2019年12月20日金曜日

この世界の(さらにいくつもの)片隅に

 迫る年の瀬。クリスマス目前というこの時期に見るにはいい映画なのではないか。そんなことを思わせてくれる『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』。冒頭、幼少のすずが訪れる中島本町は年の瀬、クリスマスを目前として活気に溢れたにぎわいを見せています。時代は戦前、この頃にはこうして皆でクリスマスを心待ちにする、そんな余裕も豊かさもあったのだなと思わされる印象的な導入です。さて『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は、映画『この世界の片隅に』に新規カットを加えた長尺版。しかし、ただ時間が長くなりました、エピソードが増えましたというだけにとどまらない、以前の版ではそっと隠されていたものが表に現れてくる、そんな凄みのある改変。いや、時間を短く整えるため、あえてテーマひとつを慎重に取り除かれたのが2016年版というべきなのかも知れません。しかし、キーとなるエピソードをオミットするだけで、ほぼ全編にわたるテーマがそっと隠されてしまうものなのですね。

取り除かれていたエピソード、それは遊廓に暮らす白木リンにまつわるものが中心になるのですが、このリンという女性、2016年版では迷子になったすずに帰り道を教えてくれるくらいでしか物語に関わってこず、幼少のすずが祖母の家で出会った座敷童子のエピソードがあって、リンとの再会があって、確かに重要なキーワード「誰でも、この世界でそうそう居場所はのうなりゃせんのよ」をすずに伝えはしたものの、なぜこの大きく物語に関わってこなかった女性をあんなにすずは気にかけていたのか、なぜクラウドファンディング参加者がクレジットされる第2エンドロールにて彼女の生い立ちが描かれることとなったのか。その扱われ方に疑問を持った人もあったかも知れません。

原作を読めばわかることなのですが、白木リンはこの物語において重要な役割を担っていて、それこそもうひとりの主人公といってもいいくらいの重みのあるキャラクターです。それだけに、2016年版で彼女にまつわるエピソードの多くがカットされてしまっていたことを残念に思う声も多く聞かれ、しかしながらそれでも圧倒的な表現の力を持った映画です、その価値は揺るぎなく、リンのエピソード抜きであってもこれを大切な宝物のように思った人も多くあったことでしょう。またその見事さがために、リンの物語も加わったならばどれほどのものになったろう、複雑な思いを抱いた人もあったろうと思うのです。

ええ、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は、かつては望もうともかなわなかった、リンの物語を含む映画『この世界の片隅に』。待ちに待ったといってもおかしくない。事実私は、封切日が近づくにつれて、どんどん落ち着かなくなってしまっていました。

映画の感想は映画を見る人、それぞれのために今日は書かずにおきたい。けれど、それでもあえて書こうとすれば、エピソードの持つテーマを表現手法からがらりと変えて際立たせていた原作の方がわかりやすかったと感じたものがあった反面、原作とはまた違う思いの兆した場面も多々あって、これは漫画とアニメという表現手法の違いや、あるいはその表現にのせられた作り手の考え、思い、その違いであるのかも知れません。

そして今日この映画を見終えた私の心に残った手触り。それは、戦争が終わったらもう大丈夫、一安心とはいかないんだなということでした。かつて、北條のお母さんのいったこと、大ごとじゃと思えた頃がなつかしい、これが何度も反響するように思われたのです。暮らしが立ちゆかなくなるほどの大ごとに見舞われた北條家だけれど、後にやってきたそれ以上の大ごとに翻弄されることとなって、しかしその大ごとが過ぎたとしても、身の回りに大ごとは次から次へとやってくる。

戦争のさなかでも戦争に関わらぬ不幸はあって、戦争が終わっても災難はかまわずふりかかってくる。人が生きていくということは、時々の大ごとに対峙し続けることに他ならぬのではないか。ことに大小あれど、大ごとを前にうろたえたり、不幸にうちのめされたりし続けるのが人生であり、また同時に、どのような時にも嬉しいと思うこと、楽しいと思うこと、誰かを慈しむこと、苦しみもさいわいもそばにあり続けるのが生きるということなのではないか。

それはすずさんたちの人生にしても、令和の時代に生きる私にしても、なにも変わるところはないのかも知れない。時にうろたえ、時に笑って、悲喜こもごもの人生をまっとうしようとする営為、それこそは日々の暮らしを大切に生きるということなのかも知れない — 。

書きすぎました。皆さんも一度、映画をご覧になってください。

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