2020年3月25日水曜日

『まんがタイムきららフォワード』2020年5月号

 『まんがタイムきららフォワード』2020年5月号、昨日の続きです。

『球詠』

大野さん、強いな! こうしたスポーツものでの定番の展開、負けたチームが勝ったチームに私達の分まで勝ってくださいという流れを受けて、まさかの、断るわ、ですよ! 他のメンバーがはいって受けてるのに! すごい。こんな崩し、はじめて見たかも知れん。しかも、嘘でもわかったっていうんですよってたしなめられてて、すごいな、こんな展開、はじめて見たかも知れん。

でも、大野、いじわるや無理解でいってるわけじゃないんですよね。自分たちのことで精一杯なんだって、そしてさらには、泣きだしたヨミにですよ、自分達で全国にいきなさい、エールまでおくってくれるんですね。ええ、ちょっと素直じゃないかも知れないけれど、いやいや、真っ直ぐでいい子じゃないですか。この厳しさと優しさの同居しているところ。ああ、そうでした、チームメンバーからも一目置かれていた、その理由もわかったように思います。

そして、朝倉の投球についての種明かし。これでショートが睨まれてるの、面白かった。

正直、ここまでの流れを見て、新越谷は苦戦しながらも勝ち進んで全国にいくのかと思っていました。それがここで阻まれて、でも、この負けで得られたもの多かったようですね。心の持ちようがあり、自分たちに足りないものの再確認もできて、そしてこの負けを糧に確実に前に進んだじゃないですか。キャプテンとしての役割を自覚していく怜。チームとしての結束、ガッツもまたより増したように思うのですね。

かくして新越谷高校、ベスト8。快挙ではあるけれど、苦さもまた残る結果でした。

『スローループ』

渓流で釣る時は、ひより、釣った魚をリリースするんだ。かえしのない針を使って、なるたけ魚を傷つけないように、弱らせないように気を配りながらの釣り。そしてこれ、ひよりだけでなく、フライフィッシングをする人ではポピュラーだったりするんだ。ここからのひよりの説明するところ、これ、大変よかったと思います。

なにがよかったかって、リリースする目的は、渓流の魚は多くないので、いなくならないようにしているということ。でもそれは魚のためじゃなくて自分のためなんだっていうところです。魚がいなくなると釣りができなくなる。だから、魚がいなくならないようにしてるだけなんだって、そう語るひよりは自身の罪とでもいえばいいのか、決して優しさなんかじゃないし綺麗事でもないんだって理解して、自分自身を俯瞰的に見ている。これ、すごいなって。簡単に甘い話にしないというところにも、ひより同様覚悟のようなもの感じさえしました。

そして小春の釣果です。ああ、一匹釣れましたね。あまりの喜びに情など沸いたというのに、すぐさまシメられちゃう岩五郎。いやまあ、しゃあないよね。この、小春の、釣ったものは食べるという意識、これもまたひとつの覚悟のあらわれでありますね。

今回、雨に降られて小春が発熱。そうしたら、あの無口なおじいちゃんがたくさん果物買ってきちゃったりしてね、あらまあ、不器用さんだ! そしてひよりは、小春のために料理をするという。ええ、ここにまたひとつの変化、成長の芽があったというのですか。見せてくれるなあ! 自ら前に出ようとするその意欲、とてもまぶしく感じます。

『SA07』

めちゃくちゃ面白い! まずはアニメの動画の実習。振り向くところの中割りをしてるんですが、いや、これ、そりゃあもう難しいよね? 変になっちゃって悔しいまちか。アニメというものに対する呪詛を撒き散らかしはじめるほどに気持ち曇らせとるわけですが、対して反面、これを要領よくやっつけちゃうやつがいる。伊藤! わりと小器用な男! そうか、苦手な角度があれば演技をつけて逃げればいいのか! いいのか? 先生からは苦言まじりだけど褒められたりもして、こういう誰もがそれぞれに強みを持ってるのが描かれるの、いいなあって思います。

と、こうした描き方しているの、りんこ、この子のコンプレックス、みんななにかしらすごいけど、自分はまったくすごくない。そうした気持ちの落ち込み、コントラストをより強く見せるためなのかなあなんて思ってね、この漫画がはじまった時から、どこか自分のこと駄目だって思ってるのがりんこじゃないですか。今回も、絵のうまい人は沢山いるって、SNSにも同級生にもたくさんいて、そんなところに飛び込んでしまった自分の選択を悔やんでるみたいなこと思っててさ、でもって私はこうした気持ちわかるんですよ。昔の自分がこんなだったと思う。学校に入ってみて、あ、駄目だ、自分は生き残れないって直面させられる、そんな状況に置かれて、結局自分はりんこのいう無限ループから抜けることを選んだのですけど、それだけに、この子はどういう選択をすることになるのかなあ、それが気になってならないのです。なにかしらの強みを自身のうちに見つけてほしい、なんて思うのは、自分のかなわなかったことをこの子に託してるみたいな願望めいたなにかなのかも知れませんね。

と、長くなってしまいました。終盤のまちかのSNS戦略もすごかったですよ。いやもう、この人はそういうプロデュースしたり売り込みかけたりする仕事したらいいんじゃないかな。技術はあっても売り込めないって人、いるじゃないですか。そういう人をサポートして売り出す仕事、絶対向いてると思う。ほんと、まちかのこの能力、これ、マジ強みだと思いますよ。

『観音寺睡蓮の苦悩』

この漫画は紫陽花と椿のもどかしい関係をメイン寄りに描いて、それを睡蓮が(勘違いぎみに)愛でるという構造になってるわけですけど、睡蓮の役割って面白さを挿入しつつ読者の視点を誘導するといいますか、読者の代理人として紫陽花、椿ペアのイチャつきを観察、確定させ、ナイスカップリング反応をより促進させる、いわば触媒的なものになっていますよね。なので、椿、紫陽花の関係に萌えるもの感じとれる人には、きっとたまらないものになっている。ただふたりの関係が描かれるだけにとどまらず、より積極的に場に関与し関係を変質させていく。そんな力が睡蓮なのだと思います。

よく、キャラクターふたりの関係に絡むのではなく、自分は壁となってふたりをただ見守りたい、みたいなこといわれたりするじゃないですか。この漫画において睡蓮は、派手に動いて紫陽花、椿に関与しながらも、あくまでも関係には踏み込まないでいる。なかなか素直になれないふたりを見守りつつ、ここぞという時にはぐっと接写するほどに寄って悶絶する。そうした様子を見て、ああ睡蓮は壁になりきれない壁なんだなと。より機動的な壁なのだなと思ったりしているのです。

睡蓮という壁は、読者の視点そのもので、さらにいえば、作者と読者が重なりあう視座なのかも知れません。この漫画の楽しみは、睡蓮の暴走気味妄想を面白がるというのがあって、そして睡蓮ポジションから見る紫陽花、椿の関係の広がりを愛でるというものがあって、比重としては後者がより大きいと感じます。この漫画のはじまった当初は、毎回睡蓮の注目する女子カップルは変わっていったりするのかな? みたいなこと思ったりしたっていってましたが、今となって思うにです、紫陽花、椿のカップルをこうして重ねて描いてきたことで、よりその重みは増して、メインとなるうまみが濃くなっていってるよな、なんて思うんですね。ええ、すっかり、椿、紫陽花にもっていかれてしまっているんですね。

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