2008年6月23日月曜日

百舌谷さん逆上する

 篠房六郎の『百舌谷さん逆上する』第1巻は本日発売です。その発売が『アフタヌーン』本誌にて告知されたその日、私は手帳にその旨記載して、今日の来るのを待ちに待ったのでした。なぜか? 好きだからです。篠房六郎が、篠房六郎の描く漫画が好きだからです。途方もなくばかばかしいネタ、どこまで本気なんだかわからない妙なテンションの影に、シリアスな顔がかいま見える。はたしてどちらが真実の篠房なのだろう。苦笑、失笑から切々と胸を痛めて涙を流すまでに心は振り回されて、ああもう最高だ。たまたま買った『こども生物兵器』にはじまり、『ナツノクモ』で完全に心持っていかれた。そして今『百舌谷さん逆上する』。『こども生物兵器』の匂いを多少残しつつも、しかしやっぱり篠房六郎。悪趣味悪乗りのふりをして、その実は、胸の奥をぐっと押すよな人の悲しさを切なく唄っている — 。ああ、そうさなあ、不器用者たちのエレジーとでもいった趣があるってわけさ。

不器用者、それはこの漫画のヒロインである百舌谷小音を筆頭にして、樺島がそうであり、竜田がそうであり、千鶴がそうであり — 。ギャングエイジから思春期にさしかかる年ごろ、誰もが自分の思いに戸惑い素直でなんかいられない。そんな時期を過ごす彼らがみな主人公といっていいのかも知れません。しかし、通常の発達過程にある竜田や千鶴とはちがう位置にいる百舌谷小音、ヨーゼフ・ツンデレ博士型双極性パーソナリティ障害を抱える彼女だけはなお重い現実を背負わされて、それが切ないのですね。愛すればきっと傷つけてしまう — 。ツンデレという障碍のあるために。わかっているのに、衝動を止めることができない。そんな彼女は、誰かを傷つけてきたその度に、傷ついてきたのでしょう。その結果が、人に愛されることを望まず、人を愛することも望まない今の生き方。期待することをあきらめ、割り切った人間関係の中で暮らす彼女は、世界を憎み、他人を呪い、しかしそれ以上に自分自身を痛めつけている。それがもう切なくて、悲しくて、心が乱れてたまらないのです。

以前、私はいっていました。

どこかに問題を抱えた人物ばかりが出てきる漫画でした。そして私は彼らのうちに私自身を見ていました。[中略]自尊感情の欠如が引き起こしている諸問題、誰もが愛をせがんでいるのに、愛し方も愛され方もわからずにとまどっている、そんな漫画でした。だからこそ、この漫画は特別であったのです。自分自身の価値を信じられない自分にとって、この漫画の登場人物たちは他人ではなかった、一人一人が厳しい問い掛けを突きつけてくる、そんな存在であったのです。

篠房六郎の『ナツノクモ』についての文章です。そう、私はあの漫画の登場人物たちに自分自身を重ねて見ていた。彼らの問題を自分の問題として見ていたのです。そして、私は今、百舌谷小音の問題を自分に引きつけようとしています。愛を求めつつ得られない悲しさ、愛したくとも愛し方がわからない戸惑い。確かに百舌谷小音の事例は極端で、それはそれはギャグそのものなのですが、しかし人の心に戸惑いと怯えを感じ、自分自身をゴミのように感じている彼女の絶望に似た思いは、私の中にだってあるのです。そして、おそらくは誰もが同じものを持っていて、うずく痛みに苦しんでいるのでしょう。私たちは、多かれ少なかれ同じ苦しみを抱える、いわば同胞であるのです。

あんまり真面目に書くつもりではなくて、それこそ、むごは!!? とか、師匠最高、あんな師匠に巡り合いたかった云々、馬鹿なこと書いて終わりたかったんですが、どうしてもツンデレの悲しみにとらわれて、辛気臭くなってしまいましたね。けれど、私にはうずく感情を無視することができませんでした。私の心のうちが、見たいものも、見たくないものも、なにもかもがあらわにされるような篠房六郎の漫画のコマの運び、台詞の流れ、一挙手一投足に、どうしても黙ってなんていられない、そんな思いになってしまいました。そうなんです。篠房六郎はすごいのです。私の心のうちを覗くかのような漫画を描く。だから私は、この人の漫画を読むたびに、喜びとともに高揚し、悲しみに暮れ悶えるのです。そこには私の欲しかった言葉がある、私を包み、力づけ、叱咤する言葉があるのですから。過去にもあった、そして今も。変わらず氏は私の胸底にどしどし届く漫画を描いて、だから私はこの人から目を離すことができない!

私は全力で『百舌谷さん逆上する』を支持します。

引用

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