受けなくて、どちらかといえばスペック、なにができるのかというような興味のほうが強いみたいなんですね。ですが女性だと、開口一番に何色があるのとくる。白と黒の二色。そうなると、iPod miniのカラーバリエーションが懐かしいなんて声も出て、けど多分、ほらshuffleで出てた着せ替えシートみたいのんが出るんじゃないかなあ、なんていっていたらありました。その名もiPod nano Tube。カーボンナノチューブを意識した命名がいいですね。

透明、ピンク、ブルー、パープル、グリーンの五色が用意されているようで、もし私がこれを使うなら、まずは透明、次いで、ブルー、グリーンあたりかなあと。けれど、こういう製品がいろいろ出てくると楽しそうだなと思います。私はこれはサードパーティ製かと思っていたのですが、思いがけず純正で、けど多分サードパーティからいろんなバリエーションがリリースされることだろうと思います。いったいどんなのが出るのか、考えるだけで面白そうじゃありませんか。

私は新しいiPodを購入したので、nanoを買うことはないと思いますが、現在この記事を参考に、iPod保護ケースを発注中。いや、目鼻をつけたり首から下げたりということは意図しないので、おそろしくシンプルなケースになるはずです。