2007年2月15日木曜日

Beethoven : Piano Sonata No. 1 In f, Op. 2, No.1 played by Glenn Gould

 グレン・グールドはやってくれるなあ、ってとりわけ思うのは、他でもない、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ聴いているときじゃないかと思うんです。ベートーヴェンというと、自立した音楽家の走りであり、耳が聞こえなくなるというハンデを克服した意志の人。その表情には色濃く苦悩がにじみ出て、俺の音楽を聴けといわんばかり。かくしてベートーヴェンの作品たるや、堂々とそびえ立つ金字塔か、いや大伽藍か。荘厳にして偉大、堅牢にして剛健、重厚、雄大、などなど、そういう表現がこれほど似合う音楽家もなかなかいないのではないかと思うのですが、それをグールドという人は、コケティッシュというかなんというか、非常に愛らしく弾いてみせて、その異質さぶりにはあきれるやら笑ってしまうやら。けれど、それが決して馬鹿馬鹿しいおふざけに終わっていないところに彼の価値というのがあるのだろうと思います。

いや、しかし驚きますよ。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第1番、あの、たったったったたーりらりら、という、打ち上げ花火式に上昇して下降する音形。いや、確かにあれはある程度の軽快さはあっていいと思うのですが、けどそこまでやる必要ってあるのか? と疑問に思うくらい軽快で、一音一音の歯切れも実に際立っていて、そして時に挿入されるアルペジオや装飾音。実にこれがベートーヴェンとは思われない。バロック・ベートーヴェン? それともロココ・ベートーヴェン? でも紛れもないベートーヴェンなのです。ただ、耳慣れない響き、解釈、表現であるというだけで、総体を見ればやはり紛れもないベートーヴェンであるのです。

しかし、痛快ですよ。グールドが活躍していた時代っていうと、19世紀的ロマンチックの時代を抜けて、徐々に作曲家の真実を求めようという古典派返り咲きの時期にあたると思うんですが、この人、そんなことまったく意に介していませんから。ロマンチックの時代、すなわち演奏家の情念が音楽に込められてジャジャジャジャーンみたいな時代であっても、こんな、グールドみたいな演奏をする人はいませんでしたし、作曲家の意図するところを再現しようという動きにあってもそれは同様で、なぜあえてベートーヴェンをこんな風に弾かねばならんのかが疑問といった具合で、相当批判されたらしいんですが、結局グールドはねじ伏せるでも説得するでもなく、こんなのもありなんだ、ってな具合に我が道をいってしまったんですね。エキセントリックなグールドという評判を追体験したければ、この人のベートーヴェンを聴くかあるいはショパンを聴くか、このへんが双璧だと思うのですが、いや、本当に一般に浸透しているらしさに挑戦する演奏でたまげます。

ですが、最初こそは驚くものの、私はこの人の残した録音を聴いて、聴いて、そしてこういうのでいいんだと思うようになった。いや、もうちょっと正確にいうと、こういうのがいいんだと思う。だって、私たちは結局はベートーヴェンの真実を知らない。伝聞や資料が彼の当時の音楽を間接的に伝えてくれるとはいえ、それは結局は鳴り響いた音とは違うわけで、今私たちの耳の奥に響くベートーヴェンらしさの妥当性なんてのもほんとのところはどうだかわからんのです。ベートーヴェンの時代から現在に至るまでの数百年の間に、彼の像はどんどん偉大に立派に肥大化してきたのだし、それは音楽においても同様で、より堂々と、よりアグレッシブに変容してきた過程が存在する以上、そうした後に積み上げられてきたベートーヴェン像にあえてそっぽを向くようなグールドのアプローチはむしろなくてはならなかったのだと思います。確かにやり過ぎかも知れません。けど、まだバロックやロココの趣味が残ってただろうあの時代、ベートーヴェンの同時代人たちは彼のソナタをどのように受容したのか。ましてや初期ソナタです。このように考えると、グールドの演奏のもっともらしさというのは馬鹿にできない。こんなのもあっていいかも知れない。学究的態度や伝記、伝説の類いを尻目に、音楽という素材に向き合って、ベートーヴェンはこんな風にも演奏できるんだとやってみせたあの鳴り響きの面白さ。やっぱり、私はこれほどにスリリングで痛快な演奏はないと思うのです。

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